天武の年齢が不明な件についての補足

 もう8年半近く前(2010年9月30日)になりますが(関連記事)、天武天皇の年齢が不明であることについて、井沢元彦『逆説の日本史』文庫版2巻(小学館、1998年)を引用しました。以下、『逆説の日本史』文庫版からの引用は、「逆説*」と省略します(*が巻数)。逆説2は、『日本書紀』は天武を顕彰するための史書であり、現代にたとえるならば、創業者の作らせた御用社史のようなものだと指摘した後に、以下のように述べています(P237~239)。

 しかし、だからこそ、天武の年齢がわからない(明記されていないし推定する材料もない)というのは極めて異常なことなのだ。
 おわかりだろうか。
 年齢というのは、人物の伝記を書く場合、最も必要な、基本的なデータである。これは誰しも異論がないだろう。
 あの人の伝記を書きました。ただし年齢はわかりません、などと言ったら現代でも笑い者である。ところが「書紀」には、年齢を推定する手がかりになる記述すらないのだ。
 何度も言っているが、「書紀」は国家事業として多くの学者が編纂に参加している。
 歴史学界の先生方が、「書紀」は信頼できると主張するのも、多くはこの理由である。
 しかし、だからこそおかしいのだ。
 多くの学者が編集・校訂に参加したということは、ケアレスミスによる「書き落とし」は、極めて可能性が少ないはずだ。
 ましてや天武は、「書紀」の主役であり、記述全体の一割強も使って持ち上げているヒーローでもある。しかも、作らせたのは天武ファミリーなのだ。それなのに年齢がわからない。
 これから下される結論は唯一つしかない。
 それは「天武の年齢は故意に書き落とされている」ということだ。
 常識に沿って合理的に考える限り、これ以外に考えようはない。
 もし、私の推理がおかしいと言うなら、なぜ「国家事業」の「史書」なのに「主役の年齢」が確定できないのか、合理的に説明して頂きたい。
 なぜ、こんなことを言うかというと、こんな常識的な推論ですら、推論に過ぎないと否定するのが、現代の歴史学界の大勢だからだ。これは本当の話である。
 その理由というのが、『日本書紀』は「正史」であり、古い資料だから信頼できるというものだ。
 これも本当の話である。
 これが天武ファミリーの手になる「御用社史」だなどとは考えてもみないのである。


 この一節には、トンデモ説の典型的特徴がよく表れており、その意味でもひじょうに興味深いものの、その問題は後日改めて述べる、と書いたのですが、怠惰な性分なもので、8年半近く放置してしまいました。最近井沢氏が、宗教学者のために日本歴史学者と四半世紀にわたって戦ってきたとか(関連記事)、自分ほど東大や朝日などの権威主義に反発してきた人間はいないと言う自負があるとか(関連記事)Twitter上で述べたため、井沢氏への関心がネット上で以前より高まっているように思います。私も近年では井沢氏について言及することは少なく、井沢氏を主要な対象として取り上げた記事としては、最近の記事2本を除けば、井沢氏の歴史認識との相性の悪さについて述べたものがあるくらいですが(関連記事)、最近の井沢氏の一連の発言を読んで、井沢氏への関心がやや高まりました。この機会に、8年半近く前の課題を一応こなすとともに、井沢氏の言説の何が問題なのか、大雑把ではあるものの、述べていきます。

 上記引用文は、歴史学の研究者は「天武ファミリー」の「御用社史」にすぎない『日本書紀』を、「古い資料だから信頼できる」と考え、常識的な合理的推論すら受け入れないような頭の固い無能な連中だ、と読者に印象づけるような内容となっています。「無能な」歴史学の研究者を、歴史学を専攻したことがないとはいえ、「常識的」で「合理的」な推論のできる作家たる自分(井沢氏)が痛快に批判する、という構図です。「権威」を叩くことが、今も昔も大衆受けすることに変わりはありません。しかし、ここで問われねばならないのは、日本の歴史学界という「権威」への批判が妥当なのか、ということです。「権威」を叩く類のトンデモ本は、ここに問題を抱えています。

