1970年代に社会主義への道を批判した市井人
表題の記事を読みましたが、なかなか興味深い内容でした。この記事が取り上げている中村隆承氏は、おそらく有名ではなく、失礼ながら私も知りませんでしたが、優れた見識の持ち主だったようです。中村氏は1983年に49歳という若さで亡くなり、翌年『中村隆承遺稿集』が家族により自費出版されたそうです。インターネットの普及した現在なら、優れた見識を有する「市井人」が自分の考えを世に問うことは容易ですが、当時は、そうした「市井人」の考えが世に知られる機会は今よりずっと少なかった、と言えるでしょう。もちろん今でも、インターネットで公開するだけでは、テレビや発行部数の多い新聞・商業誌で取り上げられる場合よりもずっと影響力は低いわけですが、1980年代と比較して、「市井人」が世に意見を問う場合の難易度がずっと低くなり、その機会が飛躍的に増えたことは間違いないでしょう。もちろん、新たな技術の常として、インターネットの弊害も多いわけですが、それを上回るだけの利点があるだろう、と私は考えています。
上記の記事で紹介されている中村氏の見解は興味深いのですが、私の関心に引きつけると、まず注目したのが、マルクスとエンゲルスの社会発展の理論(史的唯物論)は社会の内在的要因を過度に重視しており、「内部矛盾による自己発展」という観点に依存しすぎている、との指摘です。もう20年近く前(2000年6月)に西尾幹ニ『国民の歴史』(扶桑社、1999年)を取り上げた時(関連記事)にも少し考えたのですが、「左翼」への嫌悪・憎悪の強い論者に、悪い意味で「左翼的な」発想が根強くあるように思います。『国民の歴史』に関しては、20年近く前に、「中国」の長期にわたる停滞と「日本」の内的発展が強調されている、と指摘しました。『国民の歴史』に「左翼」への強い嫌悪・憎悪があることは一読すれば明らかでしょうが、そうした論者にも悪い意味で「左翼的な」発想が根強くあることには、20世紀における史的唯物論の影響力の強さを改めて痛感させられます。今でも史的唯物論の影響は根強く、自覚せずに囚われてしまっている場合も多いのではないか、と思います。凡人の私もその例外ではないので、史的唯物論の悪影響については意識し続けねばなりませんし、その批判は今でも重要だと考えています。
上記の記事でもう一つ私が注目したのは、中村氏が、マルクスやエンゲルスの理論の中にある非科学な事例としてエンゲルスの『家族、私有財産、および国家の起源』と『自然弁証法』を挙げ、前者はモルガンの主著『古代社会』(1877年)の誤解にもとづく学説を鵜呑みにした、と評価していたことです。これに関しては、(通俗的)唯物史観の影響で一般にも広く浸透したと思われる、人類の「原始社会」は母系制だった、との見解に以前から興味があったので、当ブログでたびたび取り上げてきました。まず6年以上前(2013年2月)に、更新世の人類社会は母系制だったのか、という問題に軽く言及しました(関連記事)。その後、昨年(2018年)初めに唯物史観との関連で(関連記事)、今年初めには近親婚との関連で(関連記事)この問題を再度取り上げました。
これらの記事で私がずっと主張してきたのは、人類の「原始社会」を母系制と想定する唯物史観的な見解とは正反対に、むしろ人類は父系制的社会から始まった、というものです。当ブログで2013年2月にこの問題を取り上げて以降、この見解は変わらないというか、その後色々と調べるにつれて、ますます確信を強めています。ただ、これまで人類社会が父系的なのか母系的なのか単純化してきたところがある、と今では反省しています。そこで先々月(2019年5月)の記事では、現生人類(Homo sapiens)社会は高度な認知能力に由来する柔軟性により基本的に双系的で、父系的継承の社会が古代から世界で広く見られるのは、そもそも人類社会が他のアフリカの現生大型類人猿(ヒト科)と同じく父系的な社会から始まったためではないか、と考えを改めました。こうした柔軟な社会構造がいつ確立したのか、現時点では不明です。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)社会に関しては父系的と示唆されていますが(関連記事)、まだイベリア半島北部の1例にすぎず、あるいは現生人類とネアンデルタール人の共通祖先の時点で、かなりの程度柔軟な社会構造が確立していた可能性もある、と考えています。
なお、近年、唯物史観的な「原始乱婚説」がフェミニストの間で評価されている、との指摘もあります。その代表作と言えるかもしれない『性の進化論』を当ブログでも取り上げましたが(関連記事1および関連記事2)、人類社会における一夫一妻を基調とする通説には問題があり、今では捨てられてしまった唯物史観的な「原始乱婚説」にも改めて採るべきところがある、といったところで、唯物史観的な「原始乱婚説」とは似て非なるものだと思います。また、唯物史観で採用された「原始乱婚説」では、人類の「原始社会」は親子きょうだいの区別なく乱婚状態だったと想定されています。しかし、人類系統にはずっと近親婚を回避する生得的な認知メカニズムが備わっていた、と考えるのが妥当で、唯物史観的な「原始乱婚説」は、現在では少なくともそのままでは通用しないと思います。私は、『性の進化論』の見解が妥当である可能性を全否定するわけではありませんが、きわめて低いと考えていますし、仮に同書の見解が妥当だとしても、それを唯物史観の復権と評価することは妥当ではないでしょう。
