近世アイヌ集団のmtDNA解析
取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、近世アイヌ集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Adachi et al., 2018)が公表されました。現代アイヌ人(と呼ぶと人間人のような意味となって不自然とも言えるかもしれませんが)の形成に関しては、現代日本人起源論との関連で議論されてきました。現代日本人起源論では、二重構造モデルが有力な仮説として認められてきました。更新世の日本列島最初の人類集団は東南アジア起源で、そこから縄文集団が形成され、弥生時代以降の北東アジアから移住者と在来の縄文集団との融合により現代日本人が形成された、と考えられています。
これはおもに本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」での過程で、沖縄地域と北海道では、縄文集団の遺伝的影響が日本列島「本土」より強く残った、と想定されています。その結果、沖縄でも北海道でも日本列島「本土」とは大きく異なる文化集団が形成されました。これは北海道ではとくに顕著で、日本列島「本土」集団たる「日本人(もしくはヤマト人)」とは言語も含めて文化の大きく異なるアイヌ人が形成された、との理解が一般的です。アイヌ人と日本人とは異なる民族と考えるのが妥当でしょう。文化的観点では、アイヌ的な文化はおおむね紀元後13世紀に確立した、と一般的に考えられています。
二重構造モデルでは当初、とくに北海道では、前近代において縄文集団の子孫と他地域集団との遺伝的混合はほとんどなかった、と想定されていました。しかし、その後の形態学および遺伝学的研究では、オホーツク文化集団がアイヌ集団の形成に影響を及ぼした、と推測されています。オホーツク文化集団はユーラシア北東部から拡散してきたと考えられており、紀元後5~13世紀に北海道北部および北東部沿岸やサハリン南部に存在していましたが、北海道では本州の影響を受けた擦文文化の拡散に伴い急速に衰退し、10世紀初めまでにはほとんど消滅しました。オホーツク文化は擦文文化の影響を受けてトビニタイ文化へと変容し、13世紀に始まるアイヌ時代まで続きます。オホーツク文化集団の遺伝的影響とは、具体的には、北海道縄文集団には見られないmtDNAハプログループA・C・Yで、これらはオホーツク文化集団と現代のシベリア先住民集団に見られます。
これまでのアイヌ人に関する遺伝研究の問題点は、現代人のDNAのみが解析されていることです。そのため、前近代の日本列島「本土」集団(以下、本土集団と省略)からの遺伝的影響の評価はできませんでした。また、これまでの研究の問題点として、対象地域が限定的もしくは不明であることが挙げられます。ほとんどの研究は北海道の平取町の51人の遺伝的データに基づいています。近世アイヌのDNA研究もありますが、標本の地域は明らかにされていません。そのため、これまでの研究ではアイヌ集団の遺伝的地域差の評価ができませんでした。本論文は、北海道全域のアイヌ集団の遺骸からmtDNAを解析しました。全標本の年代は江戸時代(近世)に収まり、通説では、本土集団の大規模な遺伝的影響は報告されておらず、本土集団のアイヌ集団への強い遺伝的影響は、明治時代以降の「開拓」に始まる、と想定されていました。
本論文は、近世アイヌ集団115標本のうち94標本の配列に成功しました。江本論文は、近世アイヌ集団で観察されたハプログループの地域差を明らかにするために、次の4タイプに分類しました。それは、北海道縄文型(北海道縄文集団で見られるハプログループ)、オホーツク型(オホーツク文化集団に見られ、北海道縄文集団には存在しないハプログループ)、本土型(北海道縄文人とオホーツク文化人には存在せず、現代の本土日本人には現代のシベリア先住民集団よりも高い頻度で見られるハプログループ)、シベリア型(北海道縄文集団とオホーツク文化集団には存在せず、現代の本土日本人よりも高い頻度で現代のシベリア先住民集団に見られるハプログループ)です。
mtDNAでも、北海道縄文集団と近世アイヌ集団との遺伝的連続性が確認されました。北海道縄文集団の中で最も高頻度のハプログループN9b1は、近世アイヌ集団でも比較的高頻度で見られます。Y染色体DNAでも、この連続性が確認されています。北海道縄文集団と近世アイヌ集団との違いは、北海道縄文集団に見られるmtDNAハプログループN9b4・N9b*・D4h2・M7aが近世アイヌ集団には確認されていない一方で、北海道縄文集団では確認されていない19のハプログループが近世アイヌ集団には見られることです。