 『日本書紀』は、「国家事業として多くの学者が編纂に参加し」た「正史」なので、「歴史学界の先生方」は『日本書紀』を信頼しており、『日本書紀』が「天武ファミリー」の「御用社史」にすぎないとは考えない、と井沢氏は主張します。しかし、日本の歴史学者が『日本書紀』をそうした理由で「信頼」しているのだとしたら、神武天皇(天皇という称号は7世紀以降に使用されるようになったのでしょうが)の実在を疑うような見解が、第二次世界大戦後の日本の歴史学界において主流もしくは優勢であるはずはないでしょう。

 神武のような昔の話ではなく、天智朝・天武朝・持統朝のことを問題にしているのだ、と井沢氏は反論するかもしれません。しかし、井沢氏が批判してやまない「左派」の研究者にしても、岩波新書の北山茂夫『壬申の内乱』(岩波書店、1989年)は、『日本書紀』「天武紀上」は勝者の立場から著しく偏向しており、天武自身が方針を直接的に支持した、と推測しています。私が所有しているのは同書の第16刷で、第1刷の刊行は1978年です。これは別に北山氏が特異なのではなく、当時の歴史学におけるありふれた主張だと思います。「国家事業として多くの学者が編纂に参加し」た「正史」なので、「歴史学界の先生方」は『日本書紀』を信頼しており、『日本書紀』が「天武ファミリー」の「御用社史」にすぎないとは考えない、との井沢氏の主張は、誇張を通り越して捏造と言うべきで、明らかな誹謗中傷になっています。

 上記の引用文は、「権威」を的外れに批判して自己の優秀性・優越性・妥当性を主張するという、藁人形論法的なトンデモ言説の特徴をよく備えています。井沢氏は、「宗教なんて迷信に過ぎないから歴史の解明には一切必要ない」と日本の歴史学者が言ってきた、とも批判していますが、この発言が的外れで誹謗中傷にしかなっていない、と、最近当ブログで指摘しました(関連記事)。井沢氏が専門家の「頭の固さ」や「権威主義」を批判している時は、それが藁人形論法になっていないか、疑ってかかるべきなのでしょう。

 上記引用文で次に問題となるのは、井沢氏の主張する「常識」です。井沢氏は、歴史上の人物を評価するには、その時代の環境や特有の「常識」で判断しなければ不公平だ、と主張します(逆説10P258)。過去の事象や人物を現代の価値観や常識で判断するのは不公平だ、というわけです。井沢氏はこの論理で、織田信長による長島一向一揆の「根切」を当時にあっては仕方なかった、と擁護します(逆説10P256~264)。では、上記引用文の「常識」はどうなのかというと、私はかなり問題のあるものだと考えています。

 まず、年齢が伝記の基本的なデータであることは、常識と言っても大過はないでしょう。しかし、その「常識」が『日本書紀』編纂時にも当てはまるのかというと、疑問が残ります。なぜならば、『日本書紀』において年齢の不明な天皇は珍しくないからです。『日本書紀』における歴代天皇の年齢に関しては、宣化以前で不明なのは、現在は天皇とされていない神功を除いて28人中8人で、欽明以降で不明なのは、重祚の斉明および即位したとの記述がない弘文を除いて11人中9人となります。古い時代の天皇の方で、かえって年齢明記の場合が多いのは変に思えますが、その理由については、この問題を調べた20年近く前も現在も上手く説明できません。ともかく、その理由が何であれ、『日本書紀』で天武の年齢が不明なのは、他の天皇の事例、とくに天武と世代が近く、直接の祖先・子孫関係のある天皇と比較すると、別に異常なことではなく、当時の常識に反していたとはとても言えないでしょう。

