倉本一宏『内戦の日本古代史 邪馬台国から武士の誕生まで』

 講談社現代新書の一冊として、講談社から2018年12月に刊行されました。本書は著者の『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(関連記事)と対になる1冊と言えそうです。同書が基本的には「対外」戦争を対象としていたのに対して、本書は古代日本の「内戦」を対象としています。本書の基調は、古代日本列島はユーラシア大陸と比較して平和だった、というものです。弥生時代末期~古墳時代にかけての王権の形成も、平和的な外交交渉が基調とされており、じっさい、考古学からも、古墳時代には戦争の証拠が希薄とされているそうです。日本武尊の説話も、地方勢力との支配関係構築のために各地に派遣され、平和的に交渉した人物が集約されたものではないか、と推測されています。

 壬申の乱については、鸕野讚良(持統天皇)が息子の草壁を大海人(天武天皇)の後継者とするために、血統的に有力な競合者となりそうな大津を危地に追いやろうとした、との以前からの著者の見解が提示されています。また、近江朝廷の大友が親唐政策を採用して新羅と戦おうとしており、白村江の戦いで疲弊していた豪族たちの間で不満が高まっていたことも、壬申の乱の原因とされています。これらの見解が妥当なのか、私の知見で判断するのは難しいところですが、とくに壬申の乱における国際的契機を重視する仮説については、真剣に検証されるべきだと思います。天慶の乱については、将門の「新皇」即位は『将門記』の作文との見解が注目されます。将門が「新皇」に即位したからこそ、後々まで朝廷において将門の乱が強烈な印象を残した、というような見解に私は馴染んでいたので、やや意外ではありました。この問題については、今後も関連文献を少しずつ読んでいこう、と考えています。

 本書はまとめとして、古代における、内戦の少なさと規模の小ささ、和平・懐柔路線を主体とした解決策と敗者に対する穏便な措置と、中世における内戦の爆発的増加、大量殺戮・虐殺とを対比させて、その理由の解明を今後の課題としています。確かに、本書が指摘するように、建前にすぎなかったとしても公権力の掲げていた儒教倫理が、中世、とくに武士社会においてはほぼ無視されていた、と言えるかもしれませんが、それはけっきょく、儒教倫理がごく一部の階層にしか浸透しておらず、日本社会において潜在的には広範に存在していた「野蛮性」が顕現した、あるいは文献上で可視化されるようになったからではないか、とも思います。まあ、門外漢の思いつきにすぎないので、この問題については今後も考え続けていくつもりです。

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