唯物論はネアンデルタール人級の発想

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)について検索していたら、表題の呟きを発見しました。関連する呟きを時系列に沿ってまとめてみます(呟き1および呟き2および呟き3および呟き4および呟き5)。


『ホモサピエンス全史』は読んでいて面白い。これによるとネアンデルタール人など旧人類とホモサピエンスの違いは目に見えないものの存在を信じられるかどうかということ。そう考えると唯物論というのは、前近代どころか前人間的というべきか。

棺桶まで持って入る秘密はある。みんなそうだろう。人間社会とは建前と本音のバランスで成立している。つまり人間社会とはある種の幻想であり、それを前提にしながら確かなものが存在する。そういう世界観は唯物論ではけっしてわからない。

マルクスが資本主義に噛みついたのは、唯物論だから信用保証という概念がわからなかったのかもしれない。ひょっとするとマルクスはネアンデルタール人的な思考だったのかもしれない。これは新説だな。

マルクス主義史観は、近代と前近代を区別するが、唯物論がホモサピエンス以前の発想となると、マルクスが実は前近代どころか、石器時代のはるか昔の考え方となる。これは左翼にとってコペルニクス的転回どころではない。猿の惑星的悲劇だ。大晦日に大発見をしてしまった。本年はここまで。良いお年を。

『サピエンス全史』から唯物論はネアンデルタール人級の発想だということが導ける。マルクスは前近代と近代に区分して、唯物論を近代と称したが、実は前近代どころかネアンデルタール人だったとなる。これはコペルニクス的転回どころか猿の惑星的悲劇だという笑い話。本当にこんな話が理解できないの?



 この見解の根拠は、NHK地上波放送でも取り上げられ、大きな話題となった『サピエンス全史』です(関連記事)。同書の主要な主張の一つが、(遅くとも7万年前頃の認知革命による)現生人類(Homo sapiens)に備わった、虚構を語り信じる能力が、その後の人権概念・貨幣・国家・宗教などの現生人類(サピエンス)の歴史的展開の基盤になった、というものです。人権概念・貨幣・国家・宗教などは虚構に基づいている、と同書は強調しますが、これはすでにある程度以上浸透した見解と言えるでしょう。しかし、NHK地上波放送でも取り上げられるくらい売れて、NHK地上波放送でも取り上げられたような一般向け書籍の見解としては、なかなか刺激的かもしれません。同書のもう一つの主要な主張は、現代社会の形成にさいして、産業革命よりもその前の科学革命を重視していることです。世界の重要な事柄について、すでに神や賢者によりすべて示されている、とするキリスト教・イスラム教・儒教などの伝統的な知的観念とは異なり、科学革命によって進んで無知であることを認めるようになったことが大きい、というわけです。

 『サピエンス全史』の見解の根拠となるのはモジュール説です(関連記事)。モジュール説とは、人間には博物・技術・社会など固有の領域の知能(モジュール)があり、現生人類においては各モジュール間に流動性があったものの、ネアンデルタール人にはそれがなく、モジュール間の流動性を促進したのは汎用言語だった、とする見解です。現生人類系統にのみ汎用言語をもたらした認知革命が起き、ネアンデルタール人など他系統の人類を圧倒して世界中に拡散して、個体数を大きく増加させるにいたった、というわけです。

 上述の一連の引用は、唯物論は現生人類特有の虚構を語り信じる能力に依拠していないので、ネアンデルタール人級の発想だ、という論理になっているわけです。しかし、一見したところとても似ていない物質(土や水や火など)と人体、さらには心の仕組みを結びつける発想は、虚構を語り信じる能力に依拠しなければ成立しないものだと思います。その意味で、『サピエンス全史』に依拠するとしたら、唯物論が現生人類よりも前の発想とはとても言えないでしょう。また、現代の脳科学や心理学の知見は、人間の心の働きがどのように物質的基盤に基づいているのか、明らかにしつつあり、唯物論と幻想を前提に人間社会が成立していることは矛盾せず、両立するものだと思います。その意味で、上述の見解は的外れだと私は考えています。

 『サピエンス全史』と通ずる見解としては、現生種において人間が特異的なのは、「入れ子構造を持つシナリオを心のなかで生み出す際限のない能力」と「シナリオを構築する他者の心とつながりたいという抜きがたい欲求」を有することにある、と指摘する『現実を生きるサル 空想を語るヒト』があります(関連記事)。ここで問題となるのは、『現実を生きるサル 空想を語るヒト』においては、現生種では人間特有のこうした能力が人類系統で獲得されたのはいつなのか、まだ確定的ではない、とされていることです。つまり、唯物論的発想も可能な認知能力の獲得は、現生人類系統とネアンデルタール人系統が分岐する前のことだったかもしれない、というわけです。

 これは単なる空想ではありません。最近、ネアンデルタール人の認知能力に関する当ブログの記事の一覧をまとめましたが(関連記事)、近年では現生人類とネアンデルタール人との認知能力の類似性が多数指摘されており、両者の間に基本的な認知能力の差はない、との見解さえ提示されています(関連記事)。現生人類とネアンデルタール人との認知能力の違いの重要な考古学的根拠の一つとされてきた洞窟壁画の有無にしても、ネアンデルタール人が描いていた可能性はかなり高い、と明らかになりました(関連記事)。

 これに関しても、ネアンデルタール人の壁画には形象的なものが確認されておらず、そこが決定的な違いとの見解もありますが(関連記事)、現生人類所産の壁画にしても、形象的なものが出現するのはネアンデルタール人の滅亡後か、せいぜいその直前ですし、ネアンデルタール人の描いた壁画のある洞窟には、年代未確定の形象的なものもあるので、今後ネアンデルタール人の描いた形象的な壁画が確認される可能性は低くないでしょう。おそらくは現生人類の影響のない時代のヨーロッパにおいて装飾品が発見されていることからも(関連記事)、現生人類とネアンデルタール人の間に認知能力の点で何らかの違いがあった可能性は低くないとしても、ネアンデルタール人が現生人類のような虚構を語り信じる能力を有していた可能性も、とても無視してよいほど低いものではないでしょう。

 つまり、『サピエンス全史』が主張する、現代社会の基盤となった認知革命は、現生人類とネアンデルタール人の共通祖先の時点で起きていた可能性もあるわけですから、幻想に生きることは現生人類のみに可能だ、とする上述の一連の引用は確定的とは言えず、間違っている可能性もじゅうぶんあります。もっとも、虚構を語り信じる能力の獲得が現生人類とネアンデルタール人の共通祖先の時点だとしても、その能力が現代社会の基盤になっている、との『サピエンス全史』の主張は妥当だと思います。上述の一連の引用のそれ以上の問題点は、すでに述べたように、唯物論を認知革命以前のものと把握していることで、唯物論もまた認知革命の産物と考えるべきと思います。もし、認知革命が現生人類とネアンデルタール人の共通祖先の時点で起きていたとしたら、「唯物論はネアンデルタール人級の発想」との主張は、発言者の意図とは大きく異なった意味で妥当である、という皮肉なことになります。

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