澤藤りかい他「東アジア・東南アジアのヒトの遺伝的多様性とその形成過程」
本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 20)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P10-15)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。
本論文は、現生人類(Homo sapiens)のアフリカからの拡散と、各地域集団の形成過程に関する近年の研究動向を整理しています。本論文はまず、昨年(2018年)刊行された『交雑する人類』(関連記事)を取り上げ、アフリカからユーラシアへの現生人類の拡散を概観しています。39000年以上前にユーラシアへと拡散した現生人類については、45000年前頃となるシベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)遺跡の個体(関連記事)も40000年前頃となるルーマニアのワセ(Oase)遺跡の個体(関連記事)も、現代にはほとんど子孫が残っておらず、39000年前頃のイタリア半島の噴火のためではないか、と指摘されています。ただ、この噴火によりヨーロッパの現生人類が絶滅したとの見解には異論もあります(関連記事)。
39000年前頃以降のヨーロッパでは、現代人にも遺伝的影響を残した狩猟採集民系統が拡散します。それを代表するのは、37000年前頃のヨーロッパロシアのコステンキ14(Kostenki 14)遺跡の個体(関連記事)と35000年前頃のベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡の個体(関連記事)で、文化的にはオーリナシアン(Aurignacian)期となります。32000~22000年前頃のヨーロッパでは、オーリナシアン期の集団と遺伝的に近縁で、文化的にはグラヴェティアン(Gravettian)の狩猟採集民集団が広く拡散します。地理的に広範囲に拡散したにも関わらず、この狩猟採集民集団は遺伝的にひじょうに類似していました。
19000~14000年前頃のヨーロッパでは、最終氷期極大期(LGM)が終了して温暖化が進展し、寒冷期に待避所的な地域だったイベリア半島から、人類集団が再拡大します。この集団は文化的にはマグダレニアン(Magdalenian)となり、19000年前頃となるスペイン北東部のエルミロン(El Mirón)遺跡の個体は、ベルギーのオーリナシアン期の個体と遺伝的に近縁です。一方、この時期のベルギーのゴイエット個体は、グラヴェティアン期の集団と遺伝的に近縁でした。14000年前頃になると、さらに温暖化が進展して氷河が広範に融解していき、ヨーロッパ南東部のイタリア半島やバルカン半島から拡散した集団が、先住集団をおおむね置換した、と推測されています(関連記事)。この集団は、イタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡で発見された14000年前頃の個体に代表され、現代の中東集団とも遺伝的に近縁な関係にあります。
5万年前頃?以降、ユーラシア東部に拡散した現生人類は、サフルランド(更新世寒冷期にニューギニア島・オーストラリア大陸・タスマニア島が陸続きとなって形成された大陸)系統とアジア東部(および南東部)系統に分岐します。アジア東部では9000年前頃以降、同じユーラシア東部狩猟採集民系統ではあるものの、大きく異なる黄河集団と揚子江集団がそれぞれ農耕を開始し、この2集団が衝突・交雑し、北から南への祖先系統の勾配が形成されます。まだ遺伝的には特定されていない揚子江集団は陸路でベトナムとタイ、海路で台湾島という2経路で拡散しました。チベット人は、黄河集団から2/3、在来の狩猟採集民集団から1/3の遺伝的影響を受けて成立したのではないか、と推測されています。
アジア南東部では、揚子江集団と在来の狩猟採集民集団との混合により現代人につながる各地域集団が形成された、と推測されています(関連記事)。この移住の大きな波は2回あり、最初は4000年前頃以前に農耕をもたらした集団、次が2000年前頃に青銅器文化をもたらした集団です。アジア南東部在来の狩猟採集民集団については、アフリカからユーラシア南部を東進してきてアジア南東部に到達し、アジア東部やサフルランドに拡散せず、アジア南東部に留まった集団が基盤となったようです(関連記事)。
現生人類とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との交雑に関しては、ユーラシア東西でそれぞれ複数回あっただろう、との見解(関連記事)が採用されています。ただ、ヨーロッパ系現代人よりもアジア東部系現代人の方が、ネアンデルタール人由来のゲノム領域の割合が高い理由については、依然として不明と指摘されています。現生人類と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との交雑についても、複数回説(関連記事)が採用されています。今年(2019年)4月に公表された研究でも、現生人類とデニソワ人の交雑複数回説が主張されています(関連記事)。デニソワ人については、最近情報をまとめました(関連記事)。
愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」については、すでにアジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)集団との遺伝的近縁性が指摘されており、「縄文人」も含めてアジア南東部および東部の最初期現生人類集団が、ユーラシア南方経路でアフリカから拡散してきたのではないか、と推測されています(関連記事)。本論文は「伊川津縄文人(IK002)」を主役とした論文を現在準備中と述べていますが、まだ査読中ではあるものの、最近公開されました(関連記事)。また、アゼルバイジャンの古人骨のゲノム解析も試みられているとのことで、今後の研究の進展が期待されます。
参考文献:
