元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』
中公新書の一冊として、中央公論新社より2019年1月に刊行されました。本書は政治家としての源頼朝の行動・意図を、その時点での政治状況に即して解説しており、過度に頼朝の心情を描写し、肩入れしていないところは、いかにも歴史学からの偉人の伝記といった感じで、堅実なものになっていると思います。もちろん、本書の個々の見解にたいする批判はあるでしょうし、私もさまざまな関連本を読んでいかねばならないな、とは思っていますが。
本書を読むと、頼朝の生涯が苦難の連続だった、と了解されます。あとがきでも述べられていますが、「武家政治」の創始者としてしばしば頼朝と比較される平清盛は、頼朝よりもずっと順調に権力の頂点に登り詰めたと言えるでしょう。一方頼朝は、平治の乱や挙兵直後で死の間際まで追い詰められました(清盛も権力の頂点に登り詰める前に大病を患い死にかけたようですが)。とくに、平治の乱において10代前半で死を間近に経験したことは、頼朝の個性に大きな影響を与えたのではないか、と思います。
本書の基調としてまず挙げられるのが、頼朝にとって平治の乱以前の後白河院との関係が生涯大きな意味を有した、ということです。頼朝の挙兵も、その後の築いた権力の正当化も、後白河院との提携が決定的に重要でした。頼朝は、弟である源義経との対立のさいに、後白河院と対立したこともありましたが、基本的には後白河院が没するまでずっと、後白河院を支える武家勢力であることに自らの正当性の基盤を置いていました。そのため頼朝は、後白河院を支える有力な武家勢力の出現への警戒心がたいへん強かったようです。平泉藤原氏・甲斐源氏・源義仲・義経への「冷酷な姿勢」も、本書ではそうした文脈で解釈されています。
冷酷という頼朝への悪評を決定づけたのは義経との関係ですが、平家討滅の大功を挙げた義経は、頼朝に対抗し得る後白河院を支える有力な武士勢力になる危険性があり、頼朝にとってはたいへん危険な潜在的対抗者でした。しかも、義経は頼朝の猶子であり、当時まだ幼かった頼朝の嫡男である頼家の強力な競合相手になる可能性もあった、と本書は指摘します。頼朝と義経は、平家滅亡前よりも緊張関係にあったようです。義経が頼朝の陣に馳せ参じた当初は、平泉藤原氏の支援を受けていたこともあり、両者の関係は比較的良好だったようです。しかし、後白河院を支えるという点では頼朝と共通の目標を抱いていた平泉藤原氏は、清盛没後に後白河院政が復活すると、平家と妥協的な姿勢を示します。頼朝はこれに強烈な不信感を抱き、義経への態度が冷淡になった、と本書は指摘します。
それでも頼朝は義経を上京させ、朝廷守護の重大な役割を担わせます。なお、一ノ谷の合戦後、義経の平家追討への参加が1年ほど遅れた理由として、頼朝が義経を警戒したのではなく、伊賀・伊勢の平家残党の蜂起から都と朝廷を守るためだった、と本書は指摘します。義経と頼朝との決定的な対立の時期について、本書は俗説とは異なる見解を提示しています。頼朝は潜在的に危険な存在である義経を鎌倉に呼び戻して統制しようとしたものの、義経が伊予守任官後も検非違使に留任し、都に留まる意向を示したことが、両者の決定的な対立の契機になった、と本書は指摘します。ただ本書は、頼朝の異母弟(義経には異母兄)の源範頼が、頼朝には忠実な態度を保ちながらも、けっきょくは粛清されたことから、義経が平家滅亡後に鎌倉に戻ったとしても、過酷な運命が待っていた可能性は高い、と指摘しています。
また本書は、発足当初の鎌倉幕府が不安定で、頼朝が対応を間違えれば失脚しかねない危険性に常に脅かされていたことも浮き彫りにします。自力救済の東国武士社会において、武士団同士の対立は頻発していました。そうした武士団を頼朝は糾合し、ついには幕府成立にいたるわけですが、御家人同士の対立要因は内包されたままでした。平家との戦いの間(戦時)は、新恩給与を動機とする敵との戦いによりそうした対立要因が大きく顕在化することはありませんでしたが、平家滅亡後に「平時」を迎えると、もはや新恩給与がほとんど望めなくなるため、家臣団の統制が頼朝にとってたいへん深刻な課題となります。本書は、頼朝がそれを見越して、平泉藤原氏攻撃のさいに、家臣団統制の強化・再編を企図していた、と指摘します。もちろん、家臣団統制は挙兵以降の重要課題で、上総介広常の粛清もそうした文脈で解されています。
しかし本書は、頼朝が存命中にこの問題をじゅうぶん解決できなかったことも浮き彫りにしています。頼朝没後、鎌倉幕府では比企一族の滅亡や畠山重忠の討伐や和田合戦など、族滅を伴うような家臣団の間の激しい抗争が絶えませんでした。これは、畠山と三浦の頼朝挙兵直後からの対立のように、御家人たる武士団相互の対立が顕在化した、という側面もありました。権威を確立した頼朝とは異なり、平家との合戦を指揮した経験のない頼家や実朝は、頼朝のような権威を御家人の間で認められなかった、ということなのかもしれません。このように、いつ内部抗争で瓦解しても不思議ではないような鎌倉幕府が曲がりなりにも一体性を保ち続け、ついには承久の乱で後鳥羽院に勝利したことには、頼朝の妻だった北条政子の存在が大きい、と本書は指摘します。
