バルト海東部地域のウラル語族の起源
バルト海東部地域のウラル語族の起源に関する研究(Saag et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ほとんどのヨーロッパ人の遺伝的構成は、旧石器時代~中石器時代のヨーロッパの狩猟採集民と、新石器時代のアナトリア半島起源の初期農耕民と、青銅器時代前後のポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)を中心とする草原地帯遊牧民という、3系統の組み合わせです。
バルト海東部地域もその例外ではありません。バルト海東部の人類集団においては、中石器時代以降の遺伝的情報が得られています。中石器時代の狩猟採集民は、遺伝的にヨーロッパに拡散したヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)と最も類似しています。バルト海東部におけるヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)への遺伝的移行は、紀元前3900年以降となる新石器時代の櫛目文土器文化(Comb Ceramic culture、CCC)集団の到来の影響と推測されています。ポントス-カスピ海草原地帯起源の後期新石器時代縄目文土器文化(Corded Ware culture)は紀元前2800年以降にバルト海東部に到達し、ヨーロッパの他地域と同様に、草原地帯遊牧民の遺伝的影響がもたらされました。
インド・ヨーロッパ語族が支配的なヨーロッパにおいて、ウラル語族の存在するヨーロッパ北東部に関しては、現代人集団にヨーロッパの他地域よりも強いシベリア系の遺伝的影響が確認されています。バルト海東部では、Y染色体DNAハプログループ(YHg)のN3a系統が高頻度で確認されており、N3a系統はヨーロッパのウラル語族であるのフィン・ウゴル語派集団のほとんどおよびシベリア全域のいくつかの集団で共有されています。古代DNA研究からは、青銅器時代以降にシベリアからウラル語族集団が到来し、ウラル語族系言語をもたらしたのではないか、と推測されています(関連記事)。本論文は、青銅器時代~中世にかけてのバルト海東部地域の人類の古代DNAを解析し、既知の古代および現代の遺伝的データと比較することで、バルト海東部における遺伝的構成の変容を検証しています。
本論文は、青銅器時代~中世にかけてのバルト海東部地域の56人の歯根からDNAを解析しました。地域はさらにエストニアとイングリアに区分されています。このうち15人は分析できるだけのデータが得られなかったので除外され、8人からはミトコンドリアDNA(mtDNA)と(男性の場合は)Y染色体DNAのハプログループを決定できるだけのデータが得られたものの、常染色体では情報分析に充分なデータが得られず、33人は解析に充分なデータが得られました。この33人のゲノム解析の網羅率は0.017倍~0.734倍です。その内訳は、紀元前1200~紀元前400年となる後期青銅器時代のエストニア(EstBA)の15人と、紀元前800/500~紀元後50年となる先ローマ期鉄器時代のエストニア(EstIA)の6人と、紀元前500~紀元後450年となるイングリアの先ローマ期からローマ期鉄器時代(IngIA)の5人と、紀元後1200~紀元後1600年となる中世エストニア(EstMA)の7人です。
新たに特定された41人の古代のmtDNAハプログループ(mtHg)は全て現代エストニア人にも確認され、特定の地域に限定されない、と明らかになりました。父系では、30人の古代のYHgが特定されました。EstBAの16人は全員YHg- R1aで、後期新石器時代のCWCとはまったく異なりません。EstIAの3人とIngIAの2人もYHg- R1aですが、EstIAの3人はシベリア系のYHg- N3aで、これまでバルト海東部において確認されたYHg- N3としては最古となります。EstMAのYHgは、3人がN3a、2人がR1a、1人がJ2bです。CWC以前のバルト海東部のYHgはI・R1b・R1a5・Qですから、東方の草原地帯由来のR1aに実質的に置換されたようです。エストニアでは、フェノスカンジアとは異なり、青銅器時代にシベリア系のN3aは検出されていませんが、標本が少ないためにまだ検出できていないだけで、青銅器時代に存在した可能性を除外できない、と本論文は指摘します。ただ、YHg- N3aの頻度は青銅器時代よりも鉄器時代で顕著に高く、ヨーロッパ東部におけるYHg-R1a1とYHg-N3a3の拡大時期は類似しており、エストニアにおけるN3aの出現もしくは少なくとも現代エストニア人と匹敵する程度の頻度になったのは、青銅器時代~鉄器時代の移行期のみだっただろう、と本論文は結論づけています。この頃に、エストニアにシベリア系集団が到来したのではないか、というわけです。
