二・二六事件

 毎年、今日は**記念日などといって記事にするのは、さすがに芸がないと思い控えているのですが、Twitterのトレンドにも入っていたので、今日は当ブログでこれまで取り上げた二・二六事件関連の記事をまとめます。当ブログで取り上げた本では、やはり筒井清忠『敗者の日本史19 二・二六事件と青年将校』(関連記事)をまず紹介すべきでしょう。同書は二・二六事件の背景として、日本社会の動向(第一次世界大戦後の不景気・関東大震災・昭和恐慌などによる農村の窮乏と格差の問題)や、それと関連しての軍部の動向(第一次世界大戦後の軍縮による軍人の動揺や、第一次世界大戦を実見した軍人たちを中心とした総力戦的な国家体制への志向や、軍内の派閥の変遷)や、社会変容に対応していこうとする、「昭和維新」構想に結びついていくような思想動向を挙げ、解説しています。

 二・二六事件の中核となった青年将校の動機として、「改造主義」と「天皇主義」という区分を提唱していることが同書の特徴です。前者は北一輝の思想に強く影響を受けており、国内的にも国際的にも平準化を強く志向したことが特徴となっています。しかし、平準化とはいっても天皇の存在は大前提であり、一君万民を理想としたと言えるでしょう。そこでは、財閥・貴族(華族)・大政党が排撃の対象となります。後者は、「斬奸」により天皇周辺の「妖雲」を払えば(君側の奸の排除)、本来の「国体」が現れて自然によくなる、とする天皇中心の国体への素朴な信頼感を特徴とします。二・二六事件の中核となった青年将校は「改造主義」と「天皇主義」とその中間に区分されるのですが、青年将校各個人において、比重の差はあれども、「改造主義」と「天皇主義」が混在しており、相互に完全に排他的というわけではなかった、と同書は注意を喚起しています。

 同書は二・二六事件の影響として、まず政治への影響力の増大を挙げています(テロ・クーデターへの懸念)。しかし、軍部の力を抑えられなかったことへの言い訳として、二・二六事件が利用された側面もあることも同書は指摘します。二・二六事件の社会的影響として指摘されているのが、社会の平準化という発想です。これは革新官僚や軍の一部に継承され、二・二六事件以降に本格化した統制経済(これは総力戦体制の構築を目的としたものであり、「改造主義」もそうですが、当時の多くの社会変革思想と整合的な側面があった、と言えるでしょう)下で組み込まれていくとともに、第二次世界大戦後の諸改革へもつながっていきます。

 同じく筒井氏の「二・二六事件と昭和超国家主義運動」筒井清忠編『昭和史講義─最新研究で見る戦争への道』(関連記事)でも、二・二六事件の背景として、平準化を求める動きが指摘されています。これは、国内的には経済格差の問題であり、国際的には、英米をはじめとする列強と植民地との問題でもありました。両者は連関しており、国内の「特権階級」は対英米協調派とみなされたため、この平準化の動向では英米との対立が想定されることになりました。こうした昭和超国家主義運動は、政治的には2・26事件で敗北したものの、国内の平準化は戦中・戦後を通じてじょじょに実現されていきました。

 長谷川雄一「血盟団事件と五・一五事件」筒井清忠編『昭和史講義2─専門研究者が見る戦争への道』(関連記事)は、二・二六事件の前史としての血盟団事件と五・一五事件を浮き彫りにします。どちらも昭和初期の恐慌を背景とした起きた事件でしたが、その前提として、第一次世界大戦後に日本社会で盛んとなった国家改造・革新運動がありました。これは国内外の平等主義的革新を目指した運動で、恐慌と格差の拡大のなか、五・一五事件の首謀者たちに広範な同情が寄せられる要因となり、また二・二六事件へとつながっていきました。もっとも、平等主義的革新とはいっても、天皇の存在は大前提で(共産主義者はさてとおくとして)、天皇と国民の間の政党・財閥・官僚が排撃の対象とされました。

 二・二六事件時の首相である岡田啓介に関しては、菅谷幸浩「帝人事件から国体明徴声明まで」『昭和史講義2─専門研究者が見る戦争への道』が、岡田内閣とその前の斎藤内閣について解説しています。この二つの内閣は「中間内閣」と呼ばれており、政党政治の中断後に成立しましたが、この時点ではまだ政党政治への復帰が模索されており、現実的な政治目標でした。岡田内閣での天皇機関説事件とそれを受けての二度の国体明徴声明にしても、憲政に大きな転換の生じた「合法無血のクーデタ」ではなく、既存の法解釈への影響は最小限度にとどまったそうです。

 首相就任前も対象としての岡田啓介については、村井良太「岡田啓介─「国を思う狸」の功罪」筒井清忠編『昭和史講義3─リーダーを通して見る戦争への道』(関連記事)が解説しています。同論考における岡田啓介の海相・首相としての評価は低く、全体主義の流れに抗しながらも議会主義的ではない良心的な権威主義国家を招来し、軍国主義国家への道を開いた、と指摘されています。ただ、首相退任後の岡田は重臣として成長し、終戦工作などで重要な役割を果たした、と評価されています。

 筒井清忠「昭和陸軍の派閥抗争─まえがきに代えて」筒井清忠編『昭和史講義 【軍人篇】』(関連記事)は、二・二六事件を昭和陸軍の派閥抗争史に位置づけています。この期間で有名なのは統制派と皇道派ですが、両者はそもそも、総力戦体制を志向し、長州閥、さらにはそれを継承したとも言える準長州閥の宇垣一成を批判する、革新志向勢力と言えます。それが、革新志向勢力に歓迎された荒木貞夫陸相の政治力のなさへの対応などから統制派と皇道派に分裂して派閥抗争が激化していき、二・二六事件で皇道派は没落します。しかし、その後は統制派の天下になったのかというと、旧統制派内でも派閥抗争が続き、とても統制派の支配下にあるとは言えない状況でした。同論考は、こうした派閥抗争の要因として、個人の役割も無視できないものの、中堅幕僚グループの動向・雰囲気が大きかったのではないか、と指摘しています。満洲事変で強硬策を主張した石原莞爾が日中戦争では不拡大策をとろうとしても下から突き上げられて失敗し、日中戦争で強硬策を主張した武藤章が対米開戦を回避しようとしても下から突き上げられて失敗したように、陸軍の下剋上的雰囲気のなかで、中堅幕僚グループからの突き上げが、将官級の動向を制約したのではないか、というわけです。中堅幕僚グループのそうした動向には、功名心もあったのでしょう。

 庄司潤一郎「梅津美治郎─「後始末」に尽力した陸軍大将」『昭和史講義 【軍人篇】』は、二・二六事件からノモンハン事件、さらには終戦という日本にとっての一大転機に、「後始末」を無難に行ない、昭和天皇から厚く信頼された軍人と梅津美治郎を評価しています。戸部良一「石原莞爾─悲劇の鬼才か、鬼才による悲劇か」『昭和史講義 【軍人篇】』は、満洲事変での「目覚ましい活躍」と二・二六事件での「断固たる討伐方針」により陸軍内、さらには国民の間で声望を高めた石原莞爾が、二・二六事件において、反乱軍への共感を強く抱いており、当初から「断固たる討伐」一辺倒ではなかった、と指摘します。

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