李相僖、尹信榮『人類との遭遇 はじめて知るヒト誕生のドラマ』
イ・サンヒ(Sang-Hee Lee、李相僖)、ユン・シンヨン(Shin-Young Yoon、尹信榮)著、松井信彦訳で、早川書房より2018年12月に刊行されました。原書の刊行は2015年です。本書は人類進化史を時系列に沿って体系的に解説するのではなく、一般層で関心の高そうな話題を各章で扱う、という構成になっています(付録2は簡略な人類進化史概説になっていますが)。本書は韓国の一般向け科学雑誌『科学東亜』での2012~2013年にかけての連載を加筆修正したとのことで、この構成であることも納得できます。本書の元となっている連載は、今となってはやや古い時期となるので、最新の知見を得ることには適していないかもしれませんが、人類進化について一般層が高い関心を抱いたり誤解しそうだったりする問題を中心に解説されており、有益な一冊になっていると思います。ただ、以下に何度か述べていきますが、著者は現生人類(Homo sapiens)多地域進化説を支持しており、その立場からの偏向が目立つように見えて、この点は一般向け書籍として問題だと思います。
本書は第1章で、人類史において「食人行為」があったことは「食人種」の存在の証拠とはならない、と注意を喚起しています。本書は、普通の摂食の一環として他人を食べる集団はいない、と指摘します。ただ、儀礼の一環、また極限的な飢餓状況での食人行為の存在は認められています。
第2章では、霊長類において成体の雄(多くの場合は父親)が子育てに関わるのはほぼ人間だけだ、と主張されています。しかし、山極寿一『家族進化論』(関連記事)が指摘するように、霊長類において成体の雄が子育てに関わることはさほど珍しくありません(P231~259)。人類社会がアウストラロピテクス属やさらにさかのぼってアルディピテクス属の頃から一夫一婦制だった、との見解に本書は否定的です。また本書は、父性の直接的確認は不可能で、父親という役割は文化的に定まったものだ、と主張します。しかし、『家族進化論』が指摘するように、ゴリラはある程度、交尾と妊娠との関係を理解している可能性が低くありません(P180~185)。ある程度以上の精度で父性を確認し、それに拘っている霊長類がいる可能性はじゅうぶんあると思います。単純に、父親という役割を文化的なものとは言えないと思います。
第3章では、最初期の人類候補として、サヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)、オロリン・トゥゲネンシス(Orrorin tugenensis)、アルディピテクス属のカダバ(Ardipithecus kadabba)やラミダス(Ardipithecus ramidus)が挙げられています。本書は、これらが初期人類候補である可能性を認めつつも、人類系統が分岐する前の多様な類人猿系統だった可能性も提示しており、慎重な姿勢を示しています。本書のこの姿勢は妥当だと思います。証拠がたいへん少なく、その状況が大きく改善されることも期待しにくいだけに、最初期の人類をめぐる議論は、今後も長く続いていきそうです。
第4章では、近代社会において出産の危険性は低下しましたが、それでも危険で困難である、と強調されています。これは、人間が直立二足歩行と脳の大型化を両立させていることに起因します。出産には他者の助けが必要で、それも親族など親しい者が適しており、人間が社会的生物であることも強調されています。こうした特徴が人類進化史において確立したのはホモ・エレクトス(Homo erectus)の頃だろう、と本書は推測しています。
第5章では、槍が出現してからまだ3万年経っていない、とありますが、翻訳のさいに一桁間違った可能性があります。そうすると、本書ではドイツのシェーニンゲン(Schöningen)遺跡で発見された30万年前頃の槍が最古とされているのでしょうか。ただ、断片的な槍であれば、40万年前頃のものがイングランドのクラクトンオンシー(Clacton-on-Sea)で発見されていますし(関連記事)、更新世の槍は木製で現代まで残りにくいでしょうから、槍が50万年以上前から使われていても不思議ではないと思います。