青銅器時代以降のエストニアの常染色体では、以前のバルト海東部地域の研究で指摘されていたように(関連記事)、WHG系統の明確な比率増加が見られます。EstBA・EstIA・IngIA・EstMA・現代エストニアの集団は相互に平均してよく類似しており、他の現代ヨーロッパ人と比較して現代バルト海東部地域集団においてWHGの比率が比較的高いのは、青銅器時代以来のことだろう、と本論文は指摘します。銅器時代~鉄器時代にかけて、エストニアの人類集団の常染色体では、それまでにはほぼ検出されなかったシベリア系の要素が出現します。これはシベリア系YHgの出現時期とおおむね一致します。フェノスカンジアの人類集団ではシベリア系統が3500年前頃に出現したと推測されていますが(関連記事)、バルト海東部の人類集団ではこれよりも後の紀元前千年紀となる青銅器時代~鉄器時代の移行期に、ウラル語族のシベリア系統集団の遺伝的影響を受けたようです。これは、言語学で推定されている、バルト海東部におけるフィン・ウゴル語派の多様化の時期とも一致しており、バルト海東部では青銅器時代~鉄器時代の移行期にウラル語族のシベリア系統集団が到来し、考古学的証拠に基づくと、それはヴォルガ-ウラル地域からの南西経路だったのではないか、と本論文は推測しています。ただ、エストニアの鉄器時代以降の人類集団において、常染色体でのシベリア系の影響はY染色体よりもずっと低く、青銅器時代~鉄器時代にかけてバルト海東部に拡散してきたシベリア系集団は男性主体だったか、シベリア系集団が支配的な地位を確立して父系社会を築いた、とも考えられます。
本論文は、新たにDNAを解析した個体間の親族関係も推定しています。X14とV16という青銅器時代の2個体は、かなり近い近親関係にありました。2人は母系でも父系でも同じハプログループに分類され、mtHgではH1b2、YHgでも他のEstBA 男性全員と同様にR1aでした。Y染色体DNA解析の網羅率が充分ではないため、2人が父系でどの程度近い関係にあるのか定かではありませんが、mtDNAの全解析ではハプロタイプが一致しており、2人は母親を同じくする半兄弟もしくは男性とその姉妹の息子(オジと甥の関係)だった、と推測されます。この2人の石窯での埋葬場所は13km離れており、石窯での埋葬例が少ないことから、こうした墓は限られたエリート層のものだっただろう、と本論文は指摘します。放射性年代測定では、X14が2481±30年前、V16が2399±27年前です。推定死亡年齢は、X14が35~40歳、V16が30~40歳です。本論文は、X14がオジでV16は(その姉妹の息子となる)甥だろう、と推測しています。
本論文は、バルト海東部の古代人類集団の表現型の変化についても検証しています。バルト海東部のCWC集団では、肌の色は濃かったと推測されています。その後、バルト海東部の人類集団では肌の色が薄いもしくは中間的になっていき、さらに青い目とより明るい髪の色の比率が増加しました。バルト海東部の人類集団においては、色素沈着機能を低下させるような遺伝的多様体の比率が青銅器時代以降に増加していった、と考えられます。ヨーロッパでは中石器時代まで薄い色の肌はまだ広まっていなかったのではないか、と推測されていますが(関連記事)、青銅器時代には薄い肌の色が高頻度で存在していた、と指摘されています(関連記事)。また、ヨーロッパ北部においてとくに高い乳糖耐性関連の遺伝的多様体の頻度も、バルト海東部では後期新石器時代以後に増加したことが明らかになりました。
参考文献:
Saag L. et al.(2019): The Arrival of Siberian Ancestry Connecting the Eastern Baltic to Uralic Speakers further East. Current Biology, 29, 10, 1701–1711.E16.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2019.04.026
