山極寿一、小原克博『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』

 平凡社新書の一冊として平凡社より2019年5月に刊行されました。補論を除いて対談形式になっています。第1章では、宗教の起源として共存のための倫理が挙げられており、この点に関して、(人間を除く)動物と人間との間の連続性が指摘されています。宗教を人間と動物の決定的な違いとするヨーロッパ世界で根強い観念が、一定以上相対化されています。ただ、人類の出アフリカは未知の環境への拡散との見解については、初期人類というか非現生人類の出アフリカはアフリカと同じような環境への拡散だった、との見解も提示されているので(関連記事)、議論のあるところだとは思います。

 第2章では、人類史における暴力は一定以上進化的産物であるものの(関連記事)、暴力行使の頻度が上昇した要因として、一定以上の規模の集団を維持するのに必要な「共感能力」の「暴発」と、未来投資型の生業である農耕の始まりにより土地への執着が強くなったからではないか、と指摘されています。人類史における暴力行使頻度の変化については、本書の見解を直ちに全面的に受け入れるのではなく、今後も調べていくつもりです。大規模な集団の維持に宗教が大きな役割を果たし、個人を抑圧するような側面もあったものの、仏教・キリスト教・イスラム教といった「世界宗教」は当初、既存の秩序を破壊するような役割も担った、とも指摘されています。急速に大規模化した集団に、現代人の制度や社会性や心は追いついていない、と指摘されています。

 第3章では、日本人は欧米と一まとめにしがちですが、キリスト教の有り様にしても、両者には大きな違いがある、と指摘されています。アメリカ合衆国ではキリスト教が資本主義化している、というわけです。また、近代において宗教にとって代わったヒューマニズムが、あまりにも個としての人間に集中していることが懸念されています。

 第4章では、霊長類は元々とくに視覚が発達しているものの、現代社会はあまりにも視覚に依存している、と懸念されています。もっと他の感覚も活用すべきだ、というわけですが、多くの宗教では身体作法が重視されてきた、とも指摘されています。近代に多くの地域で宗教の地位が大きく低下したことは否定できないでしょうが、こうしたところに宗教の叡智が感じられます。現代人は情報に使われている側面が多分にある、との指摘はもっともで、私も反省すべき点が多々あります。

 第5章では、個人主義が行きすぎ、個人が孤立しがちな現代社会において、集団・共同体を再建する核として、大学の役割が強調されています。大学は、もっと開かれて多様な人々が多様な方法で学べる場になるべきではないか、と提言されています。

 補論では、絵画などネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の象徴的思考の痕跡はほとんどなく、現生人類(Homo sapiens)との大きな違いと指摘されています。しかし、この根拠となる比較が適切なのか、疑問が残ります。現時点での証拠からは、ネアンデルタール人の絶滅もしくは衰退後まで、両者の間で象徴的思考の痕跡に決定的な違いがあるのか、確定的とは言えなさそうだからです(関連記事)。ゴリラやチンパンジーでは、一度集団を離れた個体が元の集団に戻ることはないのに対して、人間はある程度会わなくても仲間意識が持続するようになり、集団を離れた個体が元の集団に戻ることも可能になった、と本書は指摘します。本書はここに、人間とゴリラやチンパンジーとの大きな違いを見いだしています。本書はまた、言葉が身体を離れてしまい、人間がロゴスに依存して大きく身体性を損なってしまったことに、現代の社会問題の根底的要因を見いだしています。


参考文献:
山極寿一、小原克博(2019)『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』(平凡社)

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