第6章では乳糖耐性について解説されています。かつてアメリカ合衆国では、乳糖不耐症は病気とされていたそうですが、現代では世界中で乳糖耐性のある人々の方が少数派だと明らかになっています。また、現代人の一部に見られる乳糖耐性の定着はこの1万年間ほどのことで、現代でも人類が進化を続けている証拠の一つとされています。また本書は、人類の品種改良により牛乳の味が家畜種と野生種とで大きく異なることも指摘しています。
第7章では肌の色について解説されています。この問題に関しては、原書刊行後にいくつか重要な研究が公表されています。当ブログでは、現代人の肌の色およびその遺伝的基盤は多様で、薄い肌の色の遺伝的基盤の多くはアフリカ起源であり、非アフリカ系現代人の主要な遺伝子源となった現生人類集団の出アフリカの前に、すでにアフリカにおいて肌の色は多様だった、と推測した研究(関連記事)と、アジア東部系とアメリカ大陸先住民系の共通祖先に特有の、肌の色を明るくするような遺伝的多様体が存在することを指摘した研究(関連記事)を取り上げました。
第8章では人類史における長寿化について解説されています。長寿化はアウストラロピテクス属よりもホモ属で、ホモ属でもエレクトスよりもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)で進んでいきましたが、上部旧石器時代のヨーロッパの現生人類において画期が確認される、と本書は指摘します。ここで人類史上初めて、若年よりも年配の個体の方がずっと多くなる、というわけです。本書はこれを、上部旧石器時代における芸術の開花と関連づけています。高齢者が多いと知識の伝達に有利で、芸術が開花しやすかったのではないか、というわけです。
第9章では、農耕開始により人類の個体の健康度が下がった、と指摘されています。最近では一般層にもそれなりに浸透しているように思われますが、農耕の開始により人類はより豊かな生活を送るようになったわけではありません。それとも関連しますが、農耕開始以降、出産間隔が短くなったことにより、人口が増加しました。本書は、農耕開始が個体の豊かさ・健康度を下げた、という負の側面だけではなく、人口増加により遺伝的多様性が増加し、進化が続いていることを指摘しています。
第10章では、いわゆる北京原人について、寒冷地適応したエレクトの典型ではなく、温暖な時期に北上した異端のエレクトスだった、という仮説が紹介されています。本書は、この仮説が妥当なのか否か、まだ不明としており、この問題の解決には、より多くのエレクトス(的な)化石の発見が必要となります。
第11章では、初期ホモ属がアフリカからアジアへと拡散し、アジアでエレクトスが進化し、後にアフリカへと「戻った」という仮説が紹介されています。その根拠となるのが、180万年前頃のジョージア(グルジア)のドマニシのホモ属化石群です。この仮説は真剣に検証するに値すると思いますが、エレクトスのアフリカ起源説の方がはるかに可能性は高い、と私は考えています。なお、アフリカの初期エレクトスについては、アジア南東部・東部のエレクトスと区別して、エルガスター(Homo ergaster)という種に分類する研究者もいます。
第12章では、人類の利他主義は180万年前頃のジョージアのドマニシのホモ属集団までさかのぼりそうだ、と指摘されています。本書は、これが血縁関係に制約されないところに人類の特徴を見出しています。
第13章ではギガントピテクスが取り上げられ、他の歯と比較して犬歯がたいへん小さいので、雄同士の競争は激しくなかっただろう、と指摘されています。 ただ、人類に関しては、これは当てはまらないのではないか、と私は考えています(関連記事)。ギガントピテクスの身体は巨大と推測されていますが、その理由として、強力な競合者の存在の可能性が指摘されています。本書はその競合者として、アジア東部のエレクトスを挙げています。アジア東部のエレクトスは道具の素材を石よりもむしろ竹の方に依存しており、その結果として竹林が縮小し、ギガントピテクスの生息域を奪っていった、と本書は推測しています。ただ、アジア東部のエレクトスがそれだけ環境に影響を及ぼせたのか、かなり疑問が残ります。
第14章では、人類の重要な特徴として、脳の大型化よりも直立二足歩行の方が先行し、直立二足歩行により腰椎や骨盤への負荷が増大し、腰痛の原因になったことが指摘されています。また、人類の心臓の位置が比較的低く、大量の血液を必要とする脳にも重力に逆らって血液を送らねばならないことから、人類の心臓への負担は大きく、人類は他の動物よりも心臓関連の死亡率が高い、とも指摘されています。
