『性の進化論 女性のオルガスムは、なぜ霊長類にだけ発達したか?』第4刷(後編)(追記有)
前編の続きです。
●まとめ
本書は冒頭において、「人類のセクシュアリティの本質」が、類人猿と共通の祖先に由来することを論証する、と目的を明かしています(P16)。現代人のセクシュアリティが祖先に由来するものであることは確かですが、率直に言って、その「本質」が乱婚社会だという論証に本書は失敗していると思います。上述したように、本書の論理構造にしたがえば、現代人系統のセクシュアリティの「本質」が乱婚社会にあるとしても、それはチンパンジー属系統とは独立して獲得されたことになるからです。ただ、現代人系統が乱婚社会を経験した、という可能性自体は、上述したように、霊長類系統、とくに類人猿系統の繁殖行動は柔軟で、その社会構造も比較的短期間に変わり得るものと考えるのが妥当でしょうから、じゅうぶん検証に値すると思います。しかし、上述したように、それを直接検証することは不可能ですから、どれだけ関連する証拠(関連度合いの強弱の判断も議論となってくるわけですが)を提示でき、各証拠を統合した整合的で説得力のある先史時代人類社会像を提示できるのかが、重要となります。
その意味で、現代人系統が乱婚社会を経験し、それは農耕開始まで続いた現代人の「セクシュアリティの本質」なのだ、という本書の主張は、他の可能性よりもずっと説得力に欠け、とても最有力説たり得ない、と私は考えています。本書は多数の根拠を挙げていますが、上述したように、それは乱婚社会説と決定的に矛盾するものではない、というだけで、その多くは通説とも決定的に矛盾するものではない、と思います。何よりも、上述したモソ族社会の事例もそうですが、本書が自説の根拠とする事例の解釈のいくつかには疑問も残ります。専門家であれば、私よりもはるかに多く、不備を的確に指摘できるでしょう。
じっさい、訳者あとがきでは、本書を痛烈に批判した本が刊行されている、と紹介されています。その批判本は、本書の原題『Sex at Dawn: How We Mate, Why We Stray, and What It Means for Modern Relationships』をもじった、『Sex at Dusk: Lifting the Shiny Wrapping from Sex at Dawn』と題されています。訳者あとがきでは、本書がAmazonで高い評価を受けている一方、批判本のインターネット上での評価は高くない、と指摘されています。確かにAmazonでは、批判本の評価は本書よりも低くなっています。しかし、ざっと読んだ限りですが、批判本に対する評価の高い書評は、批判本にたいしておおむね肯定的であるように思います。この批判本もいつかは読まねばならない、とは思うのですが、怠惰なので結局読まずに終わりそうです。ともかく、徹底的な批判本が刊行され、一定以上の評価であることからも、本書の見解は基本的に疑ってかかるのが妥当だろう、と思います。では、本書の見解よりも妥当な見解は何なのかとなると、私の現時点での知見・能力では的確に答えられないのですが、やはり、本書が批判する通説の方がより妥当なのではないか、と考えています。もっとも、私の見解は本書の想定する通説とはかなり異なるかもしれませんが、以下に簡略に述べていきます。
まず大前提となるのは、現生類人猿系統において、多様な社会を構築している現代人を除いて、すべて父系もしくは非母系社会を構築している、ということです。これは、現代人も含めて現生類人猿系統の最終共通祖先も父系もしくは非母系社会だった可能性が高いことを示唆します。次に、現生類人猿系統において発情徴候が明確なのはチンパンジー属(チンパンジーおよびボノボ)だけということが前提となります。現生類人猿系統の最終共通祖先から、テナガザル→オランウータン→ゴリラ→チンパンジーおよび現代人という順に系統が分岐していったことから、現代人とチンパンジー属の最終共通祖先も、発情徴候は明確ではなかった可能性が高そうです。また、上述したように、アウストラロピテクス属のみならず、初期ホモ属でも性的二形が顕著だったかもしれないことから、現代人系統とチンパンジー属の最終共通祖先も、200万~150万年前頃までの現代人系統も、性的二形が現生ゴリラ並だった可能性は低くありません。
