義江明子『つくられた卑弥呼 <女>の創出と国家』第2刷

 ちくま学芸文庫の一冊として、筑摩書房より2018年8月に刊行されました。第1刷の刊行は2014年7月です。本書の親本は、ちくま新書の一冊として2005年4月に筑摩書房より刊行されました。本書は女性史の観点から日本古代史を見直しており、この分野に関して勉強不足ということもあり、得たものが多く、私にとってたいへん有益な一冊となりました。当ブログでも以前本書と関連する記事を掲載しましたが、本書を読んでから執筆すべきだったな、と反省しています。

 本書は、『三国志』に見える卑弥呼、『日本書紀』や『古事記』や『風土記』に見える女性首長、さらには推古から称徳までの古代の「女帝」などが、近代日本の君主像を多分に投影したものであることを指摘します。こうした古代の女性首長・君主の存在は、古墳時代の被葬者に女性首長が多かったことからも確実ですが(関連記事)、巫女的役割を担っていた、と強調されます。つまり、基本的には祭祀に特化し、それを支える男性が政治・軍事を担った、というわけです。『三国志』に見える卑弥呼はその典型とされ、古代の「女帝」や、伝説的な神功「皇后」などもそうした文脈で位置づけられました。

 しかし本書は、古代において女性首長・君主がおもに祭祀のみを担当し、政治・軍事に関わらなかった、との有力説の根拠は弱い、と指摘します。卑弥呼は、「男弟」に「佐治」されたとあり、卑弥呼がおもに祭祀を担当し、男性である「弟」が政治・軍事を担当した有力な根拠とされてきました。この卑弥呼像が、古代の女性首長・君主像にも適用されています。しかし、稲荷山古墳鉄剣銘に見える「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」も、「乎獲居(ヲワケ)臣」に「佐治」されたとあります。通説では獲加多支鹵大王と倭王武と『日本書紀』に見える雄略「天皇」は同一人物とされます。倭王武は、自身とその祖先は自ら軍事行動により征服地を拡大していった武人的人物である、と宋に訴えています。これが史実か否かはともかく、自身と代々の倭王をそのように宋へと印象づけたかったことは間違いなく、これもまたし当時の倭王の社会像の一種と言えるでしょう。本書は、獲加多支鹵大王に関しては、「佐治」とあっても乎獲居臣が政治・軍事の実権を握っていた、との解釈は提起されないのに、卑弥呼に関しては「男弟」が政治・軍事の実権を握っていた、と解釈されるのは、近代以降の研究者の常識が反映されているからだ、と指摘します。また本書は、そもそも『日本書紀』においても、神功「皇后」が軍事的指導者として新羅を制圧したことが明記されている、と指摘します。

 本書は、律令制確立以前の日本において女性指導者と男性指導者の担った役割に大きな違いがなかったことの背景として、男女の違いがそれ以降よりも小さかったことを指摘しています。集会(会同)に男女が共に参加したことや、多夫多妻的傾向にあったことです。本書は、女性には一夫が常識だった「中国」知識層にとって、多夫多妻的傾向の古代日本社会はよく理解できないものであり、『三国志』では古代日本が一夫多妻であるかのように描写された、と推測します。また本書は、古代日本においては名前も男女で明確に区別されていたわけではなく、『日本書紀』などに見える、これまで男性と考えられてきた名前の人物の中に、女性もいたかもしれない、と指摘します。このような習慣が大きく変わる契機となったのは、律令制の確立により、男系的な「中国」の習慣が本格的に取り入れられるようになってからでした。名前に関して興味深いのは、最初の遣隋使の時の倭王の名(字)が「多利思北(比)孤」であるからといって、男性を意味するとは限らない、との本書の指摘です。「多利思北(比)孤」は男性なので、『日本書紀』の推古朝の記述には疑問があり、推古「天皇」は実在しなかったかもしれない、などといった言説は根本的に見直されるべきでしょう。

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