第15章では、最初期ホモ属に関する混乱した状況が解説されています。最初期のホモ属とされるハビリス(Homo habilis)については、ホモ属的な初期人類遺骸をまとめて放り込んだ雑多なもので、単一種として分類できるのか、疑問が呈されてきました(関連記事)。じっさい、同時代のホモ属としてハビリスとは異なるルドルフェンシス(Homo rudolfensis)という種区分も提示されています。本書は、ケニアで発見された人類化石(関連記事)を根拠に、初期ホモ属は少なくとも2種存在した可能性が高い、と指摘しています。
第16章では、ホモ属の脳容量が増加した理由として、道具よりも社会関係の方が重視されています。捕食者への対応から集団規模の大きい方が有利となり、それが脳容量増加の選択圧になった、というわけです。脳の大型化と肉食との関係も解説されていますが、エレクトスが狩猟、ハビリスが腐肉漁りに適応していった、との見解には疑問が残ります。エレクトスは狩猟に特化したわけではなく、腐肉漁りにもかなりの程度依存していたのではないか、と思います。また、大人と子供では脳の発達が異なり、大人は子供と比較して新しいことを覚えるのが苦手になるものの、情報を結びつけて総合的に判断することは大人の方がずっと容易と指摘されています。
第17章では、1990年代には、ネアンデルタール人と現生人類との間に関連があるとする立場と、直接の関連はないとする立場があり、学界ではネアンデルタール人が現生人類の直接的祖先とする立場が主流だったものの、一般社会では大半が後者を指示していた、と解説されています。しかし、これはかなり問題のある認識だと思います。1990年代前半頃までは、学界では現生人類の起源をめぐってアフリカ単一起源説と多地域進化説との間で激しい議論が展開されていたと思います。著者の李相僖氏はミシガン大学でウォルポフ(Milford H. Wolpoff)氏に師事したそうで、意図的かどうか分かりませんが、多地域進化説に偏った感のある、疑問の残る認識でした。ネアンデルタール人も現生人類と同じFOXP2遺伝子を有しており、同様に右利きが優勢であると明らかになったことから、本書はネアンデルタール人も現代人のように言葉を流暢に操っていた可能性はかなり高い、と指摘しています。ただ、現代人のゲノムにおいて、FOXP2遺伝子を取り囲んでいる膨大なゲノム領域では、現代人のそれにネアンデルタール人由来のそれが見られず、現生人類にはネアンデルタール人とは異なる、FOXP2遺伝子の発現に変化をもたらすような変異を有しているので(関連記事)、ネアンデルタール人のFOXP2遺伝子は現生人類と同程度の言語能力の証拠にはならない、と思います。また本書は、ネアンデルタール人への現代人の視線と人種差別との類似性を指摘しますが、ネアンデルタール人は現生人類とは明確に区別できる分類群なので、共通するところも多分にあるとはいえ、「人種」と同列に扱うことには慎重であるべきだ、と私は考えています。
第18章では、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の分子時計がいかに当てにならないか、ということが力説されています。1980年代後半~2000年代にかけて、現生人類多地域進化説を攻撃する有力な根拠がmtDNAだっただけに、ウォルポフ氏の弟子である著者の李相僖氏としては、念入りに批判したいのか、と憶測してしまいます。本書は、分子時計が破綻したとか、mtDNAの遺伝は中立的と考えられていたとか主張しますが、分子時計の正確さには問題があるとしても、現在でも有効な方法だと思いますし、mtDNAの多様体が病気の一因にもなることは、20世紀の時点ですでに知られていたと思います。
第19章では、ネアンデルタール人と近縁なホモ属である種区分未定のデニソワ人(Denisovan)について解説されています。デニソワ人については当ブログで以前まとめました(関連記事)。ネアンデルタール人の石器としてはムステリアン(Mousterian)が有名です(ネアンデルタール人だけが製作していたわけではありませんが)。10万~3万年前頃のアジア(アジア東部ということでしょうが)ではムステリアンが見つかっていない、と本書は主張しますが、原書刊行後に、47000~37000年前頃のムステリアン様石器群が中華人民共和国内モンゴル自治区で確認される、と指摘した研究が公表されています(関連記事)。デニソワ人については原書刊行後に大きく研究が進展したので、本書は最新の情報を得ることには向いていませんが、デニソワ人の地理的範囲や現生人類との交雑の場所など、本書が指摘したデニソワ人に関する不明点の多くは今でも未解明で、今後の研究の進展が期待されます。