つまり、チンパンジー属のセクシュアリティの重要な構成要素たる穏やかな性差(ゴリラより小さいとはいっても、現代人よりは大きいわけですが)も、明確な発情徴候も、人類系統と分岐した後に獲得された可能性が高い、というわけです。上述したように、かりに現代人系統が過去にチンパンジー属系統と類似した乱婚社会を経験したとしても、それは共通の祖先的特徴に由来するのではなく、両系統で独自に獲得された可能性が高いでしょう。もちろん、収斂進化は進化史においてきょくたんに珍しいわけではありませんが、もっと節約的な仮説が立てられるならば、そちらを採用すべきだと思います。
その仮説の前提となるのは、現生類人猿系統において、明確な発情徴候はチンパンジー属系統でのみ進化した可能性が高い、という推測です。現代人系統のセクシュアリティについて推測する場合、この違いは大きな意味を有すると思います。おそらく現代人系統は、マウンテンゴリラのような、親子・兄弟といった父系の血縁関係にある複数の雄が複数の雌と交尾相手を重複させずに共存する、家族に近い小規模な共同体から出発し、利他的傾向とコミュニケーション能力が強化されるような選択圧を受けた結果、一夫一妻傾向の家族を内包する大規模な共同体という、独特な社会を形成したのではないか、と思います(関連記事)。さらに現生人類系統において、象徴的思考能力など高度な認知能力を獲得したことで柔軟性が飛躍的に発展し、父系・単婚傾向に限定されない多様な社会を形成したのではないか、と推測しています。もっとも、柔軟性とも深く関わるだろうこの高度な認知能力は、現生人類系統とネアンデルタール人系統の最終共通祖先の時点で、すでに潜在的にはかなりの程度備わっていた可能性もあると思います(関連記事)。
ただ、現代人の体格の性差がチンパンジーとテナガザルの中間であることから、人類社会には一夫一妻傾向があるとはいっても、それが徹底されているわけではない、ということも以前からよく指摘されていたように思います。現代人系統は、強制された平等主義に基づいて一夫一妻傾向が見られるものの、それと反するような生得的性質も有しており、一夫多妻や乱交的な社会への志向も見られ、それが本書の指摘する、乱交社会に適しているとも解釈できるような、現代人の生殖器官や性行動の選択圧になったのではないか、と思います。
本書を読む契機となったのは、当ブログにおいて、本書が唯物史観的な人類社会集団婚説や母系制説を主張している、と指摘を受けたからでした(関連記事)。しかし、「乱婚」には「行き当たりばったり」の性交という意味合いは一切なく、選好が行なわれている、と定義する本書の見解は、人類の「原始社会」を親子きょうだいの区別なく乱婚状態だったと想定する、唯物史観的な「原始乱婚説」とは似て非なるものだと思います。じっさい、霊長類の広範な系統において近親婚を避ける仕組みが備わっている、と明らかになった現在の水準では、唯物史観的な原始乱婚説はとてもそのまま通用するものではありません。本書の意図は、人類社会における一夫一妻を基調とする通説には問題があり、今では捨てられてしまった唯物史観的な原始乱婚説にも改めて採るべきところがある、といったものだと思います。
また、農耕開始前の現代人系統社会における女性の地位の高さを強調する本書からすると、唯物史観的な原始社会母系説も採るべきところがある、ということなのかもしれません。しかし本書は、母権的と解釈できそうな現代人社会(この解釈の是非については、本書の信頼性からしてとても直ちに肯定できませんが)の存在を指摘し、現代人系統社会がかつて母権的だったことを示唆しているものの、はっきりと母系制だと主張しているわけではないように思います。上述したように、本書は現代人とボノボとの類似性を強調し、ボノボにおいて母親と息子との関係がずっと密接で、母親の地位が息子に継承される、と指摘しています。しかし、本書では言及されていませんが、ボノボは母系制社会ではなく(現代人を除く現生類人猿系統はすべて同様ですが)、その地位が母系を通じてずっと継承されるわけではありません。
