小路田泰直『日本史の思想』、『「邪馬台国」と日本人』、『邪馬台国と「鉄の道」』

 小路田泰直氏の著書で過去に取り上げたものを一つの記事にまとめます。『日本史の思想』の雑感は2001年12月に前編後編に分割して、『「邪馬台国」と日本人』の雑感は2001年5月に、『邪馬台国と「鉄の道」』の雑感は2011年9月にそれぞれ掲載しました。小路田氏の著書の雑感をまとめようと思ったのは、近年、小路田氏の著書『卑弥呼と天皇制』(洋泉社、2014年)への批判をツイッターで見かけたからなのですが、現在は検索しても見つけられませんでした。もっとも、後述する『邪馬台国と「鉄の道」』を読んで失望したので、『卑弥呼と天皇制』への批判にも驚きませんでした。

 しかし、『日本史の思想』と『「邪馬台国」と日本人』をその10年以上前に読んで感銘を受けたので、小路田氏がどのようなことを述べて、自分がどう受け取ったのか、改めて確認する意味で、一つの記事にまとめます。また、2万字という制限内に収まるので、利便性のためにも、一つの記事にまとめる方がよいかな、と判断しました。『日本史の思想』と『「邪馬台国」と日本人』の雑感は、当ブログ開始前に掲載したので、現在とは考え方が違っているところもありますし、文字遣いもかなり異なっているのですが、明らかな誤字と段落構成の訂正と説明文以外は、基本的にそのままにしておきます。なお、この3冊と深く関わりそうなその後に読んだ本として、増淵竜夫『歴史家の同時代史的考察について』があります(関連記事)。



『日本史の思想』

 柏書房より1997年に発行された。副題は「アジア主義と日本主義の相克」である。本書の後に取り上げる小路田氏の著書『「邪馬台国」と日本人』を先に読んだが、本書の方が先に発表されている。『「邪馬台国」と日本人』の内容は、本書を踏まえてのものでもあるので、なるべく早く読んでおこうと思っていたのだが、織田信長について色々と調べていたので、読み終えるのが遅れてしまった。

 小路田氏の関心は、現在の日本の民主主義の在り様である。「辺境」に押し付けて解決する日本の戦後民主主義は、もはや成り立たず、変わらねばならない。では、どうすれば変われるのか。そのためには日本の民主主義の成り立ちを深く知る必要があり、本書はそのための模索である。以下、先ず概略を、次に雑感を述べていく。


 戦後歴史学は、大正デモクラシーと戦前ファシズムとの間に越えがたい断絶を認めてきたが、両者の間には連続性が認められ、大きな差はなかった。15年戦争を、「我々」の政治参加の存在した大正デモクラシーの必然的帰結ではなく、天皇制や軍部によって抑圧された独裁時代の過誤として戦後歴史学は認識した。その結果、戦後歴史学の歴史認識は、歴史の変化を自らの主体的行為の帰結ではなく、「我々」にとってはどこまでも他者である誰かの作為や状況に帰せて説明する、没主体的なものとなった。

 大正デモクラシーは、社会的同権化と政治的民主化という二つの要素の組み合わせであった。一般に、両者は同じ民主主義の中で調和すると考えられているが、そうではない。社会的同権化は議会制民主主義の大衆政治(衆愚政治)化=形骸化と巨大な官僚集団の誕生=政治の官僚化を齎す。政治の官僚化は政治の無秩序化を齎すから、それを矯正するには政治の民主化が必要だった。故に、民主主義が政治風土として定着していようがいまいが、大正デモクラシーは必要とされたのだが、それは政治の官僚化の必要から生まれた民主主義であって、国民の欲求・参加意識に支えられたものではなく、故に大正デモクラシーは脆くも崩壊した。

 当時の日本には、社会的豊かさと、社会的同権化を進め「官僚的行政」を肥大化させていくために必要な民主主義を、それでも民主主義だと理解して受容するだけの強固なナショナル・アイデンティティが存在しなかったのである。何故なら、日本の歴史学が、国民共同の過去の記憶を創出することに失敗し続けたからであった。その理由を史学史の中に探ろうとするのが本書の課題である。


 日本近代国家の完成された形態を大日本帝国憲法体制に求めるとすると、それは水戸学的名分論とアジア主義の二つの歴史観・思想によって支えられていた。前者は、国民の信頼(世論)という客観的で具体的な基準を設けた点と、世論を祖法(皇祖皇宗の法)に名を借りた法として規範化し、叡慮(天皇の意思)に名を借りた命令として意志かした点に、特徴があった。