第20章では、インドネシア領フローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟遺跡で発見された更新世のホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)が取り上げられています。本書は、フロレシエンシスが出アフリカを果たしたアウストラロピテクス属の子孫である可能性を提示し、第11章で提示したしたホモ属のアジア起源説に再度言及しています。私は、フロレシエンシスはジャワ島のエレクトスの子孫である可能性が高い、と考えていますが。なお、訳注でも言及されているように、原書刊行後、フロレシエンシスの年代は繰り上がっており、この他にも、原書刊行後にフロレシエンシスに関する重要な知見が相次いで発表されています(関連記事)。
第21章では、人種という概念の問題点が指摘されています。人種は生物学的概念ではなく、歴史的・文化的・社会的概念というわけです。本書は現代人の起源に関して、多地域進化説を採用しています。確かに、現生人類アフリカ単一起源説でも、完全置換説はもう過去のものになったと言うべきでしょうが、だからといって多地域進化説が近年の遺伝学的研究とも矛盾しない、と主張するのも問題だと思います。近年の研究動向からは多地域進化説の「復権」とも言えそうですが(関連記事)、本書は多地域進化説もまた大きく変わったことには言及せず、多地域進化説が1984年に提唱された、と主張しています。著者の李相僖氏はウォルポフ氏に師事したそうですから、このように主張するのも分からなくはありませんが、一般読者にたいして不誠実だと思います。
第22章では、農耕開始以降、人類は以前よりもずっと(技術なども含む広義の)文化に依存するようになり、進化は「停滞」した、との見解が有力になりました。しかし、農耕が始まってからの1万年間に進化は加速している、と本書は指摘します。その理由として、急激な人口増加による変異の増加、集団間の遺伝的交流、医療の発達により以前は生き延びられなかった人も子孫を残せるようになったことが挙げられています。進化における「有利」や「有益」が状況依存的であることも指摘されており、これは重要だと思います。
付録1では、エピジェネティクスは将来、獲得形質の遺伝を証明するかもしれない、と指摘されています。しかし、エピジェネティクスは、よく使う器官は発達し、そうでない器官はやがて失われていく、とするラマルク説とはまったく異なると思います。「後天的」な遺伝子発現の変化という点で両者は似ているように見えるかもしれませんが、似て非なるものだと思います。
付録2では、現生人類の起源に関する仮説として、アフリカ単一起源の完全置換説と多地域進化説とが挙げられています。しかし、これは二分法の罠と言うべきでしょう。アフリカ単一起源説にはネアンデルタール人との低頻度の交雑を認める「交配説」があり、完全置換説が主張されるようになったのは交配説が主張された後のことでした。本書は、完全置換説が主流になった後も交配説は主張され続けていたことと、多地域進化説が当初(1984年)より大きく変容したことを無視しています(関連記事)。率直に言って、この点は一般向け書籍として不誠実だと思います。なお本書は、現代のアジア東部集団(およびアメリカ大陸先住民集団)に高頻度で見られるシャベル状切歯について、中国で発見された初期人類との関連性を示唆していますが、これと関連する遺伝的多様体は3万年前頃にアジア東部集団で出現し、それは乳腺管分岐を増大させる役割を担っていることから定着したのではないか、との見解が原書刊行後に提示されています(関連記事)。この人類進化史概説でもそうですが、本書からは全体的に、異なる分類群間の交雑第一世代に繁殖能力があれば同種と言ってもよいだろう、との認識が窺えるのは気になるところです。たとえそうだとしても、交雑第一世代の適応度が下がるなど、分類群間の生殖を隔離する障壁が作用し続けるのであれば、両方の分類群を異なる種と認識しても大過はない、との見解もじゅうぶん成立すると思います(関連記事)。ネアンデルタール人と現生人類の交雑にしても、適応度を下げるような障壁があった可能性は高いと思います(関連記事)。