澤藤りかい、木村亮介、石田肇、太田博樹(2019)「東アジア・東南アジアのヒトの遺伝的多様性とその形成過程」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 18)』P10-15
本論文は、現生人類(Homo sapiens)のアフリカからの拡散と、各地域集団の形成過程に関する近年の研究動向を整理しています。本論文はまず、昨年(2018年)刊行された『交雑する人類』(関連記事)を取り上げ、アフリカからユーラシアへの現生人類の拡散を概観しています。39000年以上前にユーラシアへと拡散した現生人類については、45000年前頃となるシベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)遺跡の個体(関連記事)も40000年前頃となるルーマニアのワセ(Oase)遺跡の個体(関連記事)も、現代にはほとんど子孫が残っておらず、39000年前頃のイタリア半島の噴火のためではないか、と指摘されています。ただ、この噴火によりヨーロッパの現生人類が絶滅したとの見解には異論もあります(関連記事)。
39000年前頃以降のヨーロッパでは、現代人にも遺伝的影響を残した狩猟採集民系統が拡散します。それを代表するのは、37000年前頃のヨーロッパロシアのコステンキ14(Kostenki 14)遺跡の個体(関連記事)と35000年前頃のベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡の個体(関連記事)で、文化的にはオーリナシアン(Aurignacian)期となります。32000~22000年前頃のヨーロッパでは、オーリナシアン期の集団と遺伝的に近縁で、文化的にはグラヴェティアン(Gravettian)の狩猟採集民集団が広く拡散します。地理的に広範囲に拡散したにも関わらず、この狩猟採集民集団は遺伝的にひじょうに類似していました。
19000~14000年前頃のヨーロッパでは、最終氷期極大期(LGM)が終了して温暖化が進展し、寒冷期に待避所的な地域だったイベリア半島から、人類集団が再拡大します。この集団は文化的にはマグダレニアン(Magdalenian)となり、19000年前頃となるスペイン北東部のエルミロン(El Mirón)遺跡の個体は、ベルギーのオーリナシアン期の個体と遺伝的に近縁です。一方、この時期のベルギーのゴイエット個体は、グラヴェティアン期の集団と遺伝的に近縁でした。14000年前頃になると、さらに温暖化が進展して氷河が広範に融解していき、ヨーロッパ南東部のイタリア半島やバルカン半島から拡散した集団が、先住集団をおおむね置換した、と推測されています(関連記事)。この集団は、イタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡で発見された14000年前頃の個体に代表され、現代の中東集団とも遺伝的に近縁な関係にあります。
5万年前頃?以降、ユーラシア東部に拡散した現生人類は、サフルランド(更新世寒冷期にニューギニア島・オーストラリア大陸・タスマニア島が陸続きとなって形成された大陸)系統とアジア東部(および南東部)系統に分岐します。アジア東部では9000年前頃以降、同じユーラシア東部狩猟採集民系統ではあるものの、大きく異なる黄河集団と揚子江集団がそれぞれ農耕を開始し、この2集団が衝突・交雑し、北から南への祖先系統の勾配が形成されます。まだ遺伝的には特定されていない揚子江集団は陸路でベトナムとタイ、海路で台湾島という2経路で拡散しました。チベット人は、黄河集団から2/3、在来の狩猟採集民集団から1/3の遺伝的影響を受けて成立したのではないか、と推測されています。
アジア南東部では、揚子江集団と在来の狩猟採集民集団との混合により現代人につながる各地域集団が形成された、と推測されています(関連記事)。この移住の大きな波は2回あり、最初は4000年前頃以前に農耕をもたらした集団、次が2000年前頃に青銅器文化をもたらした集団です。アジア南東部在来の狩猟採集民集団については、アフリカからユーラシア南部を東進してきてアジア南東部に到達し、アジア東部やサフルランドに拡散せず、アジア南東部に留まった集団が基盤となったようです(関連記事)。
現生人類とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との交雑に関しては、ユーラシア東西でそれぞれ複数回あっただろう、との見解(関連記事)が採用されています。ただ、ヨーロッパ系現代人よりもアジア東部系現代人の方が、ネアンデルタール人由来のゲノム領域の割合が高い理由については、依然として不明と指摘されています。現生人類と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との交雑についても、複数回説(関連記事)が採用されています。今年(2019年)4月に公表された研究でも、現生人類とデニソワ人の交雑複数回説が主張されています(関連記事)。デニソワ人については、最近情報をまとめました(関連記事)。
愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」については、すでにアジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)集団との遺伝的近縁性が指摘されており、「縄文人」も含めてアジア南東部および東部の最初期現生人類集団が、ユーラシア南方経路でアフリカから拡散してきたのではないか、と推測されています(関連記事)。本論文は「伊川津縄文人(IK002)」を主役とした論文を現在準備中と述べていますが、まだ査読中ではあるものの、最近公開されました(関連記事)。また、アゼルバイジャンの古人骨のゲノム解析も試みられているとのことで、今後の研究の進展が期待されます。
参考文献:
澤藤りかい、木村亮介、石田肇、太田博樹(2019)「東アジア・東南アジアのヒトの遺伝的多様性とその形成過程」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 18)』P10-15
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