 むしろ、天武も含まれる欽明以降の『日本書紀』の記事で考えると、年齢が明らかな推古と天智こそ例外的と言えるのではないか、と私は考えています。しかも天智の場合、父の舒明の殯のさいに年齢が記されているだけで、皇太子時代(皇太子という制度が天智存命の頃に存在したのか、定かではないと思いますが)や自身の即位後の記事では年齢が明記されていません。その意味では、欽明以降の『日本書紀』の記事では、年齢が詳細に記されている推古のみが例外的存在だと言えそうです。なお、推古は『日本書紀』において、立后時・夫(異母兄でもあります)の敏達崩御時・即位時(前帝の崇峻崩御時)・崩御時の年齢が記されており、それぞれの年齢のなかには他の記事と矛盾を生じる場合がありますが、この問題についてはまったく考えがまとまっていないので、今回は掘り下げません。

 井沢氏は、「常識」に沿った「合理的思考」のできない研究者を批判し、自説の優秀性・優越性・妥当性を主張します。しかし上記引用文では、そもそも井沢説の前提となる「常識」自体が危ういのですから、井沢説を研究者の見解より妥当だと考えることはできません。まあそもそも、上述したように、井沢氏の主張する「研究者の見解」自体がひじょうに歪められているので、上記引用文は二重の意味で井沢氏の主張の前提に大問題がある、と言えるでしょう。井沢氏の江戸時代の農民に関する見解についても、研究者の見解を歪めているのではないか、江戸時代の石高制や流通について考慮が足りないのではないか、そもそも石高に関して誤解しているのではないか、との疑問(関連記事)が残ります。

 井沢氏の主張のこうした欠陥は、「宗教なんて迷信に過ぎないから歴史の解明には一切必要ない」と日本の歴史学者が言ってきた、との発言からも窺えるように、上記引用文だけではなく多数あるのではないか、との疑念が拭えません。それらをすべて検証することは困難ですし、私もやるつもりは全くありませんが、これまでも井沢説批判はネットでそれなりに存在したとはいえ、井沢氏がTwitter上で注目を集めたこの機会に、私よりも詳しい一般層が個々に井沢説の問題点をネットで指摘していくような大きな流れができればよいな、と思います。

 そもそも井沢氏は、歴史学の研究者に長年噛みついてきましたが、歴史学を専攻したことはありませんから、仮に歴史学の陥穽を指摘できるとしたら、出発点としての推理作家らしい推論能力・論理能力で多くの歴史学の研究者よりも優れている必要がある、と思います。しかし、井沢氏の論理的思考能力が多くの歴史学の研究者よりも優れているのかというと、私はかなり懐疑的です。たとえば、『逆説の日本史』の週刊誌連載が織田と浅井・朝倉の戦いを取り上げていた頃のネット上の反応に以下のようなものがあります。

138 :武田研究家:01/10/10 00:56
> …ちなみに領国を離れ遠征してきている朝倉軍にとっては、
>この決定は渡りに船だった。というのは、朝倉兵というのは兵農分離してい
>ない軍隊だから、農業労働力として必ず国へ戻さねばならないが、早くしな
>いと本国の越前(福井県)は雪に閉ざされてしまうからだ。ここでも信長軍
>との差が出た。

さてこの文章とこれより前に書かれている講和の話、実は論理的に破綻
しています。
ヒントは「雪」です。
つまり、雪が積もっている間は農業なんて出来やしないのです。
農業するために撤退するのであれば、雪が融けてから国に帰ればいいのです。
百歩譲って朝倉軍は後進的な農兵軍団で、織田軍だけが先進的専業兵士軍団で、
しかも朝倉軍の兵士たちは雪が積もっている中で何か農業するのだと仮定
しましょう。
それならば、信長に急いで講和する必要はありません。
朝倉軍はそのうち撤退するでしょう。二万とも言われる朝倉軍が抜ければ、
北方は万全です。
それから取って返して三好軍を撃破すれば、信長の一人勝ちです。
あるいは三好軍も農業するために本国の阿波に帰るかもしれません。
そうなると信長は何もしないで勝てることになります。
兵農分離が真実本当ならば、このような結論になります。
井沢氏は、どう考えたのでしょうか。