 また、仏教伝来以前に真の日本文化を認めた点も特徴と言える。後者は、自らの伝統の中に、自立した個人を前提に形成される市民社会の伝統を発見しようとして、アジア規模における文明の交流に着目した内省的なナショナリズムで、日本においては、仏教伝来以降の歴史に真の日本文化が認められた。

 このままでは、両者は重要な点で相容れないが、アジア主義において、日本はアジア文明の博物館である、と想定されることにより、両者の接近が可能となった。つまり、他に征服されることなく、途切れなく主権が続いてきたこの日本は、アジアの文化の貯蔵庫となった、という想定である。絶え間ない征服と王朝の興亡のあった中国の文化は、日本において保存され、遂には中国の学者自身、知識の源泉を日本に求めるようになった、というのである。

 この「日本=アジア文明の博物館論」により、日本文化の形成はアジア文明の圧倒的影響下で行なわれたとするアジア主義と、万世一系の天皇が日本を統治することを正当視する名分論的国体論とが融合しやすくなった。「日本=アジア文明の博物館論」はまた、モンゴルの膨張によりアジア文明の破壊、モンゴルを阻止した日本と西欧という観点を提示することにより、日本と西欧の対等性・日本とアジアの非対等性という認識を提示し、同時にモンゴルを退けたという点を強調することで、名分論的歴史観との間に神国思想という接点を持つことができた。


 大日本帝国憲法体制が、水戸学的名分論だけでなく、これと歴史観が大いに異なるアジア主義を必要とし、アジア主義の側に水戸学的名分論との接点が模索されたのには、理由があった。名分論の論理は、必然的に大政委任論、更には天皇親政論にまで行き着かざるを得なかったが、名分論が成立するには天皇が不執政の君主である必要があり、矛盾が生ずることになる。

 故に、名分論を成立させるには、「天皇の意志=覇者の意志」という虚構が成立し、その覇者に大政が委任される必要があった。明治政府は、当初、英国型責任内閣制を導入し、議会多数党の党首=覇者にしようとしたが、議会を通じて形成される世論に全幅の信頼は置けず、責任内閣制を断念せざるを得なかった。

 そこで政府は、個人の天賦の自由を前提に成立させる立憲制を、国家の伝統に規制された特殊な制度として成立させようとし、そのために、特殊主義と歴史主義の合理化が要求された。そこで必要とされたのが、一つには社会有機体説または社会進化論であり、もう一つがアジア主義であった。アジア主義を用いて、日本の伝統が立憲的に読み換えられたのである。

 アジア主義は、日本のナショナリズムに普遍的価値を与える役割を果たした。アジア主義は、差異はあれど、西欧の侵出に対してアジアに広く見られたものだった。アジア主義は、自らの文化的自立性を主張し、尚且つ価値相対主義に陥ることなく文化的多元主義として理念化された。未開・野蛮として(半)植民地化されてきたアジア諸国が、自らの文化的個性を強調することによって独立を達成しようとした時、頼るべき唯一の普遍思想だった。

 アジア主義が広まったのは、アメリカのアジアにおける発言力が拡大したからであった。世界は、強国が小国を併合して文明化させる天賦の権利を有する国際法秩序から、全ての民族に天賦の国権を認める国際法秩序へと移り変わっていった。つまり、建国の条件が、完全な文明化(西欧化)から、民族存在の事実=伝統へと変わっていたのである。そこで、伝統の近代的読み換えが必要とされたが、その際に活用されたのがアジア主義であった。

 だが、アジア主義と名分論との蜜月は長続きせず、南北朝正閏論争においてアジア主義者の喜田貞吉が敗れると(1911年)、正式に体制のイデオロギーから排除されることとなった。そして、アジア主義の凋落を示すのが津田左右吉の登場であった。以下、やや詳しく津田の歴史学について見ていく。


 津田は、中国思想の停滞・非普遍・反社会性を強調した。それは、中国文明の感化力の乏しさと日本への影響をできるだけ過小評価し、中国思想が近代国民国家の思想足り得ないことを証明するためであった。近代日本国民国家の淵源を外来のアジア文明に求めようとしたアジア主義者とは正反対の主張である。

 続いて津田は、日本の地理的孤立性とそれに起因する文化的後進性を証明したが、それは、日本文化よりも高度な中国文化を日本は理解できなかった、従って日本文化への中国文化の影響が皮相なもの(中央貴族段階)に留まった、と主張するためであった。

 故に津田は、記紀の中国思想やインド(仏教)思想で書かれた箇所は、潤色としてあっさりと切り捨ててしまった。津田は、古代以来中国文明の日本への影響は大きなものではなかった、日本と中国とは別個の世界で、一つの東洋という世界を形成していない、と主張するためにその膨大な歴史研究を行なったのである。

