性善説と性悪説

 性善説と性悪説は、一般的には二項対立的に把握されていると思います。性善説と性悪説のどちらが正しいのか、といった問いかけは、そう頻繁にあるものではないとしても、きょくたんに珍しいものでもないでしょう。ネット上はとくにそうですが、「現実主義者」を自認している人の声は大きいので、「性善説は間違っており、性悪説が正しい」という見解は間違っているのではないか、とでも疑問を呈したならば、直ちに幼稚だとかお人好しだとか散々に罵倒・嘲笑されそうです。しかし私は、「性善説は間違っており、性悪説が正しい」という見解は間違っている、と確信しています。

 こうした二項対立的な問いかけにたいして、そもそも善と悪は固定的ではない、という根本的な批判もあるでしょう。たとえば、多くの社会で勇敢は善として称賛され、臆病は悪として蔑視されるでしょうが、勇敢はしばしば軽率や粗暴と結びつきますし、臆病が冷静で慎重な態度と結びつくことも、きょくたんに珍しいわけではないでしょう。とはいえ、もちろん厳密には状況により変わってくることもあるとはいえ、善としての利他性や悪としての利己性など、かなり普遍的な性格を有する資質も少なくないでしょう。やや大雑把になるとはいえ、性善説と性悪説という二項対立的把握にも有効なところはあるだろう、とは思います。

 一方、中国古代史研究からは、異なる認識も提示されています(平勢.,2005,P307-308)。人間は上上聖人・上中仁人から下下愚人まで9等に区分され、これを上人・中人・下人に3区分しなおすと、中人以上について性善説を主張したのが孟子で、中人以下について性悪説を主張したのが荀子なので、性善説と性悪説は相互に排他的ではなく補完的だった、というわけです。平勢氏の評判はたいへん悪いようなので、どこまで信用してよいものなのか疑問も残りますが、私の見識ではこの見解の妥当性をとても判断できません。ただ、なかなか興味深い見解だと思います。

 私は別の意味で、性善説と性悪説は相互に補完的と考えています。『暴力の人類史』が、人間の心には「5つの内なる悪魔」と「4つの善なる天使」が内在しており、その基本的設計は進化のプロセスに負っている、と説くように(関連記事)、人間には善へと向かう心も悪へと向かう心も生得的に備わっているのではないか、というわけです。その意味で、性善説と性悪説はともに、部分的に正しく、また部分的に間違っており、相互補完関係にある、と私は考えています。

 もちろん、教育も含めて環境は、善悪のどちらに人間を傾かせるのか、という点で決定的に重要です。しかし、そもそも人間には善へと向かう心も悪へと向かう心も生得的に備わっている、という認識を無視して、教育も含めて社会制度を設計していけば、その害悪はたいへん大きくなるのではないか、と思います。その意味で、人間の心は誕生時には「まっさら」で、教育も含めて社会環境次第で善人にも悪人にもなり得る、というような考えは、根本的に間違っているだけではなく、たいへん危険で有害でもある、と私は考えています。


参考文献:
Pinker S.著(2015)、幾島幸子・塩原通緒訳『暴力の人類史』上・下(青土社、原書の刊行は2011年)、関連記事

平勢隆郎(2005)『中国の歴史02 都市国家から中華へ』(講談社)

この記事へのコメント

kurozee
2019年07月16日 00:17
この記事は劉さんらしくないですねえ。とはいえ、まあ、性善と性悪は相互補完関係にあるとのご意見ですから、少しはほっとしますが。私自身は、「ヒトの本性が善か悪か」というのは、そもそも問題として成立しないという考え方です。
ある行動が善であるか悪であるかは絶対的ではあり得ず、その時代や社会や評者の立場によってだけではなく、その時々の状況によって相対的にしか決められないと思います。善としての利他性、悪としての利己性などが普遍的な性格を有する資質であるというのもステレオタイプではないですか。現実社会では利己のために利他であることもあるわけで、それを善悪に当てはめることは無理だと思います。ヒト以外の生物の「利他的行動」が善というわけでもないでしょう。
それと、そもそも人に「本性」というものがあるのかないのか。いわゆる「生物的な本能」はあるとしても「本性」とは何か?もし仮にホモサピエンスにそれがあるとするなら、それは状況に応じた行動選択の柔軟で幅広い適応力であって、善悪とは関わりないものだと思います。
こういう考え方は、「根本的に間違っているだけではなく、たいへん危険で有害」でしょうか?
2019年07月16日 03:09
行動選択の柔軟性と高い適応力は確かに現生人類の重要な特徴ですが、それでも他の動物と同じく、進化の過程で獲得した生得的傾向が行動の方向性を規定している側面は多分にある、と私は考えています。

それを善悪の観点で把握することに対する批判があるのは、当然だとは思います。

善悪を固定的に把握することへの批判には一応本文でも言及したつもりなのですが、厳密には絶対的ではないとはいえ、分類・区分して程度の違いを見出す能力は、現生人類の間でとりわけ発達したものなので、そこを重視してかなりの程度の普遍性を有する善悪も想定できるのではないか、というのが私の見解です。
kurozee
2019年07月16日 13:52
「生得的傾向が行動の方向性を規定している側面」があること、またヒトが「分類・区分して程度の違いを見出す能力」に優れていることには大いに同意できます。
ただ、「善悪の区分」については、「厳密には絶対的ではない」というレベルではなく、原理的に相対的な概念であり、ヒトの生得的な行動を区分けする基準にはならないと思っているだけです。
普遍性を有する善悪の例として、「利己的・利他的な行為」を示しておられます。たしかにアフリカの狩猟採集民も含めた現代世界の中で「利己的行為はあまり良いことではない」とされているのは確かですが、利己的で自己中心的な行為ばかりするトランプ大統領などはまさにそのような人物だと思い、ほんとうにいやな奴だと感じますが、「悪人」と決めつけることはできないでしょう。逆に、なにかの慈善団体で利他的な行為に励む人について、世間一般から「善人」と思われているかというと、そうでもないと思います。
私にとって、「好き/嫌い」や「いい奴/いやな奴」の区別は概ね世間一般と大差ないと思いますが、それが「善悪」の区分かというと違うと思うのです。ひょっとすると、哲学的な善悪概念と、世間の善悪基準とは範疇が異なる問題だということなのかもしれません。
2019年07月17日 01:33
正直なところ、哲学的な善悪概念を持ち出されると、哲学に疎く、この問題を基本的に通俗的な基準で述べている私には、善悪は原理的に相対的な概念との指摘にたいしても的確な返答はできず、申し訳ありません。

善悪の哲学的考察などは、ほとんどまともにしてこなかったので、この問題に関しては論理構成を見直して、新たに組み立てていかねばならないな、と考えています。

この記事へのトラックバック