本論文は、この違いが何に起因するのか検証するため、近世アイヌ集団と、東アジアとシベリアの古代および現代の14集団を比較しました。以前の研究では、アイヌ人は北海道縄文集団とオホーツク文化集団を含むアムール川下流域集団との中間に位置します。これは、アイヌ人が北海道縄文集団とオホーツク文化集団との混合により成立した、との見解を支持します。しかし、近世アイヌ集団に見られるmtDNAハプログループの中には、M7a1などのように、北海道縄文集団にもオホーツク文化集団にも見られないものがあります。これは、北海道縄文集団とオホーツク文化集団以外にも、アイヌ人の遺伝的集団が存在することを示唆します。本論文は、本土集団とシベリア先住民集団も近世アイヌ集団に遺伝的影響を及ぼしている、と明らかにしました。
近世アイヌ集団における各集団のタイプのmtDNAハプログループの割合は、オホーツク型で35.1%、北海道縄文型で30.9%、本土型で28.1%、シベリア型で7.3%となります。オホーツク型の割合の高さも注目されますが、何よりも注目されるのはオホーツク型・北海道縄文型とさほど変わらない本土型の割合で、前近代においてすでに、アイヌ集団と本土集団との混合がかなり進展していた、と示唆されます。シベリア型の存在は、オホーツク文化が北海道から消えた後でも、北海道のアイヌ集団とシベリア先住民集団との間に遺伝的関係が継続していたことを示唆します。
北海道の近世アイヌ集団を南西と北東で区切ると、北海道型・オホーツク型・本土型・シベリア型の比率には、顕著な地域差が見られました。たとえば、北海道型の比率は北東アイヌ集団の方が高い一方で、本土型の比率は南西アイヌ集団の方が高くなっています。これについては地理的要因が考えられ、形態学的研究とも一致します。オホーツク型とシベリア型の比率に関しては、近世アイヌの両集団間で大きな差はありません。したがって、オホーツク文化集団の遺伝的影響は北海道全域の祖型アイヌ集団に急速に拡散した、と考えられます。
このように、近世アイヌ集団は複数の起源集団を有しているわけて、アイヌ人もまた「交雑する人類」の例外ではなかったわけです(関連記事)。ただ、例外も報告されているとはいえ(関連記事)、mtDNAは基本的に母系遺伝です。そのため、mtDNAに基づく集団の歴史の解釈には慎重でなければならない、と本論文は指摘します。近世アイヌ集団における、各地域集団の遺伝的影響の比率やその歴史的経緯に関しては、やはり中世と古代までさかのぼって核DNAを解析し、周辺の各集団と比較していかねば、詳細は分からないのでしょう。今後の研究の進展が期待されます。
参考文献:
Adachi N. et al.(2018): Ethnic derivation of the Ainu inferred from ancient mitochondrial DNA data. American Journal of Physical Anthropology, 165, 1, 139–148.
https://doi.org/10.1002/ajpa.23338
これはおもに本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」での過程で、沖縄地域と北海道では、縄文集団の遺伝的影響が日本列島「本土」より強く残った、と想定されています。その結果、沖縄でも北海道でも日本列島「本土」とは大きく異なる文化集団が形成されました。これは北海道ではとくに顕著で、日本列島「本土」集団たる「日本人(もしくはヤマト人)」とは言語も含めて文化の大きく異なるアイヌ人が形成された、との理解が一般的です。アイヌ人と日本人とは異なる民族と考えるのが妥当でしょう。文化的観点では、アイヌ的な文化はおおむね紀元後13世紀に確立した、と一般的に考えられています。
二重構造モデルでは当初、とくに北海道では、前近代において縄文集団の子孫と他地域集団との遺伝的混合はほとんどなかった、と想定されていました。しかし、その後の形態学および遺伝学的研究では、オホーツク文化集団がアイヌ集団の形成に影響を及ぼした、と推測されています。オホーツク文化集団はユーラシア北東部から拡散してきたと考えられており、紀元後5~13世紀に北海道北部および北東部沿岸やサハリン南部に存在していましたが、北海道では本州の影響を受けた擦文文化の拡散に伴い急速に衰退し、10世紀初めまでにはほとんど消滅しました。オホーツク文化は擦文文化の影響を受けてトビニタイ文化へと変容し、13世紀に始まるアイヌ時代まで続きます。オホーツク文化集団の遺伝的影響とは、具体的には、北海道縄文集団には見られないmtDNAハプログループA・C・Yで、これらはオホーツク文化集団と現代のシベリア先住民集団に見られます。
これまでのアイヌ人に関する遺伝研究の問題点は、現代人のDNAのみが解析されていることです。そのため、前近代の日本列島「本土」集団(以下、本土集団と省略)からの遺伝的影響の評価はできませんでした。また、これまでの研究の問題点として、対象地域が限定的もしくは不明であることが挙げられます。ほとんどの研究は北海道の平取町の51人の遺伝的データに基づいています。近世アイヌのDNA研究もありますが、標本の地域は明らかにされていません。そのため、これまでの研究ではアイヌ集団の遺伝的地域差の評価ができませんでした。本論文は、北海道全域のアイヌ集団の遺骸からmtDNAを解析しました。全標本の年代は江戸時代(近世)に収まり、通説では、本土集団の大規模な遺伝的影響は報告されておらず、本土集団のアイヌ集団への強い遺伝的影響は、明治時代以降の「開拓」に始まる、と想定されていました。
