「縄文人」とアイヌ・琉球・「本土」集団との関係(追記有)
追記(2021年9月6日)
Y染色体ハプログループ(YHg)と日本人や皇族との関係についての2021年9月初頭時点での私見は、この記事とはかなり異なりますので、別の記事にまとめました。この記事では今後コメントを受け付けません。
日本列島の人類集団は、大別すると、北海道のアイヌ、本州・四国・九州を中心とする「本土」、南方諸島の琉球に三区分されます。日本列島も含めてユーラシア東部圏の古代DNA研究は、ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較すると大きく遅れているのですが、進展しつつあるのは間違いないでしょう。日本列島に関しても、縄文時代の人類のDNA解析結果が蓄積されつつあります。近年では、解析の容易なミトコンドリアDNA(mtDNA)だけではなく、核DNA解析も報告されており、「縄文人」の遺伝的データは以前よりもずっと豊富になった、と言えるでしょう。現時点での縄文人の核DNA解析結果は、3000年前頃となる福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚(関連記事)、2500年前頃となる愛知県田原市伊川津町の貝塚(関連記事)、3800年前頃となる北海道の礼文島の船泊遺跡(関連記事)からのものが報告されています。このうち高品質のゲノム配列が得られているのは、船泊遺跡の縄文人です。
これら縄文人の核DNA解析から現時点でまず言えるのは、縄文人は既知の古代および現代の各地域集団との比較において、一つの分類群を形成するほど遺伝的に類似している、ということです。もちろん、今後ユーラシア東部において、縄文人と遺伝的により類似した古代集団が発見される可能性は低くありませんが、おそらく縄文人はユーラシア東部から日本列島到来した複数の集団の融合により形成されたので、縄文人そのものという遺伝的構成の古代集団が発見される可能性はかなり低いでしょう。考古学的にも、縄文文化は比較的孤立していることから(関連記事)、今後西日本の縄文人のDNA解析が進展しても、縄文人が、既知の古代および現代の各地域集団との遺伝的比較において、一つの分類群を形成する可能性はたいへん高い、と私は考えています。おそらく縄文人は、完全に一致するわけではないとしても、おおむね日本列島限定の孤立した文化集団で、遺伝的にも近隣地域の各地域集団とは明確に区別できただろう、と私は考えています。
次に言えるのは、縄文人は現代の各地域集団との遺伝的比較で、大きくはアジア東部集団の変異内に収まりますが、その中でも日本列島も含めて沿岸部の地域集団とより類似している、ということです。これは、縄文人の祖先集団が、アフリカからユーラシア南岸経由でアジア南東部まで東進し、そこから北上したことを示唆します。あるいは、両者の類似性は一定以上の遺伝子流動の結果かもしれません。考古学的観点からは、シベリア中部のバイカル湖周辺地域に由来すると思われる細石刃が、北海道では25000年前頃以降、日本列島「本土」では20000年前頃以降に見られるので、縄文人の祖先集団の一源流として、北方からの流入も想定しておくべきかもしれません。また、縄文人は更新世に日本列島に拡散してきた集団の子孫である可能性が高いことも、縄文人のDNA研究では指摘されています。
日本列島の各集団と縄文人との関係について諸研究で一致しているのは、縄文人との遺伝的近縁性の順番が、近い方からアイヌ集団→琉球集団→本土集団になる、ということです。船泊遺跡の縄文人のゲノムデータからは、縄文人の遺伝的影響は、アイヌ集団では66%、本土集団では9~15%、琉球集団では27%と推定されています。もちろん、これは幅の大きい推定値なので、今後修正される可能性は高いでしょう。とくに問題となるのは、西日本の縄文人のゲノムデータが得られていないことです。西日本の縄文人との比較では、本土集団への縄文人の遺伝的影響が20%程度になる可能性も提示されています(関連記事)。また、西日本の縄文人の遺伝的構成は既知の東日本の縄文人のそれとは一定以上異なっている可能性が高そうです。そうだとすると、縄文人の遺伝的多様性は現時点での推定より高くなりそうですが、それでも、古代および現代の各地域集団との比較において、縄文人が一つの分類群を形成する可能性は高いと思います。遺伝的影響の推定値に幅がありますし、各集団の違いも大きそうですが、現代日本人が縄文人の遺伝的影響を一定以上受けていることは間違いないでしょう。