本書を読むと、頼朝の生涯が苦難の連続だった、と了解されます。あとがきでも述べられていますが、「武家政治」の創始者としてしばしば頼朝と比較される平清盛は、頼朝よりもずっと順調に権力の頂点に登り詰めたと言えるでしょう。一方頼朝は、平治の乱や挙兵直後で死の間際まで追い詰められました(清盛も権力の頂点に登り詰める前に大病を患い死にかけたようですが)。とくに、平治の乱において10代前半で死を間近に経験したことは、頼朝の個性に大きな影響を与えたのではないか、と思います。
本書の基調としてまず挙げられるのが、頼朝にとって平治の乱以前の後白河院との関係が生涯大きな意味を有した、ということです。頼朝の挙兵も、その後の築いた権力の正当化も、後白河院との提携が決定的に重要でした。頼朝は、弟である源義経との対立のさいに、後白河院と対立したこともありましたが、基本的には後白河院が没するまでずっと、後白河院を支える武家勢力であることに自らの正当性の基盤を置いていました。そのため頼朝は、後白河院を支える有力な武家勢力の出現への警戒心がたいへん強かったようです。平泉藤原氏・甲斐源氏・源義仲・義経への「冷酷な姿勢」も、本書ではそうした文脈で解釈されています。
冷酷という頼朝への悪評を決定づけたのは義経との関係ですが、平家討滅の大功を挙げた義経は、頼朝に対抗し得る後白河院を支える有力な武士勢力になる危険性があり、頼朝にとってはたいへん危険な潜在的対抗者でした。しかも、義経は頼朝の猶子であり、当時まだ幼かった頼朝の嫡男である頼家の強力な競合相手になる可能性もあった、と本書は指摘します。頼朝と義経は、平家滅亡前よりも緊張関係にあったようです。義経が頼朝の陣に馳せ参じた当初は、平泉藤原氏の支援を受けていたこともあり、両者の関係は比較的良好だったようです。しかし、後白河院を支えるという点では頼朝と共通の目標を抱いていた平泉藤原氏は、清盛没後に後白河院政が復活すると、平家と妥協的な姿勢を示します。頼朝はこれに強烈な不信感を抱き、義経への態度が冷淡になった、と本書は指摘します。
それでも頼朝は義経を上京させ、朝廷守護の重大な役割を担わせます。なお、一ノ谷の合戦後、義経の平家追討への参加が1年ほど遅れた理由として、頼朝が義経を警戒したのではなく、伊賀・伊勢の平家残党の蜂起から都と朝廷を守るためだった、と本書は指摘します。義経と頼朝との決定的な対立の時期について、本書は俗説とは異なる見解を提示しています。頼朝は潜在的に危険な存在である義経を鎌倉に呼び戻して統制しようとしたものの、義経が伊予守任官後も検非違使に留任し、都に留まる意向を示したことが、両者の決定的な対立の契機になった、と本書は指摘します。ただ本書は、頼朝の異母弟(義経には異母兄)の源範頼が、頼朝には忠実な態度を保ちながらも、けっきょくは粛清されたことから、義経が平家滅亡後に鎌倉に戻ったとしても、過酷な運命が待っていた可能性は高い、と指摘しています。
また本書は、発足当初の鎌倉幕府が不安定で、頼朝が対応を間違えれば失脚しかねない危険性に常に脅かされていたことも浮き彫りにします。自力救済の東国武士社会において、武士団同士の対立は頻発していました。そうした武士団を頼朝は糾合し、ついには幕府成立にいたるわけですが、御家人同士の対立要因は内包されたままでした。平家との戦いの間(戦時)は、新恩給与を動機とする敵との戦いによりそうした対立要因が大きく顕在化することはありませんでしたが、平家滅亡後に「平時」を迎えると、もはや新恩給与がほとんど望めなくなるため、家臣団の統制が頼朝にとってたいへん深刻な課題となります。本書は、頼朝がそれを見越して、平泉藤原氏攻撃のさいに、家臣団統制の強化・再編を企図していた、と指摘します。もちろん、家臣団統制は挙兵以降の重要課題で、上総介広常の粛清もそうした文脈で解されています。
しかし本書は、頼朝が存命中にこの問題をじゅうぶん解決できなかったことも浮き彫りにしています。頼朝没後、鎌倉幕府では比企一族の滅亡や畠山重忠の討伐や和田合戦など、族滅を伴うような家臣団の間の激しい抗争が絶えませんでした。これは、畠山と三浦の頼朝挙兵直後からの対立のように、御家人たる武士団相互の対立が顕在化した、という側面もありました。権威を確立した頼朝とは異なり、平家との合戦を指揮した経験のない頼家や実朝は、頼朝のような権威を御家人の間で認められなかった、ということなのかもしれません。このように、いつ内部抗争で瓦解しても不思議ではないような鎌倉幕府が曲がりなりにも一体性を保ち続け、ついには承久の乱で後鳥羽院に勝利したことには、頼朝の妻だった北条政子の存在が大きい、と本書は指摘します。
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