バルト海東部地域もその例外ではありません。バルト海東部の人類集団においては、中石器時代以降の遺伝的情報が得られています。中石器時代の狩猟採集民は、遺伝的にヨーロッパに拡散したヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)と最も類似しています。バルト海東部におけるヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)への遺伝的移行は、紀元前3900年以降となる新石器時代の櫛目文土器文化(Comb Ceramic culture、CCC)集団の到来の影響と推測されています。ポントス-カスピ海草原地帯起源の後期新石器時代縄目文土器文化(Corded Ware culture)は紀元前2800年以降にバルト海東部に到達し、ヨーロッパの他地域と同様に、草原地帯遊牧民の遺伝的影響がもたらされました。
インド・ヨーロッパ語族が支配的なヨーロッパにおいて、ウラル語族の存在するヨーロッパ北東部に関しては、現代人集団にヨーロッパの他地域よりも強いシベリア系の遺伝的影響が確認されています。バルト海東部では、Y染色体DNAハプログループ(YHg)のN3a系統が高頻度で確認されており、N3a系統はヨーロッパのウラル語族であるのフィン・ウゴル語派集団のほとんどおよびシベリア全域のいくつかの集団で共有されています。古代DNA研究からは、青銅器時代以降にシベリアからウラル語族集団が到来し、ウラル語族系言語をもたらしたのではないか、と推測されています(関連記事)。本論文は、青銅器時代~中世にかけてのバルト海東部地域の人類の古代DNAを解析し、既知の古代および現代の遺伝的データと比較することで、バルト海東部における遺伝的構成の変容を検証しています。
本論文は、青銅器時代~中世にかけてのバルト海東部地域の56人の歯根からDNAを解析しました。地域はさらにエストニアとイングリアに区分されています。このうち15人は分析できるだけのデータが得られなかったので除外され、8人からはミトコンドリアDNA(mtDNA)と(男性の場合は)Y染色体DNAのハプログループを決定できるだけのデータが得られたものの、常染色体では情報分析に充分なデータが得られず、33人は解析に充分なデータが得られました。この33人のゲノム解析の網羅率は0.017倍~0.734倍です。その内訳は、紀元前1200~紀元前400年となる後期青銅器時代のエストニア(EstBA)の15人と、紀元前800/500~紀元後50年となる先ローマ期鉄器時代のエストニア(EstIA)の6人と、紀元前500~紀元後450年となるイングリアの先ローマ期からローマ期鉄器時代(IngIA)の5人と、紀元後1200~紀元後1600年となる中世エストニア(EstMA)の7人です。
新たに特定された41人の古代のmtDNAハプログループ(mtHg)は全て現代エストニア人にも確認され、特定の地域に限定されない、と明らかになりました。父系では、30人の古代のYHgが特定されました。EstBAの16人は全員YHg- R1aで、後期新石器時代のCWCとはまったく異なりません。EstIAの3人とIngIAの2人もYHg- R1aですが、EstIAの3人はシベリア系のYHg- N3aで、これまでバルト海東部において確認されたYHg- N3としては最古となります。EstMAのYHgは、3人がN3a、2人がR1a、1人がJ2bです。CWC以前のバルト海東部のYHgはI・R1b・R1a5・Qですから、東方の草原地帯由来のR1aに実質的に置換されたようです。エストニアでは、フェノスカンジアとは異なり、青銅器時代にシベリア系のN3aは検出されていませんが、標本が少ないためにまだ検出できていないだけで、青銅器時代に存在した可能性を除外できない、と本論文は指摘します。ただ、YHg- N3aの頻度は青銅器時代よりも鉄器時代で顕著に高く、ヨーロッパ東部におけるYHg-R1a1とYHg-N3a3の拡大時期は類似しており、エストニアにおけるN3aの出現もしくは少なくとも現代エストニア人と匹敵する程度の頻度になったのは、青銅器時代~鉄器時代の移行期のみだっただろう、と本論文は結論づけています。この頃に、エストニアにシベリア系集団が到来したのではないか、というわけです。