 津田の神代史(神話)研究が高く評価されたのは、記紀を史実を記した史書として読むのではなく、編者の精神を今日に伝える物語として読む立場を確立したからであった。津田は、本居宣長のように『古事記』を完全な史書と見做す立場だけでなく、記紀の記事を、確たる証拠もなく何らかの史実の反映と見做す立場でさえ、徹底的に排斥し、7世紀前後の日本の支配層の思想を解明する手法を確立した。従って、津田の神代史研究は、神代史を物語として成立させている基本精神の発見し、その基本精神に沿って神代史を物語として再構成させ、改めてその基本精神を確認する、という方法になった。

 津田の考えた基本精神とは、「気に乗じ、折にふれて、皇室の由来を世に示さうとする特別の意思」であった。津田の推量した神代史の形成のされ方は、「神代史は皇祖を日神とするといふ思想が中心となってゐて、それを一方に於いて大和奠都・出雲退譲の歴史的事実と結合するために、日孫降臨及びオホナムチ国ゆづりの物語が出来、一方に於いて、それを国家に於ける皇室の位置と調和させるためにイザナギ・イザナミ二神の国土及び日神生産の物語が出来たのである。さうして、その二つを連結するためにスサノヲの物語が作られたのである」というものであった。

 津田は、こうした物語を作った古代国家が、氏族制的言説(祖先崇拝・族制制度の時代に起る思想)によって統合された、極めて凝集性の高い国家だと考えたのである(氏族制=血縁社会は観念にすぎなかった)。津田は、上代史については、『日本書紀』をあくまで史書として読むことを心掛けた。その結果、記紀の原型が形成され始めた頃には、日本は氏族制社会を出て国家段階の社会に入っていたとした。また、大化改新の意義を低く評価し、大化改新によって「廃罷」された氏族制度は「政治上」に残った「旧慣」にすぎなかった、とした。

 また津田は、日本における古代国家形成は、外部の影響は受けず、内部の刺激だけで行なわれたとし、古代日本は、「天を以て帝権の象徴とし地を以て民衆に擬し、天子を以て高いところから民衆を見下ろすものとする支那思想とは反対に、皇室があらゆる氏族の宗家であって、それと同じくし血統を同じくせられ、国民といふ一大家族の内部にあって其の核心となってゐらせられる」といった、主権者に対する恰も同族の長に対するが如き親愛の観念によって統合された、極めて特異な国家だったとした。つまり、日本がアジアの一角に位置しながら、例外的に近代国民国家の形成に成功し得た理由を科学的に証明しようとしたのである。そして、このように証明するには、日中間の文化的な溝の深さを強調するしかなかった。

 津田の学問の動機は、学問をする動機の最も重要なるものは、それによって国家の発達、国民文化の進歩に貢献しようとするところにあり、学問の効果は国家の隆盛となって現はれるのであります、であり、その目的は、国民の精神生活を豊かにし、特色ある国民的文化を形成し、人類の文化の発達に寄与し、またそれによって国家の品位と権威とを世界に高める、だった。

 更に津田は、(神代史をその形成された時代の思想によって解明した結果は)過去のいろいろの学者の考が、おのづから皇室の尊厳と国体の本質とを傷つけることになってゐるのとは反対に、ますますそれを明らかにする、とより明確にその目的を語っていたのである。


 日露戦争後、アジア主義は凋落し、日本をアジアの盟主として位置付ける膨張主義的な大アジア主義へと転換していったが、一方で、民族自決の原則を強制する「パクスアメリカーナ」も成立しつつあった。本来は民族自決の主張であったアジア主義がいとも簡単に膨張主義的な大アジア主義へと転換したのは、国家が、一度動員した国民の排外的感情の暴走を抑制する能力を持たないからであった。何故国家が抑制能力を持たないのかというと、国家自体が近代社会を創出するに際して、排外主義の統合効果を過剰に利用し過ぎていたからだった。

 近代日本は、何か公的事業を行なう際、関係する諸利害を、個々の利害を越えた一つの利益(公益または国益)に統合していく仕組みとしての立憲制の創出に最終的には失敗し、その失敗を補うために、天皇の超越性を演出したが、天皇の絶対性には天皇不執政の原則と天皇親政原理の矛盾が付き纏う。従って、如何なる水準であれ、近代日本社会の統合には、共通の他者を排除することによって生まれる共同体意識=排外主義を利用することが求められた。

