佐藤信編『古代史講義【戦乱篇】』

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2019年3月に刊行されました。本書は、佐藤信編『古代史講義 邪馬台国から平安時代まで』(関連記事)の続編というか、対となる1冊だと言えるでしょう。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。なお、以下の西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。


第1講●大高広和「磐井の乱」P13~29
 磐井の乱が朝鮮半島情勢と深く関わっていた、と強調されています。磐井は有明海沿岸を中心とした実力者ではあるものの、磐井の墓とされる岩戸山古墳を含む八女古墳群と匹敵するような津屋崎古墳群が玄界灘沿岸に存在しており、九州全体を把握していたわけではない、と指摘されています。磐井が反乱を起こした原因は定かではないものの、前王権との直接的関係が薄かったと考えられる継体の即位や、ヤマト王権の朝鮮半島情勢への対応に不満があったのではないか、と推測されています。


第2講●加藤謙吉「蘇我・物部戦争」P31~46
 587年の物部守屋が敗亡した戦い(丁未の役)について解説されています。物部氏は6世紀に日本に「公式に」仏教を伝えた百済との交渉に関わり、百済に渡って百済女性との間に子供(韓子)を儲けた男性もいることから、物部氏を排仏派とみなすことはできない、と指摘されています。物部氏と蘇我氏の対抗的関係としては、東漢氏や南河内の渡来人と提携した蘇我氏にたいして、西漢氏や中河内の渡来人と関係を深めていった物部氏という構図があったようです。

 当時の議政官であるマヘツキミを統括していたのがオホマヘツキミで、本論考は、蘇我馬子も物部守屋もオホマヘツキミであり、「大臣」と「大連」という表記の違いは、両者の出自の違いを反映しているのではないか、と推測しています。氏の成立前、葛城には擬制的な同族関係で結ばれた豪族の連合体が存在し、大王に弾圧されつつも生き延びた一族がおり、蘇我氏もその一員ではないか、と本論考は推測しています。

 本論考は、蘇我氏を新興氏族、物部氏をその前から有力な氏族と把握し、蘇我氏は物部氏よりも政治・軍事・経済で劣勢だった、と指摘します。では、なぜ蘇我氏が物部氏を追い落とせたかというと、本論考は、大王一族との婚姻関係およびマヘツキミ勢力との連携による物部氏の孤立を挙げています。本論考は、物部氏には大王との通婚の資格が基本的になく、また蘇我氏は葛城を中心とする在地豪族層にとって復権のさいの指導者的地位を求めたため、物部氏は孤立していった、と推測しています。


第3講●有富純也「乙巳の変」P47~60
 本論考は乙巳の変を、国内における政治主導権争いと、アジア東部、とくに朝鮮半島情勢との関連から把握しています。乙巳の変の少し前から、朝鮮半島は激動の時代を迎えていました。百済が義慈王のもと新羅へと侵攻していき、新羅に助けを求められて拒否した高句麗では、泉蓋蘇文がクーデタを起こし、実権を握って国政を主導していきます。本論考は、乙巳の変で殺害された蘇我入鹿が、大臣独裁の高句麗型を目指したのではないか、と推測しています。


第4講●浅野啓介「白村江の戦い」P61~84
 白村江の戦いだけではなく、その前後の情勢も解説されています。重要なのは、百済復興運動の中心となった鬼室福信のもたらした情報から、唐は戦いに介入してこないだろう、と倭(日本)の首脳層が判断していたことです。これは単なる希望的観測ではなく、唐の皇帝の高宗(李治)は大規模な軍の派遣に慎重だったものの、劉仁軌の進言により大規模な唐水軍が朝鮮半島へと派遣されました。倭の大敗の要因としては、律令体制に基づく秩序だった軍編成の唐軍と、地方豪族が兵を率い、それを中央豪族が統率するという、倭の未熟な軍編成が指摘されています。白村江の戦い以降、倭では山城が築かれますが、これは、海戦では勝ち目がないと判断されていた一方で、陸戦では百済軍も善戦していたからではないか、と推測されています。また唐には、攻撃されない限り倭へと攻め込む意思はなかっただろう、とも指摘されています。