この縄文人と現代の日本列島の各集団との遺伝的継続性についてネットでよく言われているのが、Y染色体DNAハプログループ(YHg)です。縄文人ではYHg- D1bが確認されており、それは現代の日本列島の各集団でも高い割合で確認されています。本土集団でも35.34%と高いのですが、アイヌ集団では81.3%と顕著に高くなっています(関連記事)。このことから、現代日本人の独自性および朝鮮半島や中華地域など近隣地域との違いを強調する見解が、「愛国的な」人々の間では常識になっている感があります。うっかり本土集団と朝鮮人集団や漢人集団との遺伝的類似性を指摘しようものなら、最新の「科学的知見」を無視して捏造に励む「反日左翼」扱いされかねません。じっさい、最近の研究でも、現代日本人のYHg- D1bは縄文人由来と推測されています(関連記事)。しかし、複数の縄文人の核DNA解析で明らかなように、そもそも縄文人は、ユーラシア東部集団という枠組みの中では、既知および古代の各地域集団とは遺伝的に遠い関係にあり、現代日本人の圧倒的多数派である本土集団が、縄文人よりも朝鮮人集団や漢人集団の方と遺伝的に近縁であることは、とても否定できません。mtDNAハプログループ(mtHg)でも、現代日本人と朝鮮人や漢人との類似性が指摘されています。
では、YHgとmtHgや核DNA(この場合、常染色体DNAと言うべきかもしれませんが)で、現代日本人とその近隣集団との遺伝的類似性が異なることはどう説明されるべきなのでしょうか。一つ考えられるのは、縄文時代の後に、アイヌ集団は本土集団とは異なり、朝鮮人集団や漢人集団と近縁な系統の遺伝的影響をほとんど受けなかったために高頻度でYHg- D1bが残り、一方本土集団は朝鮮人集団や漢人集団と近縁な系統から強い遺伝的影響を受けたものの、6世紀前半に父系継承の王族(皇族)を確立した氏族がYHg- D1bだったため、臣籍降下した天皇の父系子孫である武士(源氏や平氏、もちろん父系が皇族にさかのぼらない武士も多数いましたが)の勢力拡大により、再度YHg- D1bの頻度が本土集団において増加した、ということです。
もう一つ考えられるのは、現代日本人のYHg- D1bのうちかなりの割合が、弥生時代以降にアジア東部から日本列島に到来した、朝鮮人集団や漢人集団と近縁な系統の農耕民もしくは特定の技術集団に由来する、ということです(関連記事)。現在、朝鮮人集団や漢人集団にはYHg- D1bがほとんど見られませんが、これは南北朝時代や五代十国時代なども含めてユーラシア東部における青銅器時代以降の人類集団の移動の結果で、かつてはアジア東部にも広範にYHg- D1bが存在したのではないか、というわけです。この仮説の検証は、ユーラシア東部における古代DNA研究の進展を俟つしかありませんが、傍証として、縄文人のYHg- D1bでは、最近までYHg-D1b2aしか確認されておらず(関連記事)、最近公表された船泊縄文人もYHg- D1b2bだったことが挙げられます。しかし、現代日本人のYHg- D1b のうち、多数派はYHg- D1b 1です。YHg- D1bにおける合着年代は19400年前頃と推定されており(関連記事)、アジア東部でYHg-D1b1とYHg-D1b2が分岐し、日本列島へは、末期更新世までにYHg-D1b2系統が、弥生時代以降にYHg- D1b2bが拡散した、とも考えられます。もちろん、まだ西日本の縄文人のYHgは明らかになっていないので、それがYHg-D1b1で、YHg-D1bの分岐は後期更新世に日本列島で起きた可能性も考えられます。やはり、この仮説の妥当性も古代DNA研究の進展を俟つしかありません。
なお、「アイヌ民族が12世紀ごろ樺太から北海道に渡来した」というような見解がネットで拡散されつつあるようですが、その遺伝学的根拠は北海道の人類集団におけるmtHgの構成の変容を誤解したもので、とても通用する話ではありません(関連記事)。これまでのDNA解析からは、現代の日本列島の各集団のなかで、アイヌ集団が最も強く縄文人の遺伝的影響を保持していることは否定できないでしょう。もちろん、アイヌ集団は縄文人の「純粋な子孫」ではなく、オホーツク文化集団の遺伝的影響も強く受けています。