 故に、例えば市制を施行し(1888年)都市団体を創出するために、都市住民の農村に対する排他性を利用することが不可欠であった。日本の近代都市が、将来の都市化を見込めば、当然あらかじめ政治的傘下に収めておくべき周辺農村を敢えて政治的傘下に収めようとはせず、社会資本整備を遅らせ、際限なきスプロール化を招いてしまったのは、そのためだった。排外主義を内蔵してしまった国家に、排外主義の暴走が食い止められなかったのは必然的だったのである。


 アジア主義凋落の跡を埋める思想には、門戸開放体制(パクスアメリカーナ)に順応すべく、日本という国家を、日本列島と日本文化によって先天的に限定された存在として論じることと、日本人をより積極的な政治主体に変え、政治に強い指導力を生み出すことを可能にすることが要求され、これに応えて影響力を強めたのが、広い意味での日本主義であった。それは、日本という国家の存在根拠を、一人一人の国民の皇祖皇宗の「建国当初の抱負」に対する自覚と共感に求める思想で、万世一系の天皇の血統に日本国の正当性を求める一種の名分論だった。

 だが、日本主義は二つの点で従来の名分論とは根本的に異なっていた。一つは、民族存在の事実ではなく、一人一人の日本人の主体的な共感に国家を基づかせようとした点である。もう一つは、祖宗の遺訓を万国に通じる普遍的真理と認識していた従来の名分論に対して、それを日本社会の中で日本人にのみ理解できる特殊日本的な真理と認識した点である。従って日本主義は、植民地支配の根拠を、従来のアジア主義のように敢えて歴史に求めることを拒否する思想だった。

 従って、日本主義は、極端に権力・同化主義的な侵略主義に発展する可能性も、石橋湛山の小日本主義のように反植民地主義に発展する可能性も持った思想だった。日露戦争後、アカデミズムの世界では、アジア主義から日本主義への移行が確実に始まっていたが、アジア主義が一旦広まった後だけに、日本主義の確立はなかなか困難だった。


 そこで、日本主義確立のために先ず取られた方法が、日本の歴史を純粋な日本史として描き、東洋史への埋没から救い出すことであった。内藤湖南が、「日本文化の起源とその根本を知る為にはどうしても先づ支那文化を知らなければならぬ。今、歴史といふものを日本の歴史だけで打切ってしまって、その以前の支那の事を知らぬといふと、日本文化の由来を全く知らぬことになる、更には、大体今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知って居ったらそれで沢山です」と述べたようなアジア主義の呪縛から日本史を解き放つための方法は、三つあった。

 一つ目は、既に津田が指摘したように、常識的に考えると日本が最も深刻に中国文明の影響下に置かれたと思われる古代において、外来文化の影響が実は小さく、所詮は表面的な影響に過ぎなかったことを発見することだった。

 二つ目は、中国文明の影響を長期間色濃く受けた中央貴族の歴史ではなく、中国文明の影響を殆ど受ける筈のない地方(関東)武士、またはより下からの民衆の歴史として、日本史を描き直すことだった。日本中世史の創始者とされる原勝郎は、関東武士の世界の中に歴史発展の原動力を見付けたのである。

 三つ目は、現代日本の古典を古代ではなく中世に求めることで、これにより外来文化をひたすら受け入れて発展してきた古代貴族の歴史と切り離して、地方の武士や民衆を主体とした内なる国民形成史を描くことができた。とはいえ、このように日本史を東洋史とは無関係な純粋な日本史として描くことは、史実の壁があり容易ではなかった。そこで日本主義者達は、更に二つの方法を選択した。


 一つは、「歴史は現代史である」という立場での方法、つまり、歴史を現代の歴史研究者の主観に完全に従属させる、という方法だった。この立場を推し進め、歴史を敢えて実証から解放し、理論へと飛躍させることによって、歴史を客観的な史実をありのまま記述する学問から、歴史家の主観によって過去を主体的に(従って未来への実践を視野において)統合する叙述の学問へと変貌せしめるのに功があったのが、内田銀蔵と平泉澄であった。

 この立場では、「我等紛れもなき日本人」の描き得る歴史は、必然的に「桜咲く日本の国土の上に幾千年」刻まれてきた歴史としての日本史しかなくなるのであり、如何にアジアから多様な影響を受けようとも、国土に限定された日本史が正当なものということになるのである。所謂皇国史観は、この方法の歴史的帰結であり、一種の戯画化であった。

 もう一つは、日本史を、予めその普遍性が約束された西洋史の方法に沿って描くという方法だった。そうすれば、日本史に普遍性が宿ることになり、普遍的なものは自ずから自己完結性を帯びるからである。この方法は、近代日本の歴史学が西洋歴史学を範としたためか、広く行なわれた。一見すると西洋史とは無縁に見える津田史学にしても、中国やインドの文化・思想が国民の実生活から遊離していたと主張していたのに対して、西洋文化は国民の実生活に密着したことを認め、西洋思想は日本人にとって決して異国の思想ではない、としていた。


