ユーラシア草原地帯牧畜民の穀類消費の増加と地域間の相互作用
ユーラシア草原地帯牧畜民における穀類消費の増加と地域間の相互作用の関係を検証した研究(Miller, and Makarewicz., 2019)が報道されました。ユーラシア草原地帯はは、東西のヒト・家畜・物資・文化が行き交う重要な交通路であり、もちろんそれに留まらない独自の文化を開花させてきました。本論文は、ユーラシア草原地帯牧畜民における穀類、とくにキビ(Panicum miliaceum)やアワ(Setaria italica)といった雑穀の消費がどのように定着していったのか、検証しています。こうした雑穀の栽培は、まずアジア東部、具体的には中国北部で紀元前六千年紀早期には始まっており、その後で西方へと拡散していった、と考えられます。
この他にユーラシアで重要な穀類としてコムギとオオムギがあり、こちらはまずアジア南西部で紀元前8500年前頃までに栽培が始まり、紀元前6000年前頃までにはイラン高原へ、紀元前5500年前頃までにはパキスタンへというように、東方へと拡大していき、アジア東部には紀元前2000年前頃に到達しました。本論文は、人類遺骸の同位体分析を用いて、穀類がどれだけ消費されていたのか、地域と年代(紀元前5500年以前~紀元後500年)による違いを検証しています。C4植物のアワやキビの雑穀とC3植物のオオムギおよびコムギは、同位体分析により消費が区別されます。本論文での地域区分は、以下に引用する図2に示されています。
本論文は、ユーラシア草原地帯牧畜民における雑穀の消費が次第に西方に拡大していき、第一段階の低水準の消費から、紀元前二千年紀半ばとなる青銅器時代~鉄器時代移行期以後の第二段階に大きく増加した、と示します。たとえばミヌシンスク盆地では、第一段階となる紀元前三千年紀後期から紀元前二千年紀早期にかけての前期青銅器時代に、狩猟採集民による低水準の雑穀消費の可能性が指摘されています。青銅器時代にはすでに地域間の相互作用があり、雑穀も西方へと拡大していったわけですが、本論文は、雑穀消費が低水準であることと、同位体分析による雑穀消費の痕跡が、炭化した種子の最初の出現時期よりかなり遅れることから、ユーラシア草原地帯の牧畜民の雑穀は、まず儀式的に用いる威信財として少量の栽培から始まったのではないか、と推測しています。
第二段階では、ユーラシア草原地帯の牧畜民で雑穀の消費が大きく増加します。本論文はこの要因として、ユーラシア草原地帯における複雑な政治的統合の拡大・強化を指摘しています。これにより、青銅器時代~鉄器時代移行期以後には、第一段階よりもさらに地域間の相互作用が強化されたのではないか、というわけです。本論文は、雑穀が威信財的な機能も担う希少作物だった第一段階と比較して、第二段階には牧畜民社会における支配層の地位を区別する食料へと変わっていったのではないか、と指摘しています。なお、雑穀の出現時期と場所から、雑穀は中国北部より新疆ウイグル自治区を経由して西方に拡散していったのではないか、と本論文は推測しています。
一方、青銅器時代~鉄器時代移行期以後にも、雑穀がほとんど消費されない地域もありました。一方はモンゴル草原で、遊牧民的な生活に根差す生活様式に固執するようなイデオロギーがあったためではないか、と本論文は推測しています。モンゴル草原で雑穀の消費が増大するのは紀元前千年紀末に近く、これは匈奴の強大化との関連が指摘されています。もう一方はトランスウラル地域で、水の利用性や農耕技術とも関連して、コムギとオオムギが選択されたのではないか、と本論文は推測しています。
このように、例外的な地域もあるとはいえ、ユーラシア草原地帯の牧畜民社会では、当初はおそらく儀式用として希少だった雑穀が、政治的統合の拡大・強化とそれに伴う相互作用の増大により、次第に食料として定着していった様子が窺えます。一方で本論文は、ユーラシア草原地帯の牧畜民社会の雑穀消費が、同時代の中国の水準に及ばないことも指摘しています。中国では、漢王朝期でもおおむね、コムギ・オオムギ・マメ類は貧困層の飢饉対策用の社会的地位の低い食糧で、雑穀の方が重視されていたようです(関連記事)。この状況が変わるのは漢王朝末期で、製粉技術の革新により、コムギは麺類に用いられる価値の高い食材と認識されるようになりました。
参考文献:
Miller ARV, and Makarewicz CA.(2019): Intensification in pastoralist cereal use coincides with the expansion of trans-regional networks in the Eurasian Steppe. Scientific Reports, 9, 8363.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-35758-w
この他にユーラシアで重要な穀類としてコムギとオオムギがあり、こちらはまずアジア南西部で紀元前8500年前頃までに栽培が始まり、紀元前6000年前頃までにはイラン高原へ、紀元前5500年前頃までにはパキスタンへというように、東方へと拡大していき、アジア東部には紀元前2000年前頃に到達しました。本論文は、人類遺骸の同位体分析を用いて、穀類がどれだけ消費されていたのか、地域と年代(紀元前5500年以前~紀元後500年)による違いを検証しています。C4植物のアワやキビの雑穀とC3植物のオオムギおよびコムギは、同位体分析により消費が区別されます。本論文での地域区分は、以下に引用する図2に示されています。
本論文は、ユーラシア草原地帯牧畜民における雑穀の消費が次第に西方に拡大していき、第一段階の低水準の消費から、紀元前二千年紀半ばとなる青銅器時代~鉄器時代移行期以後の第二段階に大きく増加した、と示します。たとえばミヌシンスク盆地では、第一段階となる紀元前三千年紀後期から紀元前二千年紀早期にかけての前期青銅器時代に、狩猟採集民による低水準の雑穀消費の可能性が指摘されています。青銅器時代にはすでに地域間の相互作用があり、雑穀も西方へと拡大していったわけですが、本論文は、雑穀消費が低水準であることと、同位体分析による雑穀消費の痕跡が、炭化した種子の最初の出現時期よりかなり遅れることから、ユーラシア草原地帯の牧畜民の雑穀は、まず儀式的に用いる威信財として少量の栽培から始まったのではないか、と推測しています。
第二段階では、ユーラシア草原地帯の牧畜民で雑穀の消費が大きく増加します。本論文はこの要因として、ユーラシア草原地帯における複雑な政治的統合の拡大・強化を指摘しています。これにより、青銅器時代~鉄器時代移行期以後には、第一段階よりもさらに地域間の相互作用が強化されたのではないか、というわけです。本論文は、雑穀が威信財的な機能も担う希少作物だった第一段階と比較して、第二段階には牧畜民社会における支配層の地位を区別する食料へと変わっていったのではないか、と指摘しています。なお、雑穀の出現時期と場所から、雑穀は中国北部より新疆ウイグル自治区を経由して西方に拡散していったのではないか、と本論文は推測しています。
一方、青銅器時代~鉄器時代移行期以後にも、雑穀がほとんど消費されない地域もありました。一方はモンゴル草原で、遊牧民的な生活に根差す生活様式に固執するようなイデオロギーがあったためではないか、と本論文は推測しています。モンゴル草原で雑穀の消費が増大するのは紀元前千年紀末に近く、これは匈奴の強大化との関連が指摘されています。もう一方はトランスウラル地域で、水の利用性や農耕技術とも関連して、コムギとオオムギが選択されたのではないか、と本論文は推測しています。
このように、例外的な地域もあるとはいえ、ユーラシア草原地帯の牧畜民社会では、当初はおそらく儀式用として希少だった雑穀が、政治的統合の拡大・強化とそれに伴う相互作用の増大により、次第に食料として定着していった様子が窺えます。一方で本論文は、ユーラシア草原地帯の牧畜民社会の雑穀消費が、同時代の中国の水準に及ばないことも指摘しています。中国では、漢王朝期でもおおむね、コムギ・オオムギ・マメ類は貧困層の飢饉対策用の社会的地位の低い食糧で、雑穀の方が重視されていたようです(関連記事)。この状況が変わるのは漢王朝末期で、製粉技術の革新により、コムギは麺類に用いられる価値の高い食材と認識されるようになりました。
参考文献:
Miller ARV, and Makarewicz CA.(2019): Intensification in pastoralist cereal use coincides with the expansion of trans-regional networks in the Eurasian Steppe. Scientific Reports, 9, 8363.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-35758-w
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