縄文人の文化、とくに言語の影響については、以前当ブログで短く取り上げましたが(関連記事)、確定はほぼ不可能でしょう。現時点で考えられる組み合わせは、アイヌ語と日本語がそれぞれ縄文人の言語系統だったのか否か、という4通りです。どちらも縄文人の言語系統だった場合、縄文人の言語は地域により大きく異なり、別系統が共存していたことになります。この場合、アイヌ語系統はサハリン経由で北海道へ流入した細石刃文化集団に由来し、日本語系統はその他の経路で日本列島へ流入した集団に由来した、と推測されます。日本語が縄文人の言語に由来しない場合、弥生時代にアジア東部から日本列島へと農耕をもたらした集団か、弥生時代に先駆けて縄文時代後期~晩期に、ユーラシア東部から日本列島に渡来してきた集団に由来している、と推測されます。アイヌ語が縄文人の言語に由来しない場合、その起源となる有力候補はオホーツク文化集団でしょう。
日本語系統(日本語および琉球語)もアイヌ語も「系統不明」とされていますが、それは、近縁な言語がかつてユーラシア東部に少なからず存在したものの、後に絶滅してしまったためではないか、と考えられます。なお、本土集団では弥生時代以降にアジア東部から日本列島へと流入してきた農耕民および特定技術集団の遺伝的影響が縄文人よりもずっと高いと推定されているのに、日本語が縄文人の言語に由来するとは考えにくい、との批判もあるとは思います。しかし、弥生時代以降にアジア東部から日本列島へと到来した集団が、大挙して押し寄せたのではなく、じょじょに流入してきて、後に人口増加率の違いから縄文人系を遺伝的影響度で圧倒したのだとしたら、縄文人の言語が日本列島で話され続けたとしても不思議ではないと思います(関連記事)。バヌアツの事例(関連記事)からも、遺伝的構成の大規模な変容を経ても、在来集団の言語が話され続ける可能性はじゅうぶんあるでしょう。
Y染色体ハプログループ(YHg)と日本人や皇族との関係についての2021年9月初頭時点での私見は、この記事とはかなり異なりますので、別の記事にまとめました。この記事では今後コメントを受け付けません。
日本列島の人類集団は、大別すると、北海道のアイヌ、本州・四国・九州を中心とする「本土」、南方諸島の琉球に三区分されます。日本列島も含めてユーラシア東部圏の古代DNA研究は、ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較すると大きく遅れているのですが、進展しつつあるのは間違いないでしょう。日本列島に関しても、縄文時代の人類のDNA解析結果が蓄積されつつあります。近年では、解析の容易なミトコンドリアDNA(mtDNA)だけではなく、核DNA解析も報告されており、「縄文人」の遺伝的データは以前よりもずっと豊富になった、と言えるでしょう。現時点での縄文人の核DNA解析結果は、3000年前頃となる福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚(関連記事)、2500年前頃となる愛知県田原市伊川津町の貝塚(関連記事)、3800年前頃となる北海道の礼文島の船泊遺跡(関連記事)からのものが報告されています。このうち高品質のゲノム配列が得られているのは、船泊遺跡の縄文人です。
これら縄文人の核DNA解析から現時点でまず言えるのは、縄文人は既知の古代および現代の各地域集団との比較において、一つの分類群を形成するほど遺伝的に類似している、ということです。もちろん、今後ユーラシア東部において、縄文人と遺伝的により類似した古代集団が発見される可能性は低くありませんが、おそらく縄文人はユーラシア東部から日本列島到来した複数の集団の融合により形成されたので、縄文人そのものという遺伝的構成の古代集団が発見される可能性はかなり低いでしょう。考古学的にも、縄文文化は比較的孤立していることから(関連記事)、今後西日本の縄文人のDNA解析が進展しても、縄文人が、既知の古代および現代の各地域集団との遺伝的比較において、一つの分類群を形成する可能性はたいへん高い、と私は考えています。おそらく縄文人は、完全に一致するわけではないとしても、おおむね日本列島限定の孤立した文化集団で、遺伝的にも近隣地域の各地域集団とは明確に区別できただろう、と私は考えています。