 だが、日本主義を確立するには、日本史を自己完結的に描くだけでは不充分であった。何故ならば、一つには、帝国主義的膨張を続ける日本という現実の下では、アジア主義の方が受け入れられやすかったからである。もう一つは、如何に日本史を東洋史から切り離して描いてみても、その虚偽性が明らかだったからである。そこで、日本主義を確立するには、国家を先天的に空間的に限定することの必然性を哲学的に論証しなくてはならなかった。

 その課題を担ったのは、「場の論理」を確立した西田幾多郎と、『風土』を書き風土論を確立した和辻哲郎だった。和辻は西田哲学の影響も受けつつ、国家や社会が固有の時間(伝統)と空間(風土)によって限界付けられた存在だと主張した。それは、一つには、日本という国家を、どこまでも日本列島とそこに育った文化によって限定された空間として捉え、アジア主義と決別して日本主義に哲学的基礎を与えるためであった。

 もう一つは、津田のような極端な事実歪曲を行なうことなく、「日本人がいかに深くシナ文化を吸収したにしても、日本人はついに前述の如きシナ的性格を帯びるには至らなかった」という津田同様の結論に到達するためだった。文化における風土の規定性を言うことによって、如何に日本文化が中国文化やその他の外来文化の影響を受けようとも、その固有性を語ることができたのである。和辻は津田の古代史理解を批判したが、それは和辻が希代のコスモポリタンだったからではない。善き日本主義者たらんとすれば、外来文化の影響を正当に評価した上で日本主義を主張しなければならないのである。


 こうして日本主義は完成したが、植民地帝国日本の現実とアジア主義のナショナリズムの根強さが、その定着を妨げた。アジア主義は、日露戦争後に膨張主義的帝国主義の代名詞に転換していき、それは国内社会の同権化を目的としていた。故に、アジア主義は大衆に浸透してその命脈を保った。

 これに対して、「建国当初の抱負」に対する自覚を持たせることに主眼を置く日本主義は、社会契約論にも似たエリート主義的思想で、大衆には受け入れられなかった。明治以降の日本は、名望家(市民)社会の建設に挫折し、社会の大衆化と権力の「一君」化が先行した、エリート主義があまり強固な基盤を持つことのできない社会だったのである。

 アジア主義が日本主義と比較して強靭だったのには、もう一つの理由があった。第一次世界大戦後、アメリカ型消費文化が世界的に広がる中、日本社会のアイデンティティを保とうとすれば、アメリカ型消費文化に対抗可能な「物質文明」を構想する必要があったが、そのための想像力の源は、日本主義ではなくアジア主義に求めなければならなかった。何故ならば、日本主義は祖宗の時代の文化という、捉えようのないものを理想化する思想であり、アジア主義のように固有の物質的表象を持たなかったからである。

 日本主義者達は、日本社会に「公共性の観念」を確立することを最大の現実的関心とし、そのためには公共財の荘厳化を図る必要があったが、以上の理由で、国家が公共財の荘厳化を図るべく新たな伝統文化の「創造」を企図した時、日本主義ではなくアジア主義に依存せざるを得なかった。人々の内面に「公共性の観念」を喚起できない日本主義は、容易に戦前期日本社会には定着しなかったのでる。


 だが日本主義は、第二次世界大戦後に定着した。その理由は、一つには敗戦により植民地帝国としての現実が失われたためであった。もう一つは、象徴天皇制の成立により天皇親政の原則と不執政の原則との矛盾が取り除かれたためであった。最後に、アメリカの核の傘に入ったことにより、国家水準での強固なアイデンティティ確立の必要性が取り除かれたためであった。敗戦は、日本社会に日本主義の受け入れられる素地を築いたのである。

 故に、戦後歴史学は戦前期歴史学以上に日本社会の自明性を前提に形成され、単一民族説が一般化した。戦後歴史学の出発点が、嘗ての原の試みを敷き写すが如く、草深い東大寺領黒田荘に住む武士や民衆史として中世を叙述した石母田正の『中世的世界の形成』から始まったことは、その象徴であった。故に、戦後歴史学は、網野善彦らによって、その日本主義と農本主義とを激しく攻撃されているのである。


