双系的な現生人類社会

 最近、神武天皇のY染色体を強調する言説について、皇位継承と絡めて述べましたが(関連記事)、人類社会の構造について、少し補足しておきます。古代日本社会を双系的と解釈する見解は現在では有力とされているでしょうが、それは現生人類(Homo sapiens)において普遍的な、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続ける、という特徴に由来し、それが人類社会を重層的に組織化したのだと思います(関連記事)。前回の記事ではそこから人類社会が母系的なのか父系的なのか、と単純化してしまったところがありますが、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続けるのが現生人類の普遍性ならば、そもそも現生人類社会は基本的に双系的とも言えます。

 とはいっても、じっさいには、現代人の社会は父系的性格の強いものから母系的性格の強いものまで存在し、それは現生人類の高い認知能力に由来する柔軟な行動を反映しているのでしょう。父系的性格の強い事例としては、オスマン朝における君主の継承が挙げられます。母方の身分が問われずというか、むしろ低い方が好都合と考えられていたオスマン朝の君主継承は、父系継承に純化したものとさえ言えそうです(関連記事)。これは、君主の母親の身分が高いと、外戚として権力を振るう可能性がある、と懸念されていたためでもあるようです。これも、現生人類社会に普遍的な双系的特徴を前提とした対応策と言えるでしょう。外戚が存在しないようにしたこと、有力な後継者となり得る兄弟の排除、高官といえども君主の命で殺される場合が多く、奴隷を取り立てて奴隷身分のまま高官とすることも多かった制度が、オスマン朝の長期の持続を可能としました。

 前回の記事では、古代(6世紀半ば以降を想定しています)日本の支配層は基本的に父系的で、母方も重視されたことを母系的と解釈することは間違いだ、と指摘したのですが、これは、父系にかなり偏った双系的社会と訂正すべきではないか、と考えを改めました。古代日本の支配層に限らず、父系的継承の社会は古代から世界で広く見られますが、これは、そもそも人類社会が他の現生大型類人猿(ヒト科)と同じく父系的な社会から始まったためではないか、と私は考えています(関連記事)。その意味で、双系的社会は母系的社会から父系的社会への移行期的性格と位置づけることはできず、現生人類社会の本質と考えるべきでしょう。

 また、「原始的な」母系社会から父系的社会へと「発展(進歩)」した、というような通俗的唯物史観は根本的に間違っており、現生人類の社会は状況に応じて柔軟に変わっていくものなので、通俗的唯物史観は薄弱な根拠で偏見を助長するという意味でも問題ではないか、と私は考えています。唯物史観はもはや影響力を失い、これをことさらに攻撃することに否定的な人も少なくないでしょうが、今でも(通俗的)唯物史観の影響は根強く、自覚せずに囚われてしまっている場合も多いのではないか、と思います。凡人の私もその例外ではないので、唯物史観の悪影響については意識し続けねばなりませんし、唯物史観の批判は今でも重要だと考えています。

この記事へのコメント

kurozee
2019年05月31日 10:40
現生人類は「父系にかなり偏った双系的社会」で柔軟な社会選択を持つという説には(今のところ)賛成です。
私の青年期は唯物主義全盛で、それを批判する者は進歩的知識人にあらずという時代でした。私自身もかなり影響を受けましたが、いわゆる旧左翼を批判する中で、唯物主義が西欧近代の直線的進歩主義の一変奏であると気づきました。しかし「当たり前」と思っている思考法の内に西欧近代主義がふと顔を覗かせることもあるので、常に「常識を疑う」態度を保持するのが大事だと思っています。古人類についての近年の発見も、私の内なる常識を覆すことにつながっていると思います。
2019年05月31日 19:42
唯物主義が西欧近代の直線的進歩主義の一変奏というのは、その通りでしょうね。「常識を疑う」ことは難しいのですが、この点には自覚的であり続けたいものです。

この記事へのトラックバック