本論文は、近世アイヌ集団115標本のうち94標本の配列に成功しました。江本論文は、近世アイヌ集団で観察されたハプログループの地域差を明らかにするために、次の4タイプに分類しました。それは、北海道縄文型(北海道縄文集団で見られるハプログループ)、オホーツク型(オホーツク文化集団に見られ、北海道縄文集団には存在しないハプログループ)、本土型(北海道縄文人とオホーツク文化人には存在せず、現代の本土日本人には現代のシベリア先住民集団よりも高い頻度で見られるハプログループ)、シベリア型(北海道縄文集団とオホーツク文化集団には存在せず、現代の本土日本人よりも高い頻度で現代のシベリア先住民集団に見られるハプログループ)です。
mtDNAでも、北海道縄文集団と近世アイヌ集団との遺伝的連続性が確認されました。北海道縄文集団の中で最も高頻度のハプログループN9b1は、近世アイヌ集団でも比較的高頻度で見られます。Y染色体DNAでも、この連続性が確認されています。北海道縄文集団と近世アイヌ集団との違いは、北海道縄文集団に見られるmtDNAハプログループN9b4・N9b*・D4h2・M7aが近世アイヌ集団には確認されていない一方で、北海道縄文集団では確認されていない19のハプログループが近世アイヌ集団には見られることです。
本論文は、この違いが何に起因するのか検証するため、近世アイヌ集団と、東アジアとシベリアの古代および現代の14集団を比較しました。以前の研究では、アイヌ人は北海道縄文集団とオホーツク文化集団を含むアムール川下流域集団との中間に位置します。これは、アイヌ人が北海道縄文集団とオホーツク文化集団との混合により成立した、との見解を支持します。しかし、近世アイヌ集団に見られるmtDNAハプログループの中には、M7a1などのように、北海道縄文集団にもオホーツク文化集団にも見られないものがあります。これは、北海道縄文集団とオホーツク文化集団以外にも、アイヌ人の遺伝的集団が存在することを示唆します。本論文は、本土集団とシベリア先住民集団も近世アイヌ集団に遺伝的影響を及ぼしている、と明らかにしました。
近世アイヌ集団における各集団のタイプのmtDNAハプログループの割合は、オホーツク型で35.1%、北海道縄文型で30.9%、本土型で28.1%、シベリア型で7.3%となります。オホーツク型の割合の高さも注目されますが、何よりも注目されるのはオホーツク型・北海道縄文型とさほど変わらない本土型の割合で、前近代においてすでに、アイヌ集団と本土集団との混合がかなり進展していた、と示唆されます。シベリア型の存在は、オホーツク文化が北海道から消えた後でも、北海道のアイヌ集団とシベリア先住民集団との間に遺伝的関係が継続していたことを示唆します。
北海道の近世アイヌ集団を南西と北東で区切ると、北海道型・オホーツク型・本土型・シベリア型の比率には、顕著な地域差が見られました。たとえば、北海道型の比率は北東アイヌ集団の方が高い一方で、本土型の比率は南西アイヌ集団の方が高くなっています。これについては地理的要因が考えられ、形態学的研究とも一致します。オホーツク型とシベリア型の比率に関しては、近世アイヌの両集団間で大きな差はありません。したがって、オホーツク文化集団の遺伝的影響は北海道全域の祖型アイヌ集団に急速に拡散した、と考えられます。
このように、近世アイヌ集団は複数の起源集団を有しているわけて、アイヌ人もまた「交雑する人類」の例外ではなかったわけです(関連記事)。ただ、例外も報告されているとはいえ(関連記事)、mtDNAは基本的に母系遺伝です。そのため、mtDNAに基づく集団の歴史の解釈には慎重でなければならない、と本論文は指摘します。近世アイヌ集団における、各地域集団の遺伝的影響の比率やその歴史的経緯に関しては、やはり中世と古代までさかのぼって核DNAを解析し、周辺の各集団と比較していかねば、詳細は分からないのでしょう。今後の研究の進展が期待されます。
参考文献:
Adachi N. et al.(2018): Ethnic derivation of the Ainu inferred from ancient mitochondrial DNA data. American Journal of Physical Anthropology, 165, 1, 139–148.
https://doi.org/10.1002/ajpa.23338
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