 社会現象を大きく政治と経済に分けると、経済に「物語」(虚構された社会像)は必要ないが、政治にはそれは必要である。「物語」によって観念化され、一旦現実から遊離させられた社会を前提にしなければ、つまり、あるがままの社会を前提にしたのでは、政治は成り立たないのである。経済の基盤は人間の多様性そのもので、経済社会に立ち現れる諸個人は、全て個性的である。

 一方政治の基礎は、人間の多様性そのものではなく、抽象・非個性化された平等な個人の集合体としての社会である。その証拠に、大抵の国において、各国民は平等に一票ずつ選挙権を持っている。政治は、例えば貧富の差の拡大といった、経済の齎す差異化作用に相抗して、社会の均質化を保持するための人間行為なのである。故に、政治には、多種多様で差別し差別される人間を、平等な人間として立ち上げる虚構が必要なのである。そしてその虚構を構想するために、社会を同等の個人の共同体として描く、ある種の「物語」が必要なのである。

 しかし、本質的に多様性と差別性を帯びていて、故に社会的分業と文明が成立した人間社会を、同等の資格を持った個人の集合体として描くことは、容易ではない。古代以来、社会の紐帯として、西洋においては「愛」が、東洋においては「孝」が語られてきたが、社会がそれらによって満たされたことは一度もなかった。

 常に「性悪説」と「法家の思想」が社会を担保し続けてきた。戦後歴史学は、人間を本来的に共同体的な動物と見做し、本源的共同体を想定するところから歴史叙述を始めてきたが、それは、過去をともすれば近代の反対物として描こうとする近代人の錯覚に過ぎなかった。人間は、本来多様で公益なしには生存できない動物だった。

 では、共同体の「物語」は如何にして作られたのかというと、それは共同体の歴史を語ることによってであった。その理由は、一つには、「体験」=過去の共有が、人間が相互に同胞として理解しあうための最も大きな手掛かりになるからだった。もう一つには、一君万民式に人々の平等を確保しようとすれば、「先王制作の道」であれ「祖霊」であれ、歴史の中に居場所のある何らかの絶対者を想定せねばならなかったからである。故に、社会を同胞社会として描く「物語」の中心には、どうしても歴史的な語りがなくてはならなかった。

 こうした事態は近代になっても変わらなかった。近代になると、「先王制作の道」や「祖霊」を証明するための歴史ではなく、国民の歴史が描かれるようになるが、それも、主権者たる国民を絶対者の地位に置くためのものであった。故に、歴史をどう描くかは、いつの時代にも政治の最大の関心事だった。歴史学=歴史観の変遷(史学史)と政治の変遷(政治史)との間には、密接不可分の関係があるのである。


 本書は、政治動向と歴史思潮の移り変わりとを相互に関連付けて近代日本を概観しており、大変示唆に富んだものである。一般に、戦前は神憑り的で非科学的な皇国史観が一世を風靡し、戦後歴史学は戦前期歴史学と一線を画して科学的な研究成果を積み重ねてきた、などと言われているが、事はそう単純ではない。

 皇国史観を生んだ日本主義は、実は戦後になって却って定着したのであり、戦後歴史学は日本主義に基づいたものであった。日本主義者の代表的存在である津田左右吉は、戦後になって反動化したとして戦後歴史学の主流からは大いに非難されたが、その研究内容自体が否定されたわけではなく、戦後歴史学は津田史学を実証的・科学的として高く評価し続けてきた。

 その戦後歴史学が厳しく批判したのが、2年前(1999年)話題となった西尾幹二氏の『国民の歴史』で、私も評判になったので読んだことがあった(関連記事)。同書は一般では賛否両論といった感じだったが、歴史学界では概ね評判が悪く、戦前の皇国史観の焼き直しとの批判も少なからずあった。『国民の歴史』批判派に言わせると、西尾氏は科学的な研究に立脚した戦後歴史学の成果を無視している、ということになり、戦後歴史学と西尾氏とは対極に位置するかの如き感があった。

 ところが、『国民の歴史』の内容は、実は津田左右吉の主張と大いに共鳴するところがあり、徹底した日本孤立論を主張している。確かに、『国民の歴史』は戦後歴史学の提示した歴史像とは、一見すると大いに異なるのかもしれないが、実は同根から生じたという側面が多分にあった。

 戦後歴史学の側からの厳しい批判にも関わらず、一般の間で『国民の歴史』がそれなりに高い評価を受けたのは、戦後歴史学への不信・不満があるからだ、との評価もあり、確かにその指摘にも妥当性はあろう。だが、より根本的な問題は、両者が同根から生じたものだということで、故に、戦後歴史学の側が『国民の歴史』を徹底的に批判することは困難なのではなかろうか。

