DNAの二重螺旋構造解明のワトソン氏が人種差別発言で名誉職剥奪
DNAの二重螺旋構造を解明したことで有名な、生きる伝説とも言えるワトソン(James Dewey Watson)氏が、人種差別的な発言を繰り返したとして、かつて自身が所長を務めていた、アメリカ合衆国のコールド・スプリング・ハーバー研究所(CSHL)の名誉職をはく奪された、と報道されました。ワトソン氏は、「白人と黒人の知能検査では、遺伝子に起因する知性の差が出る」と発言したそうです。報道にあるように、ワトソン氏のこうした発言は以前からのもので、とくに驚きませんでした。
ただ、任意に設定した2集団間に遺伝的構成の違いがあるのは当然なので、「黒人」と「白人」との間に「遺伝子に起因する知性の差」があったとしても不思議ではありません。問題となるのは、集団の設定・比較にどれだけ妥当性があるのか、知性はどう定義・測定され得るのか、ということです。まず、「黒人」と「白人」との対比自体が不適切です。遺伝的には、「黒人」はきわめて多様な集団なのにたいして、「白人」の遺伝的多様性は乏しく、いわば「黒人」の多様な系統のうちの1系統と比較的近い世代で祖先を共有しているにすぎないからです。「黄色人種」に関しても、「白人」と同様のことが当てはまります。「黒人」を「白人」と比較するのは、爬虫類と鳥類を対等な分類群として比較するようなものです。
次に、「知性」は表現型の一部であり、当然のことながら遺伝的基盤があります。したがって、任意に設定した複数集団間に「遺伝子に起因する知性の差」があるのは当然なのですが、表現型とは遺伝子と環境の相互作用により発現するものであり、環境要因をとても無視できない、ということです。さらに、「知性」の定義も問題となります。たとえば、対人関係や意思伝達に関わる能力と博物的知能とでは、共通する遺伝的基盤はもちろんあるでしょうが、異なるものも少なくない、と予想されます。「知性」も無数に設定し得るものであり(関連記事)、その測定にかなり恣意的な側面が入り込むのはとても否定できないでしょう。
何よりも、多くの表現型は集団間の差異よりも集団内の個体差の方がはるかに大きいので、「黒人」だから特定の分野で優秀とか劣っているとか判断できません。多くの表現型で重要なのは、集団間の差異よりも個体差の方です(能力・成績なども含めて特定の表現型に基づいて各集団を選抜するような事例は除外します)。その意味でも、特定の集団を一律にある別の集団よりも優れているとか劣っているとか断定することは大問題です。そもそも、「科学的知見」以前に、個人と人権の尊重といった近代の理念から言って、論外となるわけですが。
ただ、「人種」の生物学的定義は困難だとしても、通俗的観念ではしばしば「人種」と結びつけられるような地域集団間において、表現型に有意な差があることも否定してはならないでしょう。遺伝学の分野でも、ライク(David Reich)氏は著書にて、人類集団間において実質的な遺伝学的差異があるのに、「正統派的学説」の立場から、それを無視したり、研究を抑制したりするようなことが続けば、集団間の実質的な遺伝学的差異の確たる証拠を提示された時に右往左往して対処できなくなるし、また抑圧により生じた空白を似非科学が埋めることになり、かえって悪い結果を招来するだろう、と懸念を表明しています(関連記事)。私もライク氏の懸念に同意します。
これは性別についても同様で、男女には本質的な違いはないとか、性別を重視すること自体が社会的に構築されたものだとか、性別自体が生物学的に否定されているとかいった「社会正義の活動家」の主張には大いに疑問が残り、そうした主張を批判する生物学者のライト(Colin Wright)氏の見解に同意します(関連記事)。
ただ、任意に設定した2集団間に遺伝的構成の違いがあるのは当然なので、「黒人」と「白人」との間に「遺伝子に起因する知性の差」があったとしても不思議ではありません。問題となるのは、集団の設定・比較にどれだけ妥当性があるのか、知性はどう定義・測定され得るのか、ということです。まず、「黒人」と「白人」との対比自体が不適切です。遺伝的には、「黒人」はきわめて多様な集団なのにたいして、「白人」の遺伝的多様性は乏しく、いわば「黒人」の多様な系統のうちの1系統と比較的近い世代で祖先を共有しているにすぎないからです。「黄色人種」に関しても、「白人」と同様のことが当てはまります。「黒人」を「白人」と比較するのは、爬虫類と鳥類を対等な分類群として比較するようなものです。
次に、「知性」は表現型の一部であり、当然のことながら遺伝的基盤があります。したがって、任意に設定した複数集団間に「遺伝子に起因する知性の差」があるのは当然なのですが、表現型とは遺伝子と環境の相互作用により発現するものであり、環境要因をとても無視できない、ということです。さらに、「知性」の定義も問題となります。たとえば、対人関係や意思伝達に関わる能力と博物的知能とでは、共通する遺伝的基盤はもちろんあるでしょうが、異なるものも少なくない、と予想されます。「知性」も無数に設定し得るものであり(関連記事)、その測定にかなり恣意的な側面が入り込むのはとても否定できないでしょう。
何よりも、多くの表現型は集団間の差異よりも集団内の個体差の方がはるかに大きいので、「黒人」だから特定の分野で優秀とか劣っているとか判断できません。多くの表現型で重要なのは、集団間の差異よりも個体差の方です(能力・成績なども含めて特定の表現型に基づいて各集団を選抜するような事例は除外します)。その意味でも、特定の集団を一律にある別の集団よりも優れているとか劣っているとか断定することは大問題です。そもそも、「科学的知見」以前に、個人と人権の尊重といった近代の理念から言って、論外となるわけですが。
ただ、「人種」の生物学的定義は困難だとしても、通俗的観念ではしばしば「人種」と結びつけられるような地域集団間において、表現型に有意な差があることも否定してはならないでしょう。遺伝学の分野でも、ライク(David Reich)氏は著書にて、人類集団間において実質的な遺伝学的差異があるのに、「正統派的学説」の立場から、それを無視したり、研究を抑制したりするようなことが続けば、集団間の実質的な遺伝学的差異の確たる証拠を提示された時に右往左往して対処できなくなるし、また抑圧により生じた空白を似非科学が埋めることになり、かえって悪い結果を招来するだろう、と懸念を表明しています(関連記事)。私もライク氏の懸念に同意します。
これは性別についても同様で、男女には本質的な違いはないとか、性別を重視すること自体が社会的に構築されたものだとか、性別自体が生物学的に否定されているとかいった「社会正義の活動家」の主張には大いに疑問が残り、そうした主張を批判する生物学者のライト(Colin Wright)氏の見解に同意します(関連記事)。
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