河上麻由子『古代日中関係史 倭の五王から遣唐使以降まで』

 中公新書の一冊として、中央公論社より2019年3月に刊行されました。本書は、いわゆる倭の五王の時代から、遣隋使・遣唐使の時代を経て、「日中」の「国家間」の関係が途絶えた10世紀までを対象としています。倭の五王に関しては、武を最後に遣使が途絶えた理由として、日本列島における「天下」概念の成長・肥大化によるものではなく、武(雄略)死後の王位継承の不安定化が原因ではないか、と指摘されています。梁の「職貢図」に見える倭の使者に関しては、じっさいの姿ではなく文献に基づいて想像で描かれたのだろう、と推測されています。

 遣隋使については、600年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)の第1回において、倭の使者が天を兄、日を弟としたことで文帝の不興を買った(関連記事)のではなく、文帝は夜中に政務を執ることにたいして訓戒したのだ、と指摘されています。本書はその理由を、「中国」は各国の信仰に関心を抱くものの、その是非を論じて使者を訓戒することはないから、と説明しています。本書は第2回の遣隋使について、仏教色が強かった、と指摘します。なぜならば、倭の君主が称した「天子」とは、中華思想ではなく仏教用語だったからです。さらに本書は、当時の慣例から、「日出処天使」は「私的な」書状で、それとは別に臣下の立場からの「公的な」書状があり、そのために煬帝(明帝)は倭の使者を不快に思いつつも、倭に使者を派遣したのではないか、と本書は推測しています。また本書は、倭が隋から冊封されなかったことについては、当時、朝鮮半島の諸国も隋から冊封されておらず、倭が隋からの冊封を要求しなかったのは当然だった、とも指摘しています。なお、第2回とは異なり第1回の遣隋使に仏教色がない理由について、隋の前身である北周において廃仏が行なわれており、隋の仏教への傾倒が601年まで明確ではなかったから、と本書は推測しています。

 遣唐使については、第1回の使者の帰国のさいに、唐が高表仁を倭へと派遣し、倭王(もしくは王子)との間に「争礼」が起きたのは、唐による冊封を倭が拒否したためではなく、唐からの使者と倭王(王子)との間に儀式の場における上下の争いがあったからだ、と推測されています。本書はその根拠として、当時の唐が倭を冊封しようとする条件はなかったことを挙げています。最初期の唐は諸国の冊封に隋より熱心だったわけではなく、方針を転換してからも、かつて直接支配したわけではない倭を冊封する必然性はなかった、というわけです。遣唐使は朝貢だったことが強調されており、また原則として天皇一代に一度の事業だった、との見解を本書は採用しています。日本が道教の導入に消極的だったのは、唐の皇室が道教の祖とされていた老子の子孫と称していたため、道教の導入が唐の皇室の祖先崇拝を持ち込むことになると警戒したからではないか、と本書は推測しています。

 最後の遣唐使は838年となり、これ以降、前近代においては、天皇の名で「中国」と公的に関係を有することはなくなります。本書はその理由の一つを、天皇にのみ許されていた一代に一度の盛儀だった遣唐使(海外への公使派遣)は、個としての天皇が王権の中で突出していた状況でのことであり、平安時代初期を過ぎて、天皇が貴族社会に支えられる存在となると、海外への公使派遣の条件が失われたからだ、と説明しています。しかし、よく知られているように、「唐物」は日本に流入し続け、日本は「中国」の影響を受け続けます。遣唐使の時代よりも「唐物」の入手が容易になったことも、海外への公使派遣に朝廷が消極的だった一因である、と本書は指摘しています。ただ本書は、「日中」の「公的関係」が途絶えたことにより、貴族層が「中国」の文化に直接触れることはなくなったことから、貴族層による「唐物」の消費にしても、「中国」の流行から離れていった、と指摘しています。また本書は、「日中」の「公的関係」が途絶えたことにより、「中国」の最新技術を導入するための人材派遣もなくなり、技術面でも「中国」の流行から離れていった、と指摘しています。本書は「国風文化」の背景として、文化の消費者・生産者としての貴族層と、それを支える技術者層に入唐経験者がいなくなったことを挙げています。

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