青銅器時代以降のエストニアの常染色体では、以前のバルト海東部地域の研究で指摘されていたように(関連記事)、WHG系統の明確な比率増加が見られます。EstBA・EstIA・IngIA・EstMA・現代エストニアの集団は相互に平均してよく類似しており、他の現代ヨーロッパ人と比較して現代バルト海東部地域集団においてWHGの比率が比較的高いのは、青銅器時代以来のことだろう、と本論文は指摘します。銅器時代~鉄器時代にかけて、エストニアの人類集団の常染色体では、それまでにはほぼ検出されなかったシベリア系の要素が出現します。これはシベリア系YHgの出現時期とおおむね一致します。フェノスカンジアの人類集団ではシベリア系統が3500年前頃に出現したと推測されていますが(関連記事)、バルト海東部の人類集団ではこれよりも後の紀元前千年紀となる青銅器時代~鉄器時代の移行期に、ウラル語族のシベリア系統集団の遺伝的影響を受けたようです。これは、言語学で推定されている、バルト海東部におけるフィン・ウゴル語派の多様化の時期とも一致しており、バルト海東部では青銅器時代~鉄器時代の移行期にウラル語族のシベリア系統集団が到来し、考古学的証拠に基づくと、それはヴォルガ-ウラル地域からの南西経路だったのではないか、と本論文は推測しています。ただ、エストニアの鉄器時代以降の人類集団において、常染色体でのシベリア系の影響はY染色体よりもずっと低く、青銅器時代~鉄器時代にかけてバルト海東部に拡散してきたシベリア系集団は男性主体だったか、シベリア系集団が支配的な地位を確立して父系社会を築いた、とも考えられます。
本論文は、新たにDNAを解析した個体間の親族関係も推定しています。X14とV16という青銅器時代の2個体は、かなり近い近親関係にありました。2人は母系でも父系でも同じハプログループに分類され、mtHgではH1b2、YHgでも他のEstBA 男性全員と同様にR1aでした。Y染色体DNA解析の網羅率が充分ではないため、2人が父系でどの程度近い関係にあるのか定かではありませんが、mtDNAの全解析ではハプロタイプが一致しており、2人は母親を同じくする半兄弟もしくは男性とその姉妹の息子(オジと甥の関係)だった、と推測されます。この2人の石窯での埋葬場所は13km離れており、石窯での埋葬例が少ないことから、こうした墓は限られたエリート層のものだっただろう、と本論文は指摘します。放射性年代測定では、X14が2481±30年前、V16が2399±27年前です。推定死亡年齢は、X14が35~40歳、V16が30~40歳です。本論文は、X14がオジでV16は(その姉妹の息子となる)甥だろう、と推測しています。
本論文は、バルト海東部の古代人類集団の表現型の変化についても検証しています。バルト海東部のCWC集団では、肌の色は濃かったと推測されています。その後、バルト海東部の人類集団では肌の色が薄いもしくは中間的になっていき、さらに青い目とより明るい髪の色の比率が増加しました。バルト海東部の人類集団においては、色素沈着機能を低下させるような遺伝的多様体の比率が青銅器時代以降に増加していった、と考えられます。ヨーロッパでは中石器時代まで薄い色の肌はまだ広まっていなかったのではないか、と推測されていますが(関連記事)、青銅器時代には薄い肌の色が高頻度で存在していた、と指摘されています(関連記事)。また、ヨーロッパ北部においてとくに高い乳糖耐性関連の遺伝的多様体の頻度も、バルト海東部では後期新石器時代以後に増加したことが明らかになりました。
参考文献:
Saag L. et al.(2019): The Arrival of Siberian Ancestry Connecting the Eastern Baltic to Uralic Speakers further East. Current Biology, 29, 10, 1701–1711.E16.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2019.04.026
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