何よりも、現代人の直接の祖先ではなさそうで、お互いに祖先-子孫関係ではなさそうな、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)およびパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)とネアンデルタール人について、前者は男性よりも女性の方が移動範囲は広く(関連記事)、後者は夫居制的婚姻行動の可能性が指摘されていることから(関連記事)、人類系統の社会は他の現生類人猿系統と同様にずっと父系的だった、と考えるのが節約的だと思います。現代人に見られる、父系的とは限らない多様な社会は、高度な認知能力に基づく現生人類の柔軟な行動を示している、ということだと思います。もっとも、上述したように、ネアンデルタール人系統にも、こうした柔軟性は潜在的にはかなりの程度備わっていた可能性も考えられます。
率直に言って、本書を読んで疑問と不信感が強くなる一方だったのですが、改めて調べたり情報を整理したりする機会になりましたし、著者二人が博学であることは間違いないので、勉強になりました。ただ、最初から本書の批判本を読むだけでよかったのではないか、と後悔もしています。年末年始の貴重な時間のかなりの部分を本書に割いてしまいましたが、かなりの本数になってしまった録画番組の視聴を優先すべきだったかな、とも思います。とはいえ、録画番組を視聴するよりは、本書を読んだ方がずっと勉強になるでしょうから、深く後悔しているわけではありませんが。
参考文献:
Ryan C, and Jetha C.著(2017)、山本規雄訳『性の進化論 女性のオルガスムは、なぜ霊長類にだけ発達したか?』第4刷(作品社、第1刷の刊行は2014年、原書の刊行は2010年)
追記(2019年12月3日)
本書の感想記事を1本の記事にまとめました。
●まとめ
本書は冒頭において、「人類のセクシュアリティの本質」が、類人猿と共通の祖先に由来することを論証する、と目的を明かしています(P16)。現代人のセクシュアリティが祖先に由来するものであることは確かですが、率直に言って、その「本質」が乱婚社会だという論証に本書は失敗していると思います。上述したように、本書の論理構造にしたがえば、現代人系統のセクシュアリティの「本質」が乱婚社会にあるとしても、それはチンパンジー属系統とは独立して獲得されたことになるからです。ただ、現代人系統が乱婚社会を経験した、という可能性自体は、上述したように、霊長類系統、とくに類人猿系統の繁殖行動は柔軟で、その社会構造も比較的短期間に変わり得るものと考えるのが妥当でしょうから、じゅうぶん検証に値すると思います。しかし、上述したように、それを直接検証することは不可能ですから、どれだけ関連する証拠(関連度合いの強弱の判断も議論となってくるわけですが)を提示でき、各証拠を統合した整合的で説得力のある先史時代人類社会像を提示できるのかが、重要となります。
その意味で、現代人系統が乱婚社会を経験し、それは農耕開始まで続いた現代人の「セクシュアリティの本質」なのだ、という本書の主張は、他の可能性よりもずっと説得力に欠け、とても最有力説たり得ない、と私は考えています。本書は多数の根拠を挙げていますが、上述したように、それは乱婚社会説と決定的に矛盾するものではない、というだけで、その多くは通説とも決定的に矛盾するものではない、と思います。何よりも、上述したモソ族社会の事例もそうですが、本書が自説の根拠とする事例の解釈のいくつかには疑問も残ります。専門家であれば、私よりもはるかに多く、不備を的確に指摘できるでしょう。