次に言えるのは、縄文人は現代の各地域集団との遺伝的比較で、大きくはアジア東部集団の変異内に収まりますが、その中でも日本列島も含めて沿岸部の地域集団とより類似している、ということです。これは、縄文人の祖先集団が、アフリカからユーラシア南岸経由でアジア南東部まで東進し、そこから北上したことを示唆します。あるいは、両者の類似性は一定以上の遺伝子流動の結果かもしれません。考古学的観点からは、シベリア中部のバイカル湖周辺地域に由来すると思われる細石刃が、北海道では25000年前頃以降、日本列島「本土」では20000年前頃以降に見られるので、縄文人の祖先集団の一源流として、北方からの流入も想定しておくべきかもしれません。また、縄文人は更新世に日本列島に拡散してきた集団の子孫である可能性が高いことも、縄文人のDNA研究では指摘されています。
日本列島の各集団と縄文人との関係について諸研究で一致しているのは、縄文人との遺伝的近縁性の順番が、近い方からアイヌ集団→琉球集団→本土集団になる、ということです。船泊遺跡の縄文人のゲノムデータからは、縄文人の遺伝的影響は、アイヌ集団では66%、本土集団では9~15%、琉球集団では27%と推定されています。もちろん、これは幅の大きい推定値なので、今後修正される可能性は高いでしょう。とくに問題となるのは、西日本の縄文人のゲノムデータが得られていないことです。西日本の縄文人との比較では、本土集団への縄文人の遺伝的影響が20%程度になる可能性も提示されています(関連記事)。また、西日本の縄文人の遺伝的構成は既知の東日本の縄文人のそれとは一定以上異なっている可能性が高そうです。そうだとすると、縄文人の遺伝的多様性は現時点での推定より高くなりそうですが、それでも、古代および現代の各地域集団との比較において、縄文人が一つの分類群を形成する可能性は高いと思います。遺伝的影響の推定値に幅がありますし、各集団の違いも大きそうですが、現代日本人が縄文人の遺伝的影響を一定以上受けていることは間違いないでしょう。
この縄文人と現代の日本列島の各集団との遺伝的継続性についてネットでよく言われているのが、Y染色体DNAハプログループ(YHg)です。縄文人ではYHg- D1bが確認されており、それは現代の日本列島の各集団でも高い割合で確認されています。本土集団でも35.34%と高いのですが、アイヌ集団では81.3%と顕著に高くなっています(関連記事)。このことから、現代日本人の独自性および朝鮮半島や中華地域など近隣地域との違いを強調する見解が、「愛国的な」人々の間では常識になっている感があります。うっかり本土集団と朝鮮人集団や漢人集団との遺伝的類似性を指摘しようものなら、最新の「科学的知見」を無視して捏造に励む「反日左翼」扱いされかねません。じっさい、最近の研究でも、現代日本人のYHg- D1bは縄文人由来と推測されています(関連記事)。しかし、複数の縄文人の核DNA解析で明らかなように、そもそも縄文人は、ユーラシア東部集団という枠組みの中では、既知および古代の各地域集団とは遺伝的に遠い関係にあり、現代日本人の圧倒的多数派である本土集団が、縄文人よりも朝鮮人集団や漢人集団の方と遺伝的に近縁であることは、とても否定できません。mtDNAハプログループ(mtHg)でも、現代日本人と朝鮮人や漢人との類似性が指摘されています。
では、YHgとmtHgや核DNA(この場合、常染色体DNAと言うべきかもしれませんが)で、現代日本人とその近隣集団との遺伝的類似性が異なることはどう説明されるべきなのでしょうか。一つ考えられるのは、縄文時代の後に、アイヌ集団は本土集団とは異なり、朝鮮人集団や漢人集団と近縁な系統の遺伝的影響をほとんど受けなかったために高頻度でYHg- D1bが残り、一方本土集団は朝鮮人集団や漢人集団と近縁な系統から強い遺伝的影響を受けたものの、6世紀前半に父系継承の王族(皇族)を確立した氏族がYHg- D1bだったため、臣籍降下した天皇の父系子孫である武士(源氏や平氏、もちろん父系が皇族にさかのぼらない武士も多数いましたが)の勢力拡大により、再度YHg- D1bの頻度が本土集団において増加した、ということです。