 戦前・戦中・戦後を通じて、津田の歴史観・思想は首尾一貫していた。ところが戦後歴史学は、津田が戦後になってマルクス主義の台頭に脅威を覚えて国体護持論を主張すると、津田は反動化したとして厳しく批判した。こうした事実の中に、戦後歴史学の重要な問題点と、『国民の歴史』が国民の間で一定の影響力を有した理由が見えてくるのではなかろうか。

 私は中学生の頃、日本人単一民族説は寧ろ戦後になって常識となったのだ、と何かの本で読んで、疑問に思ったことがある。日本人単一民族説は、皇国史観が一世を風靡した戦前の方が明らかに受け入れられやすいように思えたからである。そうした疑問点も含めて、本書は近代日本の政治動向と歴史思潮の変遷を、その社会的背景と共に実に上手く説明しており、近代日本史学史についての議論に有益な提言をしているように思われる。



『「邪馬台国」と日本人』

 平凡社新書として、今年(2001年)初めに平凡社から発行された。書名は『「邪馬台国」と日本人』となっているが、主題は近現代日本における「日本史」叙述・認識の問題で、皇国史観が如何にして生まれ、何故未だに克服されていないのかを論じている。邪馬台国論争は、皇国史観に傾斜していく戦前の日本史研究状況を説明する一挿話として描かれているといった感じで、書名は、「皇国史観の形成過程」とでもするのが妥当なように思う。或いは、邪馬台国を書名に入れた方が人目を引くから、といった理由で、編集者がこの書名を提案したのだろうか(邪推かな・・・)。

 冒頭では、歴史認識・叙述の在り方として、物語としての歴史(構成主義的歴史観)と客観的歴史観とが挙げられ、以下の章で、近代日本における歴史認識・叙述が、両者の間を揺らぎながら次第に前者に傾倒していき、遂には皇国史観が成立するに至った経緯が、『大日本編年史』の編纂と挫折・白鳥庫吉と津田左右吉の思想と認識を通じて述べられている。簡潔に要旨を述べると、次のようになる。


 不平等条約改正・一流国の仲間入りを目指した明治前半の日本に要求されたのは、文明国としての証であり、具体的にはそれは立憲制であった。だから、立憲制国家に相応しい力量のある国民を育成するために、普遍的な価値観に基づく文明史としての客観的な『大日本編年史』の編纂が企図された。だが、憲法が制定される頃になっても、先進国の立憲制には到底及ばないことが明らかになっていく。そこで政府は、天皇の絶対的権威を持ち出して政府の議会に対する優越を歴史的に説明しようとし、特殊的性格を持つ日本という歴史像の創出を企図し始めた。

 この流れは、その頃より民族自決の原則が主張されるようになったことによって、一層強くなった。何故なら、独立国としての条件が、文明水準から民族の存在へと転換することを意味したからである。故に、以後の日本では、日本の特殊性を歴史に求める傾向が強くなったが、それは歴史の物語化を招来した。その理由は、一つには中国(外来)文化の影響を受けない日本固有の文化の存在を確認できなかったからであり、もう一つには、流入する中国文化に圧倒されないよう、古くに成立した固有文化に回帰して歴史的発展を図る復古の英雄の存在を想定するしかなかったからである。

 だが、日本の特殊性を歴史に求める動きの中にも、物語を作り上げることによるものではなく、実証的手法によるものもあった。その手法を開拓したのが、東洋史家の白鳥庫吉とその弟子である津田左右吉であった。白鳥は、記紀神話などの古伝説を、過去の事実を反映した歴史として理解する前に、書き手の思想の産物として理解しようとした。白鳥は、日本神話には中国思想の影響があるが、その影響を受けていない日本固有思想の部分は、自然崇拝に留まっている中国思想より優れている、とした。

 そして、中国思想の流入にも関わらず日本固有の思想が消え失せなかったのは、歴史のある時期までは、日本は中国と文化的に隔絶されていたからだ、とした。この見解の補強のため、白鳥は邪馬台国九州説を唱え、それに執着した。大和朝廷、即ち日本の主要部分が中国と接触した時期が遅いほど、自説には有利になるからである。だが白鳥は、一見すると中国思想の影響を受けていないように思われる日本神話の一部も、実は仏教の影響により形成されたものだと気付いていた。だが、日本孤立主義を採って「満州進出不可論」を主張し、「尊厳なる国体の本質と、我が皇室の万世一系であらせられる真の理由」を発見することを企図していた「国士」白鳥は、生前にはその考えを一部にしか漏らさなかった。