上記の記事で紹介されている中村氏の見解は興味深いのですが、私の関心に引きつけると、まず注目したのが、マルクスとエンゲルスの社会発展の理論(史的唯物論)は社会の内在的要因を過度に重視しており、「内部矛盾による自己発展」という観点に依存しすぎている、との指摘です。もう20年近く前(2000年6月)に西尾幹ニ『国民の歴史』(扶桑社、1999年)を取り上げた時(関連記事)にも少し考えたのですが、「左翼」への嫌悪・憎悪の強い論者に、悪い意味で「左翼的な」発想が根強くあるように思います。『国民の歴史』に関しては、20年近く前に、「中国」の長期にわたる停滞と「日本」の内的発展が強調されている、と指摘しました。『国民の歴史』に「左翼」への強い嫌悪・憎悪があることは一読すれば明らかでしょうが、そうした論者にも悪い意味で「左翼的な」発想が根強くあることには、20世紀における史的唯物論の影響力の強さを改めて痛感させられます。今でも史的唯物論の影響は根強く、自覚せずに囚われてしまっている場合も多いのではないか、と思います。凡人の私もその例外ではないので、史的唯物論の悪影響については意識し続けねばなりませんし、その批判は今でも重要だと考えています。
上記の記事でもう一つ私が注目したのは、中村氏が、マルクスやエンゲルスの理論の中にある非科学な事例としてエンゲルスの『家族、私有財産、および国家の起源』と『自然弁証法』を挙げ、前者はモルガンの主著『古代社会』(1877年)の誤解にもとづく学説を鵜呑みにした、と評価していたことです。これに関しては、(通俗的)唯物史観の影響で一般にも広く浸透したと思われる、人類の「原始社会」は母系制だった、との見解に以前から興味があったので、当ブログでたびたび取り上げてきました。まず6年以上前(2013年2月)に、更新世の人類社会は母系制だったのか、という問題に軽く言及しました(関連記事)。その後、昨年(2018年)初めに唯物史観との関連で(関連記事)、今年初めには近親婚との関連で(関連記事)この問題を再度取り上げました。
これらの記事で私がずっと主張してきたのは、人類の「原始社会」を母系制と想定する唯物史観的な見解とは正反対に、むしろ人類は父系制的社会から始まった、というものです。当ブログで2013年2月にこの問題を取り上げて以降、この見解は変わらないというか、その後色々と調べるにつれて、ますます確信を強めています。ただ、これまで人類社会が父系的なのか母系的なのか単純化してきたところがある、と今では反省しています。そこで先々月(2019年5月)の記事では、現生人類(Homo sapiens)社会は高度な認知能力に由来する柔軟性により基本的に双系的で、父系的継承の社会が古代から世界で広く見られるのは、そもそも人類社会が他のアフリカの現生大型類人猿(ヒト科)と同じく父系的な社会から始まったためではないか、と考えを改めました。こうした柔軟な社会構造がいつ確立したのか、現時点では不明です。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)社会に関しては父系的と示唆されていますが(関連記事)、まだイベリア半島北部の1例にすぎず、あるいは現生人類とネアンデルタール人の共通祖先の時点で、かなりの程度柔軟な社会構造が確立していた可能性もある、と考えています。
なお、近年、唯物史観的な「原始乱婚説」がフェミニストの間で評価されている、との指摘もあります。その代表作と言えるかもしれない『性の進化論』を当ブログでも取り上げましたが(関連記事1および関連記事2)、人類社会における一夫一妻を基調とする通説には問題があり、今では捨てられてしまった唯物史観的な「原始乱婚説」にも改めて採るべきところがある、といったところで、唯物史観的な「原始乱婚説」とは似て非なるものだと思います。また、唯物史観で採用された「原始乱婚説」では、人類の「原始社会」は親子きょうだいの区別なく乱婚状態だったと想定されています。しかし、人類系統にはずっと近親婚を回避する生得的な認知メカニズムが備わっていた、と考えるのが妥当で、唯物史観的な「原始乱婚説」は、現在では少なくともそのままでは通用しないと思います。私は、『性の進化論』の見解が妥当である可能性を全否定するわけではありませんが、きわめて低いと考えていますし、仮に同書の見解が妥当だとしても、それを唯物史観の復権と評価することは妥当ではないでしょう。
この記事へのコメント