もう一つ考えられるのは、現代日本人のYHg- D1bのうちかなりの割合が、弥生時代以降にアジア東部から日本列島に到来した、朝鮮人集団や漢人集団と近縁な系統の農耕民もしくは特定の技術集団に由来する、ということです(関連記事)。現在、朝鮮人集団や漢人集団にはYHg- D1bがほとんど見られませんが、これは南北朝時代や五代十国時代なども含めてユーラシア東部における青銅器時代以降の人類集団の移動の結果で、かつてはアジア東部にも広範にYHg- D1bが存在したのではないか、というわけです。この仮説の検証は、ユーラシア東部における古代DNA研究の進展を俟つしかありませんが、傍証として、縄文人のYHg- D1bでは、最近までYHg-D1b2aしか確認されておらず(関連記事)、最近公表された船泊縄文人もYHg- D1b2bだったことが挙げられます。しかし、現代日本人のYHg- D1b のうち、多数派はYHg- D1b 1です。YHg- D1bにおける合着年代は19400年前頃と推定されており(関連記事)、アジア東部でYHg-D1b1とYHg-D1b2が分岐し、日本列島へは、末期更新世までにYHg-D1b2系統が、弥生時代以降にYHg- D1b2bが拡散した、とも考えられます。もちろん、まだ西日本の縄文人のYHgは明らかになっていないので、それがYHg-D1b1で、YHg-D1bの分岐は後期更新世に日本列島で起きた可能性も考えられます。やはり、この仮説の妥当性も古代DNA研究の進展を俟つしかありません。
なお、「アイヌ民族が12世紀ごろ樺太から北海道に渡来した」というような見解がネットで拡散されつつあるようですが、その遺伝学的根拠は北海道の人類集団におけるmtHgの構成の変容を誤解したもので、とても通用する話ではありません(関連記事)。これまでのDNA解析からは、現代の日本列島の各集団のなかで、アイヌ集団が最も強く縄文人の遺伝的影響を保持していることは否定できないでしょう。もちろん、アイヌ集団は縄文人の「純粋な子孫」ではなく、オホーツク文化集団の遺伝的影響も強く受けています。
縄文人の文化、とくに言語の影響については、以前当ブログで短く取り上げましたが(関連記事)、確定はほぼ不可能でしょう。現時点で考えられる組み合わせは、アイヌ語と日本語がそれぞれ縄文人の言語系統だったのか否か、という4通りです。どちらも縄文人の言語系統だった場合、縄文人の言語は地域により大きく異なり、別系統が共存していたことになります。この場合、アイヌ語系統はサハリン経由で北海道へ流入した細石刃文化集団に由来し、日本語系統はその他の経路で日本列島へ流入した集団に由来した、と推測されます。日本語が縄文人の言語に由来しない場合、弥生時代にアジア東部から日本列島へと農耕をもたらした集団か、弥生時代に先駆けて縄文時代後期~晩期に、ユーラシア東部から日本列島に渡来してきた集団に由来している、と推測されます。アイヌ語が縄文人の言語に由来しない場合、その起源となる有力候補はオホーツク文化集団でしょう。
日本語系統(日本語および琉球語)もアイヌ語も「系統不明」とされていますが、それは、近縁な言語がかつてユーラシア東部に少なからず存在したものの、後に絶滅してしまったためではないか、と考えられます。なお、本土集団では弥生時代以降にアジア東部から日本列島へと流入してきた農耕民および特定技術集団の遺伝的影響が縄文人よりもずっと高いと推定されているのに、日本語が縄文人の言語に由来するとは考えにくい、との批判もあるとは思います。しかし、弥生時代以降にアジア東部から日本列島へと到来した集団が、大挙して押し寄せたのではなく、じょじょに流入してきて、後に人口増加率の違いから縄文人系を遺伝的影響度で圧倒したのだとしたら、縄文人の言語が日本列島で話され続けたとしても不思議ではないと思います(関連記事)。バヌアツの事例(関連記事)からも、遺伝的構成の大規模な変容を経ても、在来集団の言語が話され続ける可能性はじゅうぶんあるでしょう。
この記事へのコメント