第5講●北啓太「壬申の乱」P85~104
 壬申の乱での大海人の勝因として、近江朝廷と東国の遮断が挙げられています。おそらく西国は、白村江の戦いで大打撃を受けて疲弊していたでしょうから、戦力としては東国が重要となったのでしょう。また、近江朝廷が各地に使者を派遣して援軍を要請したにも関わらず断られたように、近江朝廷への広範な不満があり、大海人がそれを自分への支持とできたことも大きかった、と指摘されています。大海人への支持は広範なもので、大豪族と中小豪族、あるいは中央豪族と地方豪族といった区分で、近江朝廷側と大海人側の支持を区分できない、とも指摘されています。さらに本論考では、近江朝廷側に大海人への警戒心が薄かったことも強調されています。大海人は近江朝廷にたいして反乱を起こして政権を奪い、改革を進めていきましたが、その改革が天智朝の延長線上にあったことも指摘されています。


第6講●山下信一郎「長屋王の変」P105~123
 長屋王の変の要因としては、光明子を皇后とすることに反対するだろうから、藤原氏が排除した、との見解が長く通説でした。現在では、それだけではなく、長屋王と吉備内親王との間の息子が、聖武天皇と光明子との間に男子がいない中、皇位継承の有力者として危険視されていたことも挙げられています。聖武天皇と光明子との間の男子の夭逝により、聖武天皇と藤原氏は長屋王への警戒心を強めていった、というわけです。なお、いわゆる藤原四子が一枚岩となって長屋王を排除したのかについては、議論があるようで、不比等の次男の房前は長屋王と親しかった、との見解も提示されています。また、長屋王の失脚には、庇護者的存在だった叔母の元明上皇の死が大きかった、とも指摘されています。


第7講●松川博一「藤原広嗣の乱」P125~141
 藤原広嗣の謀反の一因として、大宰府少弐への任命がよく挙げられますが、本論考は、当時の大宰府の重要性と、広嗣の父である宇合が大宰府の最高官である帥として手腕を振るったこと、当時帥は空席で、大弐は現地に赴任していないため広嗣が現地の最高責任者だったことから、大宰府少弐への任命は一概に左遷とは言えない、と指摘しています。また、広嗣の軍事力の基盤として、郡司層と大宰府官人が国司層を介さずに直接結びついていたことも挙げられています。


第8講●小倉真紀子「橘奈良麻呂の変」P143~154
 橘奈良麻呂の変の背景として、孝謙天皇の皇位継承者としての正統性を疑問視する人々の存在を指摘する見解もありますが(関連記事)、本論考は、未婚の孝謙天皇が即位しても、その後の天皇を誰とするのか、という問題が残るので、孝謙天皇の正当性ではなく、皇位継承者が確定していないことを橘奈良麻呂たちは問題にしていたのだ、と推測しています。橘奈良麻呂の変の処罰者が443人と多かったことについて本論考は、藤原仲麻呂が橘奈良麻呂だけではなく、同母兄で右大臣の豊成を排斥しようとしたからではないか、と推測しています。


第9講●寺崎保広「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」P155~168
 藤原仲麻呂の乱は、鈴印の争奪が焦点となったように、文書行政の定着を示す、と評価されています。乱の帰趨を決したのは、鈴印の奪取もあるにせよ、乱の直前に仲麻呂派が孤立していたことにある、と本論考は指摘します。仲麻呂が権力を掌握して独自の政策を遂行したのは757~764年ですが、この間の政策について、単なる祖先顕彰や唐風趣味ではなく、その多くは現実的な課題に対応したものである、と評価されています。ただそれでも、仲麻呂の治世の後半には、じょじょに独断的・保身的傾向が強まっていく、とも指摘されています。


第10講●永田英明「律令国家の対蝦夷戦争」P169~186
 律令国家と蝦夷との「38年戦争(774~811年)」について解説されています。この間、一旦は律令国家に服従・協力していた蝦夷の豪族の離反が目立ち、両者の関係の不安定性が窺えます。蝦夷については、律令国家による名称にすぎず、その社会は多様で、広域的な政治統合が進んでいたわけではなく、個々の地域集団に明確な階層差が見られない、と指摘されています。一方で、蝦夷社会において、律令国家との戦いの中で、一定の軍事組織の形成と政治的統合への志向の可能性も見られる、とも評価されています。


