国風文化
当ブログで「国風文化」に関する本・論考をいくつか取り上げてきたので、まとめておきます。河内春人「国風文化と唐物の世界」佐藤信編『古代史講義 邪馬台国から平安時代まで』(関連記事)は、遣唐使の廃止により唐文化の流入が途絶え、日本独自の「国風文化」が発達した、という伝統的・通俗的見解の見直しを提示しています。遣唐使の「廃止」は、近年ではすでに一般向け書籍でも取り上げられているように、廃止ではなく延期でした。また、遣唐使が途絶え、さらには唐が滅亡してからも、中華地域からの「唐物」は日本の文化に必要であり、規範にもなっていました。この前提として、商人によるアジア東部海域交易が盛んになっており、遣唐使のような「国家」間の通交が衰退しても、中華地域から文化を摂取できたことがあります。ただ、「国風文化」とはいっても、その対象はおもに貴族層に限定されていました。
榎本渉「遣唐使中止でも日中交流は花盛り」文藝春秋編『日本史の新常識』(関連記事)は、遣唐使の廃止により唐文化の流入が途絶え、日本独自の「国風文化」が発達した、という伝統的・通俗的見解の前提として、近代において国家単位での歴史把握が主流だったことが挙げられています。前近代の「日中」関係で注目されていたのは遣唐使の時代と遣明使の室町時代で、その間の時代の「日中」の交流は低調で、そのために「国風文化」が開花したと考えられてきた、というわけです。しかし、実質的な遣唐使は839年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)が最後となるものの、中華地域製陶磁器の分析からは、むしろその後に「日中」の経済的関係が飛躍的に発展し、遣明使の時代にはむしろ「日中」の経済的関係は低調だった、と推測されています。文化的にも、平安時代~南北朝時代にかけて、日本は中華地域から文化的影響を受け、とくに鎌倉時代には禅宗や建築や彫刻などで「宋風」要素が顕著でした。こうした平安時代~南北朝時代にかけての「日中」交流の主体は民間の海商や僧侶だったので、国家単位での歴史把握が主流だった近代においては軽視された、というわけです。
佐々木恵介『日本古代の歴史4 平安京の時代』(関連記事)は、「国風文化」の前提として、上記のような「外来」要素とともに、9世紀における漢文作成能力の向上という「内在的発展」を指摘します。その根拠の一つとして、六国史の記事の密度や編纂効率の向上が挙げられています。また日本の漢詩文は、形式・題材・美意識のすべてにおいて、唐からの直輸入だった9世紀前半と比較すると、9世紀後半には、漢詩文という形式をとりながら、日本の身近な風景や人物に題材がとられるようになり、その美意識にも独自のものが見られるようになります。日本の知識人たちが漢詩文を自己のものに消化していった、というわけです。日本で編纂された類書も、9世紀前半には中華地域的視点に限られていたものの、10世紀前半には日本の事象も対象とされていきます。これらは「本朝意識」の芽生えとも言え、「国風文化」や、その本格的な始まりを告げる10世紀初頭の『古今和歌集』の編纂に象徴される和歌の「復興」もそうした文脈で解され、「復興」された和歌は洗練・内在化されていった漢詩文の影響を強く受けていたようです。
榎本渉「遣唐使中止でも日中交流は花盛り」文藝春秋編『日本史の新常識』(関連記事)は、遣唐使の廃止により唐文化の流入が途絶え、日本独自の「国風文化」が発達した、という伝統的・通俗的見解の前提として、近代において国家単位での歴史把握が主流だったことが挙げられています。前近代の「日中」関係で注目されていたのは遣唐使の時代と遣明使の室町時代で、その間の時代の「日中」の交流は低調で、そのために「国風文化」が開花したと考えられてきた、というわけです。しかし、実質的な遣唐使は839年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)が最後となるものの、中華地域製陶磁器の分析からは、むしろその後に「日中」の経済的関係が飛躍的に発展し、遣明使の時代にはむしろ「日中」の経済的関係は低調だった、と推測されています。文化的にも、平安時代~南北朝時代にかけて、日本は中華地域から文化的影響を受け、とくに鎌倉時代には禅宗や建築や彫刻などで「宋風」要素が顕著でした。こうした平安時代~南北朝時代にかけての「日中」交流の主体は民間の海商や僧侶だったので、国家単位での歴史把握が主流だった近代においては軽視された、というわけです。
佐々木恵介『日本古代の歴史4 平安京の時代』(関連記事)は、「国風文化」の前提として、上記のような「外来」要素とともに、9世紀における漢文作成能力の向上という「内在的発展」を指摘します。その根拠の一つとして、六国史の記事の密度や編纂効率の向上が挙げられています。また日本の漢詩文は、形式・題材・美意識のすべてにおいて、唐からの直輸入だった9世紀前半と比較すると、9世紀後半には、漢詩文という形式をとりながら、日本の身近な風景や人物に題材がとられるようになり、その美意識にも独自のものが見られるようになります。日本の知識人たちが漢詩文を自己のものに消化していった、というわけです。日本で編纂された類書も、9世紀前半には中華地域的視点に限られていたものの、10世紀前半には日本の事象も対象とされていきます。これらは「本朝意識」の芽生えとも言え、「国風文化」や、その本格的な始まりを告げる10世紀初頭の『古今和歌集』の編纂に象徴される和歌の「復興」もそうした文脈で解され、「復興」された和歌は洗練・内在化されていった漢詩文の影響を強く受けていたようです。
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