参考文献:
Lee SH, and Yoon SY.著(2018)、松井信彦訳『人類との遭遇 はじめて知るヒト誕生のドラマ』(早川書房、原書の刊行は2015年)
本書は第1章で、人類史において「食人行為」があったことは「食人種」の存在の証拠とはならない、と注意を喚起しています。本書は、普通の摂食の一環として他人を食べる集団はいない、と指摘します。ただ、儀礼の一環、また極限的な飢餓状況での食人行為の存在は認められています。
第2章では、霊長類において成体の雄(多くの場合は父親)が子育てに関わるのはほぼ人間だけだ、と主張されています。しかし、山極寿一『家族進化論』(関連記事)が指摘するように、霊長類において成体の雄が子育てに関わることはさほど珍しくありません(P231~259)。人類社会がアウストラロピテクス属やさらにさかのぼってアルディピテクス属の頃から一夫一婦制だった、との見解に本書は否定的です。また本書は、父性の直接的確認は不可能で、父親という役割は文化的に定まったものだ、と主張します。しかし、『家族進化論』が指摘するように、ゴリラはある程度、交尾と妊娠との関係を理解している可能性が低くありません(P180~185)。ある程度以上の精度で父性を確認し、それに拘っている霊長類がいる可能性はじゅうぶんあると思います。単純に、父親という役割を文化的なものとは言えないと思います。
第3章では、最初期の人類候補として、サヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)、オロリン・トゥゲネンシス(Orrorin tugenensis)、アルディピテクス属のカダバ(Ardipithecus kadabba)やラミダス(Ardipithecus ramidus)が挙げられています。本書は、これらが初期人類候補である可能性を認めつつも、人類系統が分岐する前の多様な類人猿系統だった可能性も提示しており、慎重な姿勢を示しています。本書のこの姿勢は妥当だと思います。証拠がたいへん少なく、その状況が大きく改善されることも期待しにくいだけに、最初期の人類をめぐる議論は、今後も長く続いていきそうです。
第4章では、近代社会において出産の危険性は低下しましたが、それでも危険で困難である、と強調されています。これは、人間が直立二足歩行と脳の大型化を両立させていることに起因します。出産には他者の助けが必要で、それも親族など親しい者が適しており、人間が社会的生物であることも強調されています。こうした特徴が人類進化史において確立したのはホモ・エレクトス(Homo erectus)の頃だろう、と本書は推測しています。
第5章では、槍が出現してからまだ3万年経っていない、とありますが、翻訳のさいに一桁間違った可能性があります。そうすると、本書ではドイツのシェーニンゲン(Schöningen)遺跡で発見された30万年前頃の槍が最古とされているのでしょうか。ただ、断片的な槍であれば、40万年前頃のものがイングランドのクラクトンオンシー(Clacton-on-Sea)で発見されていますし(関連記事)、更新世の槍は木製で現代まで残りにくいでしょうから、槍が50万年以上前から使われていても不思議ではないと思います。
第6章では乳糖耐性について解説されています。かつてアメリカ合衆国では、乳糖不耐症は病気とされていたそうですが、現代では世界中で乳糖耐性のある人々の方が少数派だと明らかになっています。また、現代人の一部に見られる乳糖耐性の定着はこの1万年間ほどのことで、現代でも人類が進化を続けている証拠の一つとされています。また本書は、人類の品種改良により牛乳の味が家畜種と野生種とで大きく異なることも指摘しています。
第7章では肌の色について解説されています。この問題に関しては、原書刊行後にいくつか重要な研究が公表されています。当ブログでは、現代人の肌の色およびその遺伝的基盤は多様で、薄い肌の色の遺伝的基盤の多くはアフリカ起源であり、非アフリカ系現代人の主要な遺伝子源となった現生人類集団の出アフリカの前に、すでにアフリカにおいて肌の色は多様だった、と推測した研究(関連記事)と、アジア東部系とアメリカ大陸先住民系の共通祖先に特有の、肌の色を明るくするような遺伝的多様体が存在することを指摘した研究(関連記事)を取り上げました。