第11講●佐藤信「平城太上天皇の変」P187~202
 810年の「薬子の変」は、近年では「平城太上天皇の変」と呼ばれるようになってきています。その理由は、平城上皇の主体性を認める見解が定着してきたからです。じゅうらいは、嵯峨天皇がこの事変の責めを藤原薬子に一身に負わせたこともあり、薬子とその兄である仲成の主導性が強調されていました。嵯峨天皇は、父の桓武天皇が怨霊に悩まされ続けたことから、兄の平城上皇に寛大な姿勢を示したのではないか、と本論考は推測しています。平城太上天皇の変の影響は大きく、それは、平安京が都として固定される契機となったこと、天皇と太政官との連絡役として後宮女官に代わって設置されていた男性官人の蔵人が大きな重要な地位になっていったこと、飛鳥時代末期~奈良時代には太上天皇が天皇と同等かそれ以上の権限を有していたのに、この事変以降、太上天皇が天皇と同等の権能を行使しなくなったことなどです。


第12講●鈴木景二「応天門の変」P203~2221
 応天門の変に関しては色々と議論があり、本論考も、契機となった火災について真相は不明と指摘しています。本論考は、火災の真相はともかく、突発的事態に的確・迅速に対応できる能力の有無が、当時の主要人物の明暗を分けた、と指摘します。失脚した伴善男は、優秀な事務官僚ではあったものの、直情径行で他者への配慮に欠けた攻撃的人物で、没落しつつあった伴氏から大納言にまで出世していたことから妬んでいた人も多く、火災事件に関してはおそらく冤罪だったのに、事変を契機に足をすくわれたのではないか、と本論考は推測しています。一方、良房はこの事変に当初から関与していたわけではないものの、突発的な事態にも的確に対処できる能力を備えていた、と高く評価されています。また、この事変の背景として、良房と弟の良相との競合関係も指摘されています。また、社会背景としては、海賊の活発化や対外関係の悪化や天災なども指摘されています。清和天皇は、事変の8年後に大極殿などが炎上したことに大きな精神的打撃を受けており、伴善男が御霊として意識されていたかもしれない、との見解が提示されています。


第13講●森公章「菅原道真左降事件」P223~239
 菅原道真が失脚した901年の昌泰の変について、その背景となる菅原氏の位置づけも含めて丁寧に解説されています。道真失脚の要因としては、学閥争い、「貴種」ではないのに大臣にまで昇進したことへの貴族社会の不満、醍醐天皇との間に確たる信頼関係を構築できなかったことなどが挙げられています。本論考はとくに、醍醐天皇との関係を重視しており、道真の娘が醍醐天皇の異母弟である斉世親王と婚姻関係にあったことも、醍醐天皇が道真に疑念を抱くことになった、と指摘されています。皇族として生まれたわけではない醍醐天皇は、道真の言動に過剰に反応してしまったのかもしれません。


第14講●寺内浩「平将門の乱・藤原純友の乱」P241~253
 平将門・藤原純友の乱は、以前は承平・天慶の乱と呼ばれていましたが、現在では天慶の乱と呼ばれています。これは、承平年間の平将門の戦いは平氏一族の内紛で、国家への反逆は天慶年間になってからであり、藤原純友に至っては、承平年間には海賊を取り締まる側だったからです。ただ、すでに江戸時代に、藤原純友の反乱は天慶年間になってからとの見解が提示されており、それが近代になって承平年間からのこととされ、そのご再度、天慶年間になってからのことと改められました。また、天慶の乱の背景として、広範な気候や治安の悪化が指摘されています。


第15講●戸川点「前九年合戦・後三年合戦」P255~270
 前九年合戦の主役とも言える安倍氏は、かつて蝦夷勢力の中か現れた「俘囚の長」で、「中央政府」たる朝廷の抑圧に抵抗した、と考えられていました。しかし近年では、安倍氏の出自について、中央貴族や奈良~平安時代初期の移民系郡領氏族などの説が提唱され、まだ確定していないそうです。また、前九年合戦も後三年合戦も、単純に一まとめにできるのではなく、それぞれ二段階に分けられる、とも指摘されています。それぞれ戦いの主体が変わってくる、というわけです。

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  • 白村江の戦い補足

    Excerpt: 1年ほど前(2018年6月2日)に、日本は百済の植民地だったとする説を取り上げました(関連記事)。それと関連する説として、倭(日本)と百済との特別に親密な関係を想定する見解も取り上げました。そうした見.. Weblog: 雑記帳 racked: 2019-06-16 09:50