じっさい、訳者あとがきでは、本書を痛烈に批判した本が刊行されている、と紹介されています。その批判本は、本書の原題『Sex at Dawn: How We Mate, Why We Stray, and What It Means for Modern Relationships』をもじった、『Sex at Dusk: Lifting the Shiny Wrapping from Sex at Dawn』と題されています。訳者あとがきでは、本書がAmazonで高い評価を受けている一方、批判本のインターネット上での評価は高くない、と指摘されています。確かにAmazonでは、批判本の評価は本書よりも低くなっています。しかし、ざっと読んだ限りですが、批判本に対する評価の高い書評は、批判本にたいしておおむね肯定的であるように思います。この批判本もいつかは読まねばならない、とは思うのですが、怠惰なので結局読まずに終わりそうです。ともかく、徹底的な批判本が刊行され、一定以上の評価であることからも、本書の見解は基本的に疑ってかかるのが妥当だろう、と思います。では、本書の見解よりも妥当な見解は何なのかとなると、私の現時点での知見・能力では的確に答えられないのですが、やはり、本書が批判する通説の方がより妥当なのではないか、と考えています。もっとも、私の見解は本書の想定する通説とはかなり異なるかもしれませんが、以下に簡略に述べていきます。
まず大前提となるのは、現生類人猿系統において、多様な社会を構築している現代人を除いて、すべて父系もしくは非母系社会を構築している、ということです。これは、現代人も含めて現生類人猿系統の最終共通祖先も父系もしくは非母系社会だった可能性が高いことを示唆します。次に、現生類人猿系統において発情徴候が明確なのはチンパンジー属(チンパンジーおよびボノボ)だけということが前提となります。現生類人猿系統の最終共通祖先から、テナガザル→オランウータン→ゴリラ→チンパンジーおよび現代人という順に系統が分岐していったことから、現代人とチンパンジー属の最終共通祖先も、発情徴候は明確ではなかった可能性が高そうです。また、上述したように、アウストラロピテクス属のみならず、初期ホモ属でも性的二形が顕著だったかもしれないことから、現代人系統とチンパンジー属の最終共通祖先も、200万~150万年前頃までの現代人系統も、性的二形が現生ゴリラ並だった可能性は低くありません。
つまり、チンパンジー属のセクシュアリティの重要な構成要素たる穏やかな性差(ゴリラより小さいとはいっても、現代人よりは大きいわけですが)も、明確な発情徴候も、人類系統と分岐した後に獲得された可能性が高い、というわけです。上述したように、かりに現代人系統が過去にチンパンジー属系統と類似した乱婚社会を経験したとしても、それは共通の祖先的特徴に由来するのではなく、両系統で独自に獲得された可能性が高いでしょう。もちろん、収斂進化は進化史においてきょくたんに珍しいわけではありませんが、もっと節約的な仮説が立てられるならば、そちらを採用すべきだと思います。
その仮説の前提となるのは、現生類人猿系統において、明確な発情徴候はチンパンジー属系統でのみ進化した可能性が高い、という推測です。現代人系統のセクシュアリティについて推測する場合、この違いは大きな意味を有すると思います。おそらく現代人系統は、マウンテンゴリラのような、親子・兄弟といった父系の血縁関係にある複数の雄が複数の雌と交尾相手を重複させずに共存する、家族に近い小規模な共同体から出発し、利他的傾向とコミュニケーション能力が強化されるような選択圧を受けた結果、一夫一妻傾向の家族を内包する大規模な共同体という、独特な社会を形成したのではないか、と思います(関連記事)。さらに現生人類系統において、象徴的思考能力など高度な認知能力を獲得したことで柔軟性が飛躍的に発展し、父系・単婚傾向に限定されない多様な社会を形成したのではないか、と推測しています。もっとも、柔軟性とも深く関わるだろうこの高度な認知能力は、現生人類系統とネアンデルタール人系統の最終共通祖先の時点で、すでに潜在的にはかなりの程度備わっていた可能性もあると思います(関連記事)。