第8章では人類史における長寿化について解説されています。長寿化はアウストラロピテクス属よりもホモ属で、ホモ属でもエレクトスよりもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)で進んでいきましたが、上部旧石器時代のヨーロッパの現生人類において画期が確認される、と本書は指摘します。ここで人類史上初めて、若年よりも年配の個体の方がずっと多くなる、というわけです。本書はこれを、上部旧石器時代における芸術の開花と関連づけています。高齢者が多いと知識の伝達に有利で、芸術が開花しやすかったのではないか、というわけです。
第9章では、農耕開始により人類の個体の健康度が下がった、と指摘されています。最近では一般層にもそれなりに浸透しているように思われますが、農耕の開始により人類はより豊かな生活を送るようになったわけではありません。それとも関連しますが、農耕開始以降、出産間隔が短くなったことにより、人口が増加しました。本書は、農耕開始が個体の豊かさ・健康度を下げた、という負の側面だけではなく、人口増加により遺伝的多様性が増加し、進化が続いていることを指摘しています。
第10章では、いわゆる北京原人について、寒冷地適応したエレクトの典型ではなく、温暖な時期に北上した異端のエレクトスだった、という仮説が紹介されています。本書は、この仮説が妥当なのか否か、まだ不明としており、この問題の解決には、より多くのエレクトス(的な)化石の発見が必要となります。
第11章では、初期ホモ属がアフリカからアジアへと拡散し、アジアでエレクトスが進化し、後にアフリカへと「戻った」という仮説が紹介されています。その根拠となるのが、180万年前頃のジョージア(グルジア)のドマニシのホモ属化石群です。この仮説は真剣に検証するに値すると思いますが、エレクトスのアフリカ起源説の方がはるかに可能性は高い、と私は考えています。なお、アフリカの初期エレクトスについては、アジア南東部・東部のエレクトスと区別して、エルガスター(Homo ergaster)という種に分類する研究者もいます。
第12章では、人類の利他主義は180万年前頃のジョージアのドマニシのホモ属集団までさかのぼりそうだ、と指摘されています。本書は、これが血縁関係に制約されないところに人類の特徴を見出しています。
第13章ではギガントピテクスが取り上げられ、他の歯と比較して犬歯がたいへん小さいので、雄同士の競争は激しくなかっただろう、と指摘されています。 ただ、人類に関しては、これは当てはまらないのではないか、と私は考えています(関連記事)。ギガントピテクスの身体は巨大と推測されていますが、その理由として、強力な競合者の存在の可能性が指摘されています。本書はその競合者として、アジア東部のエレクトスを挙げています。アジア東部のエレクトスは道具の素材を石よりもむしろ竹の方に依存しており、その結果として竹林が縮小し、ギガントピテクスの生息域を奪っていった、と本書は推測しています。ただ、アジア東部のエレクトスがそれだけ環境に影響を及ぼせたのか、かなり疑問が残ります。
第14章では、人類の重要な特徴として、脳の大型化よりも直立二足歩行の方が先行し、直立二足歩行により腰椎や骨盤への負荷が増大し、腰痛の原因になったことが指摘されています。また、人類の心臓の位置が比較的低く、大量の血液を必要とする脳にも重力に逆らって血液を送らねばならないことから、人類の心臓への負担は大きく、人類は他の動物よりも心臓関連の死亡率が高い、とも指摘されています。
第15章では、最初期ホモ属に関する混乱した状況が解説されています。最初期のホモ属とされるハビリス(Homo habilis)については、ホモ属的な初期人類遺骸をまとめて放り込んだ雑多なもので、単一種として分類できるのか、疑問が呈されてきました(関連記事)。じっさい、同時代のホモ属としてハビリスとは異なるルドルフェンシス(Homo rudolfensis)という種区分も提示されています。本書は、ケニアで発見された人類化石(関連記事)を根拠に、初期ホモ属は少なくとも2種存在した可能性が高い、と指摘しています。