 白鳥の弟子である津田は、一層徹底した日本孤立主義論者だった。津田は、中国思想は普遍的なものではなく、また文化水準の低い日本に浸透したわけではなかったとし、日本における中国文化の影響を軽視した。津田は、日本と中国との違いを強調し、両者は東洋文明・文化などといって一つに括れるものではなく、全く別個の地域であった、と主張した。そのため津田は、一つの東亜を形成しようとした時流への反逆者と受け取られ、戦前には政府から睨まれることとなり、反戦・反体制の歴史家と理解された。

 津田や白鳥とは対極的に、一つの東亜という立場にたったのが内藤湖南で、内藤は西洋文明に対する東洋文明の対抗可能性を歴史研究の課題としていた。故に内藤は、日本の歴史を東洋の歴史に組み込む必要性を感じ、日本文化の固有性や外来文化摂取の選択性といった議論に反駁し、邪馬台国畿内説を主張したのである。

 白鳥と津田の、日本的固有文化を歴史的に実証せんとする試みに限界が見えると、同様の目的を掲げる者の多くが皇国史観を選択することとなった。皇国史観は、単に物語的歴史の延長にあるのではなく、進んで日本人になろうとする皇道実践に生命をかける歴史家の主体性に支えられてはじめて成り立つ歴史観であり、日本文化の特殊性を証明しようとする大きな流れの最後の姿であった。

 皇国史観は、戦後になって非合理・非科学的として糾弾されたが、その誕生過程・理由を解明するといった徹底的な克服はなされなかった。それは、戦後歴史学もつい昨日までは皇国史観と五十歩百歩だったので、歴史家がそれに触れたくないためであり、もう一つは、戦後日本も、国家のアイデンティティ確立のために、日本文化の特殊性・固有性を主張するしかなく、歴史学がその証明のために動員されたからであった。戦後歴史学は根本的に皇国史観を超えることはなく戦前期歴史学と連続しており、その中では、実証的・反戦的と理解されていて日本孤立論を採る津田史学とのみ公然と接続することによって、戦前期歴史学との連続を図った。


 戦後歴史学が津田史学とのみ・・・との最後の辺りには疑問もあるが、戦後歴史学においても日本の孤立性が強調されてきたことを考えると、一定の妥当性は認めてもよいのかもしれない。皇国史観形成の過程については、上手く題材を選択して纏めており、なかなか分かりやすく説得力があると思う。皇国史観が過去の問題ではないことや、日本の新たなるアイデンティティの確立など、現在の重要問題へと上手く繋がる内容となっており、歴史を学ぶ本来の意義を再確認させてくれる本だと思う。戦後になって反動化したと非難された津田左右吉についても、やはり井上光貞氏や今谷明氏が仰るように、戦前戦後を通じてその主張が首尾一貫していることを確認できたことも収穫であった。

 うーん、殆ど要約になってしまったか・・・。



『邪馬台国と「鉄の道」』

 歴史新書の一冊として、洋泉社から2011年4月に刊行されました。小路田氏の著書では、邪馬台国論争を手掛かりとして、近代日本におけるナショナリズムと歴史認識の問題を論じた『「邪馬台国」と日本人』が面白く、上述しました。

 本書は、その『「邪馬台国」と日本人』において、邪馬台国が畿内にあろうと九州にあろうとどちらでもよい、と軽率に述べてしまったことへの反省が執筆動機とのことで、期待して読み始めたのですが、正直なところ、かなり困惑させられる内容でした。一般にもよく知られている『日本書紀』や『古事記』や「正史」などの史書のみならず、地名や神社の由来などの伝承を大いに活用することで、古代の流通と社会を復元し、日本古代史像を見直す、という意欲的な試みではあるのですが、本書の最後に、「ただし展開したのはどこまでも仮説なので、実証的でないといわれればそこまでだ」と述べられているように、専門分野ではないにしても、歴史学の研究者が一般向けに執筆した歴史本としては、かなり問題があるように思います。

 それは、神武など実在を疑う見解が主流と言ってよい人物の実在を主張しているからではなく、封建制という概念について、しっかりと定義されているわけではなく、通時的に用いていることや、地名や慣習や神社の伝承などがいつからのものなのか、詳しく言及されるわけでもなく、漠然と古くからあるかのような前提で議論が展開されているように思われるからです。つまり、その時代の概念・価値観・名称に基づく議論かどうか怪しく、超歴史的というか、あまりにも長期間にわたる一貫性を前提とした主張になっているのではないか、との疑問が残ります。古代と近代とをあまりにも異質な世界として認識することへの疑問など、本書の主張には考えさせられるものが多いとは思いますが、まだ方向性が漠然と示された段階で、検証・議論が大いに必要なのでしょう。

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