『逆説の日本史』を丹念に読んでいけば、同様の矛盾は多数見つかるのではないか、との疑念が拭えません。井沢説の間違いを専門家がしっかりと指摘していけばよい、との主張もあるようですが、専門家にとって、井沢説批判は時間の無駄で本業の妨げでしかなく、社会的損失になってしまうと思います。

 井沢氏の主張で気になるのは、前提となる基礎的情報の問題(上述した古代の天皇の年齢など)だけではなく、その価値観・世界観です。井沢氏は熱心にというか執拗に「左派」を批判しています。しかし、信長は世界史級の人物だと痛感した、と述べた後の、

新しい世界を築くためには、旧体制の徹底的な破壊が必要だからだ。破壊のあとには新しい世界が生まれ、その世界が古くなれば、また破壊を必要とする。

との主張(逆説10P481)は、かなり「左翼的」であるとともに、ひじょうに単純というか幼稚だと思います。もちろん、「徹底的な破壊」を伴うような大きな変化も歴史上あるでしょうが、そうではない大きな変化もまた珍しくないでしょう。たとえば、現代日本社会では顕著ですが、「先進諸国」の多くで見られる少子高齢化です。その前の大きな変化である近代化も、少なくともイギリス、もっと限定してブリテン島は、「徹底的な破壊」を伴うものではなかったと思います。まあ、清教徒革命をどう評価するのか、という問題はありますが、「徹底的な破壊」を伴わなければ「新しい世界」は到来しない、というような世界観は、単純であるだけではなく、危険でもあると思います。まあ、井沢氏は「反共」の「近代化至上主義者」と評価すべきかもしれませんが。

 「左翼」を批判する井沢氏の「左翼性」については、武士の起源に関しても当てはまるように思います。井沢氏の武士起源論は、悪い意味で古臭い「左翼的」なものだと思います。しかも、井沢氏は武士の起源をケガレの観念から説明しますが、あくまでも武士ではない人々、とくに貴族(後には貴族の武士も増えてくるわけですが)が武士を穢れた存在として見ている、ということを中心に説明し、天皇などの貴人をモノノケやケガレなどから守護する存在としての武士という視点が見られません。

 武士の起源などを扱う逆説4には1995~1996年の週刊誌連載が収録されていますが、すでに1994年2月には、「辟邪としての武」という視点からの武士論が、一般向け雑誌の『朝日百科日本の歴史別冊 歴史を読みなおす8 武士とは何だろうか「源氏と平氏」再考』に掲載されています。井沢氏がその「左翼性・進歩性」を執拗に批判する朝日新聞社発行の雑誌に、通俗的な古臭い史観からの脱却を図り、宗教的側面を重視した論考が掲載されており、井沢氏にそれを参照した様子が見られないことは、皮肉というか、ある意味で痛快でもある、と思います。

 貴族と武士との対立的側面を強調する井沢説は、全体的に古臭いものだと思います。井沢氏が、侍所は鎌倉幕府の「独創(オリジナル)」と述べたことも(逆説5P209)、単なる「細かい間違い」ではなく、井沢氏の日本史像が根本的なところで歪んでいることの現れではないか、と私は考えています。井沢説井沢説の古臭さはこれに限りませんが、木ではなく森全体を描いているのだ、との自負があるようですが(関連記事)、基礎的な知識やそれに基づく前提に間違いが多ければ、描かれた「森全体」は著しく歪んだものとなるでしょう。

 武士の起源や織田信長に関する井沢氏の見解については、本来ならもっと詳しく取り上げるべきなのでしょうが、今はそれだけの気力がありませんし、今後取り上げる目途もまったく立っていません。まとまりのない文章になってしまいましたが、井沢氏に言及するのはここまでとして、今後当分は人類進化を中心に優先順位の高い問題を取り上げていくつもりです。上述したように、井沢氏がTwitter上で注目を集めたこの機会に、私よりも詳しい一般層が個々に井沢説の問題点をネットで指摘していくような大きな流れができればよいな、と思います。

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