第16章では、ホモ属の脳容量が増加した理由として、道具よりも社会関係の方が重視されています。捕食者への対応から集団規模の大きい方が有利となり、それが脳容量増加の選択圧になった、というわけです。脳の大型化と肉食との関係も解説されていますが、エレクトスが狩猟、ハビリスが腐肉漁りに適応していった、との見解には疑問が残ります。エレクトスは狩猟に特化したわけではなく、腐肉漁りにもかなりの程度依存していたのではないか、と思います。また、大人と子供では脳の発達が異なり、大人は子供と比較して新しいことを覚えるのが苦手になるものの、情報を結びつけて総合的に判断することは大人の方がずっと容易と指摘されています。
第17章では、1990年代には、ネアンデルタール人と現生人類との間に関連があるとする立場と、直接の関連はないとする立場があり、学界ではネアンデルタール人が現生人類の直接的祖先とする立場が主流だったものの、一般社会では大半が後者を指示していた、と解説されています。しかし、これはかなり問題のある認識だと思います。1990年代前半頃までは、学界では現生人類の起源をめぐってアフリカ単一起源説と多地域進化説との間で激しい議論が展開されていたと思います。著者の李相僖氏はミシガン大学でウォルポフ(Milford H. Wolpoff)氏に師事したそうで、意図的かどうか分かりませんが、多地域進化説に偏った感のある、疑問の残る認識でした。ネアンデルタール人も現生人類と同じFOXP2遺伝子を有しており、同様に右利きが優勢であると明らかになったことから、本書はネアンデルタール人も現代人のように言葉を流暢に操っていた可能性はかなり高い、と指摘しています。ただ、現代人のゲノムにおいて、FOXP2遺伝子を取り囲んでいる膨大なゲノム領域では、現代人のそれにネアンデルタール人由来のそれが見られず、現生人類にはネアンデルタール人とは異なる、FOXP2遺伝子の発現に変化をもたらすような変異を有しているので(関連記事)、ネアンデルタール人のFOXP2遺伝子は現生人類と同程度の言語能力の証拠にはならない、と思います。また本書は、ネアンデルタール人への現代人の視線と人種差別との類似性を指摘しますが、ネアンデルタール人は現生人類とは明確に区別できる分類群なので、共通するところも多分にあるとはいえ、「人種」と同列に扱うことには慎重であるべきだ、と私は考えています。
第18章では、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の分子時計がいかに当てにならないか、ということが力説されています。1980年代後半~2000年代にかけて、現生人類多地域進化説を攻撃する有力な根拠がmtDNAだっただけに、ウォルポフ氏の弟子である著者の李相僖氏としては、念入りに批判したいのか、と憶測してしまいます。本書は、分子時計が破綻したとか、mtDNAの遺伝は中立的と考えられていたとか主張しますが、分子時計の正確さには問題があるとしても、現在でも有効な方法だと思いますし、mtDNAの多様体が病気の一因にもなることは、20世紀の時点ですでに知られていたと思います。
第19章では、ネアンデルタール人と近縁なホモ属である種区分未定のデニソワ人(Denisovan)について解説されています。デニソワ人については当ブログで以前まとめました(関連記事)。ネアンデルタール人の石器としてはムステリアン(Mousterian)が有名です(ネアンデルタール人だけが製作していたわけではありませんが)。10万~3万年前頃のアジア(アジア東部ということでしょうが)ではムステリアンが見つかっていない、と本書は主張しますが、原書刊行後に、47000~37000年前頃のムステリアン様石器群が中華人民共和国内モンゴル自治区で確認される、と指摘した研究が公表されています(関連記事)。デニソワ人については原書刊行後に大きく研究が進展したので、本書は最新の情報を得ることには向いていませんが、デニソワ人の地理的範囲や現生人類との交雑の場所など、本書が指摘したデニソワ人に関する不明点の多くは今でも未解明で、今後の研究の進展が期待されます。