ただ、現代人の体格の性差がチンパンジーとテナガザルの中間であることから、人類社会には一夫一妻傾向があるとはいっても、それが徹底されているわけではない、ということも以前からよく指摘されていたように思います。現代人系統は、強制された平等主義に基づいて一夫一妻傾向が見られるものの、それと反するような生得的性質も有しており、一夫多妻や乱交的な社会への志向も見られ、それが本書の指摘する、乱交社会に適しているとも解釈できるような、現代人の生殖器官や性行動の選択圧になったのではないか、と思います。
本書を読む契機となったのは、当ブログにおいて、本書が唯物史観的な人類社会集団婚説や母系制説を主張している、と指摘を受けたからでした(関連記事)。しかし、「乱婚」には「行き当たりばったり」の性交という意味合いは一切なく、選好が行なわれている、と定義する本書の見解は、人類の「原始社会」を親子きょうだいの区別なく乱婚状態だったと想定する、唯物史観的な「原始乱婚説」とは似て非なるものだと思います。じっさい、霊長類の広範な系統において近親婚を避ける仕組みが備わっている、と明らかになった現在の水準では、唯物史観的な原始乱婚説はとてもそのまま通用するものではありません。本書の意図は、人類社会における一夫一妻を基調とする通説には問題があり、今では捨てられてしまった唯物史観的な原始乱婚説にも改めて採るべきところがある、といったものだと思います。
また、農耕開始前の現代人系統社会における女性の地位の高さを強調する本書からすると、唯物史観的な原始社会母系説も採るべきところがある、ということなのかもしれません。しかし本書は、母権的と解釈できそうな現代人社会(この解釈の是非については、本書の信頼性からしてとても直ちに肯定できませんが)の存在を指摘し、現代人系統社会がかつて母権的だったことを示唆しているものの、はっきりと母系制だと主張しているわけではないように思います。上述したように、本書は現代人とボノボとの類似性を強調し、ボノボにおいて母親と息子との関係がずっと密接で、母親の地位が息子に継承される、と指摘しています。しかし、本書では言及されていませんが、ボノボは母系制社会ではなく(現代人を除く現生類人猿系統はすべて同様ですが)、その地位が母系を通じてずっと継承されるわけではありません。
何よりも、現代人の直接の祖先ではなさそうで、お互いに祖先-子孫関係ではなさそうな、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)およびパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)とネアンデルタール人について、前者は男性よりも女性の方が移動範囲は広く(関連記事)、後者は夫居制的婚姻行動の可能性が指摘されていることから(関連記事)、人類系統の社会は他の現生類人猿系統と同様にずっと父系的だった、と考えるのが節約的だと思います。現代人に見られる、父系的とは限らない多様な社会は、高度な認知能力に基づく現生人類の柔軟な行動を示している、ということだと思います。もっとも、上述したように、ネアンデルタール人系統にも、こうした柔軟性は潜在的にはかなりの程度備わっていた可能性も考えられます。
率直に言って、本書を読んで疑問と不信感が強くなる一方だったのですが、改めて調べたり情報を整理したりする機会になりましたし、著者二人が博学であることは間違いないので、勉強になりました。ただ、最初から本書の批判本を読むだけでよかったのではないか、と後悔もしています。年末年始の貴重な時間のかなりの部分を本書に割いてしまいましたが、かなりの本数になってしまった録画番組の視聴を優先すべきだったかな、とも思います。とはいえ、録画番組を視聴するよりは、本書を読んだ方がずっと勉強になるでしょうから、深く後悔しているわけではありませんが。
参考文献:
Ryan C, and Jetha C.著(2017)、山本規雄訳『性の進化論 女性のオルガスムは、なぜ霊長類にだけ発達したか?』第4刷(作品社、第1刷の刊行は2014年、原書の刊行は2010年)
追記(2019年12月3日)
本書の感想記事を1本の記事にまとめました。
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