第20章では、インドネシア領フローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟遺跡で発見された更新世のホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)が取り上げられています。本書は、フロレシエンシスが出アフリカを果たしたアウストラロピテクス属の子孫である可能性を提示し、第11章で提示したしたホモ属のアジア起源説に再度言及しています。私は、フロレシエンシスはジャワ島のエレクトスの子孫である可能性が高い、と考えていますが。なお、訳注でも言及されているように、原書刊行後、フロレシエンシスの年代は繰り上がっており、この他にも、原書刊行後にフロレシエンシスに関する重要な知見が相次いで発表されています(関連記事)。
第21章では、人種という概念の問題点が指摘されています。人種は生物学的概念ではなく、歴史的・文化的・社会的概念というわけです。本書は現代人の起源に関して、多地域進化説を採用しています。確かに、現生人類アフリカ単一起源説でも、完全置換説はもう過去のものになったと言うべきでしょうが、だからといって多地域進化説が近年の遺伝学的研究とも矛盾しない、と主張するのも問題だと思います。近年の研究動向からは多地域進化説の「復権」とも言えそうですが(関連記事)、本書は多地域進化説もまた大きく変わったことには言及せず、多地域進化説が1984年に提唱された、と主張しています。著者の李相僖氏はウォルポフ氏に師事したそうですから、このように主張するのも分からなくはありませんが、一般読者にたいして不誠実だと思います。
第22章では、農耕開始以降、人類は以前よりもずっと(技術なども含む広義の)文化に依存するようになり、進化は「停滞」した、との見解が有力になりました。しかし、農耕が始まってからの1万年間に進化は加速している、と本書は指摘します。その理由として、急激な人口増加による変異の増加、集団間の遺伝的交流、医療の発達により以前は生き延びられなかった人も子孫を残せるようになったことが挙げられています。進化における「有利」や「有益」が状況依存的であることも指摘されており、これは重要だと思います。
付録1では、エピジェネティクスは将来、獲得形質の遺伝を証明するかもしれない、と指摘されています。しかし、エピジェネティクスは、よく使う器官は発達し、そうでない器官はやがて失われていく、とするラマルク説とはまったく異なると思います。「後天的」な遺伝子発現の変化という点で両者は似ているように見えるかもしれませんが、似て非なるものだと思います。
付録2では、現生人類の起源に関する仮説として、アフリカ単一起源の完全置換説と多地域進化説とが挙げられています。しかし、これは二分法の罠と言うべきでしょう。アフリカ単一起源説にはネアンデルタール人との低頻度の交雑を認める「交配説」があり、完全置換説が主張されるようになったのは交配説が主張された後のことでした。本書は、完全置換説が主流になった後も交配説は主張され続けていたことと、多地域進化説が当初(1984年)より大きく変容したことを無視しています(関連記事)。率直に言って、この点は一般向け書籍として不誠実だと思います。なお本書は、現代のアジア東部集団(およびアメリカ大陸先住民集団)に高頻度で見られるシャベル状切歯について、中国で発見された初期人類との関連性を示唆していますが、これと関連する遺伝的多様体は3万年前頃にアジア東部集団で出現し、それは乳腺管分岐を増大させる役割を担っていることから定着したのではないか、との見解が原書刊行後に提示されています(関連記事)。この人類進化史概説でもそうですが、本書からは全体的に、異なる分類群間の交雑第一世代に繁殖能力があれば同種と言ってもよいだろう、との認識が窺えるのは気になるところです。たとえそうだとしても、交雑第一世代の適応度が下がるなど、分類群間の生殖を隔離する障壁が作用し続けるのであれば、両方の分類群を異なる種と認識しても大過はない、との見解もじゅうぶん成立すると思います(関連記事)。ネアンデルタール人と現生人類の交雑にしても、適応度を下げるような障壁があった可能性は高いと思います(関連記事)。
参考文献:
Lee SH, and Yoon SY.著(2018)、松井信彦訳『人類との遭遇 はじめて知るヒト誕生のドラマ』(早川書房、原書の刊行は2015年)
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