社会正義の活動家たちによるカトリック教会的でポストモダン的な反進化学

 社会正義の活動家たちによる進化学への攻撃を批判した記事が公開されました。執筆者は、昆虫の行動を研究している生物学者のライト(Colin Wright)氏で、検索してみたところ、クモの社会行動に関する論文を発見しました。この記事では、「社会正義の活動家たち(social justice activists)」と表記されていますが、「社会正義の戦士たち(Social Justice Warriors)」とほぼ同じ意味合いなのかな、と思います。まあ、私はこうした議論に詳しいわけではないので、的外れかもしれませんが。以下、この記事の内容をざっとまとめてみました。


 1990年代と2000年代には、公立学校での進化教育の禁止、またはインテリジェント・デザイン(ID)説を含む「論争」を教えるような福音主義者の試みが繰り返されました。ID説とは、生命はあまりにも複雑なので、何らかの「知的計画(インテリジェント・デザイン)」、たとえば神の助けなしには進化しなかった、というものです。しかし、ID説は、聖書創造説にすぎないと指摘されて以降、勢いと影響力を失いました(とライト氏は指摘しますが、私はこの問題に詳しくないので、ライト氏の認識が妥当なのか、自信はありません)。

 しかし、(宗教)右派的な反進化学は衰退しましたが、左派による進化学否定論はゆっくりと成長しつつあります。左派の反進化学は最初に、おもに進化心理学の分野で出現しました。動物の行動を進化学的に解明してきた知見を人間に適用し始めると、左派の信念は脅かされるようになりました。人間の行動学的性差への進化的説明に最も熱心に反対する集団は、社会正義の活動家たちです。社会正義の活動家たちによる人間の行動に関する進化的説明は、人間の男女の脳の始まりは同じで、すべての行動や性別と関連するものは、完全に社会化の違いの結果だとする、人間の心は「空白の石版」だとする説に基づいています。「空白の石版」説に否定的な進化心理学は、社会正義の活動家たちの標的となりました。

 「空白の石版」説は、性別と関連した行動の違いを進化的に説明することは生物学的本質主義だ、との信念により維持されています。しかし、「空白の石版」説は、人間には性別と関連した個性の違いがある、という証拠が圧倒的に強力なため、専門家により却下されています。ただ、専門家たちは、進化心理学的知見は生物学的本質主義ではなく、環境も役割を果たし、観察された性差は単に平均であって性別間での重なりがある、と指摘します。性別が個性を決定するわけではなく、それは身長も同様です。男性は平均して女性よりも身長が高いものの、多くの男性よりも身長の高い女性もおり、それは行動特性も同様です。ほぼすべての種において、性別と関連した個性の違いは顕著です。それは人間や人間も含まれる霊長類全般でも同様で、さらに哺乳類では一般的に、攻撃性などで性差は顕著です。人間の行動の違いが純粋に社会化によって生じるという主張は、いくらよく見たとしても疑わしいと言うべきでしょう。

 人間の進化に対する社会正義的立場は、カトリック教会のそれとよく似ています。カトリック教会における進化学への見方は、全生物への進化は受容するものの、人間の魂は特別に創造され、進化的先駆者はいない、というものです。同様に、社会正義的見解では、性別間の身体と精神の形成への進化的説明を問題視しませんが、観察される性と関連した行動の違いの形成に進化は何の役割も果たしてこなかった、という点で人間は特別だ、と力説します。生命のすべてを形成する生物学的力学が人間へはなぜ特別に保留されるのか、不明です。明確なのは、カトリック教会と善意の社会正義の活動家たちが、人間を特別なものとし、進化生物学を自分勝手に解釈していることです。

 「空白の石版」説を支持する証拠はまったくなく、反対の証拠は多数あるにも関わらず、この信念は多くの大学の人文系学部において、しばしば事実として定着しています。これは科学者に自己検閲を強いることになりました。ライト氏は志を同じくする同僚たちから私的に、ソーシャルメディアでの社会正義の活動家たちとの確執は職業上の自殺になり得るので、直ちにコメントを止めて削除すべきだ、と警告されました。ライト氏のような経験はますます深刻化しています。最近では、社会正義の活動家たちは、生物学的性のあらゆる概念もまた社会的構築物だ、と主張するようになっています。

 ライト氏はこの主張を、人類学の大学院生のFacebookで初めて見ました。ライト氏は当初、これは性別(sex)をジェンダーと間違えたのだと考えていましたが、やがて、生物学的性(sex)のことだと確信しました。さらに、この見解は個人またはごく少数の特異なものではないことも明らかになりました。さらに最近では、ネイチャー誌の論説で、人々の性を解剖学または遺伝学で分類することは放棄すべきで、研究者や医学界は性を男女よりもっと複雑なものとして見ている、と主張されています。生物学的性が現実だと認識することで、トランスジェンダーのような人々にたいする差別を減らす努力を蝕んでいる、というわけです。

 しかし、多くの生物において性の流動性への証拠があり、人間だけの事例ではありません。人間において性が曖昧な事例は稀に存在しますが、それは人間の性が機能的に二元的であるという現実を否定しません。これらの生物学的性は社会的構築物との論説は、政治的動機による科学的詭弁の一形態にすぎません。確かに、生物学的性は社会的構築物との言説が指摘するように、中間的な性は存在しますし、遺伝子やホルモンや複雑な発達過程が関わっています。しかし、だからといって、性がじっさいには何なのか、科学者たちでも理解できない、との言説は欺瞞的です。手の形成過程も複雑ですが、人間の大半は5本の指になります。何よりも、これらの言説は、人間の性的発達の最終結果の99.98%以上は明らかに男女だ、ということを無視しています。性は過度に単純化されている、との指摘は誤解を招くものですし、中間的な性は、性別が曖昧で、なおかつ(または)性的な遺伝子型と表現型が一致していない、ということであり、第三の性ではありません。さらに、性は連続体との主張も誤解を招きます。連続体とは連続的分布を意味するからです。人々を形態や遺伝子に基づいて性別に分類することに偏りがあるわけではありません。

 こうした人間における生物学的性別の疑いのない現実にも関わらず、社会正義の活動家たちは、自分たちの信念を主張し続けて、批判された時に怒ります。大規模なソーシャルメディアであるTwitterでは、今や基礎的な人間の生物学についての真実を述べることを積極的に禁止しています。もし、ライト氏のような生物学者を活動家たちが標的にしたら、研究と職を失う可能性もあります。そのため生物学者たちは、社会正義の活動家たちの主張を批判するさいも、ほぼ私的な関係の中ですませます。

 聖書創造説やID説が進化学を攻撃していた時、科学者たちはそれらを批判するさいに圧力を受けませんでした。これは、反進化学運動がほぼ、学界で権力を有さない右派の福音主義者によるものだったからです。しかし、左派の反進化学論者は学界で権力を有しているので、無視は困難です。社会正義の活動家たちは、進化学によりもたらされた科学的真理を廃棄し、相対主義的なポストモダンの戯言に置換しようとしています。今や、学究的な科学者として口を閉ざすか、満たされた知識人として生きるしかなく、その両方を満たす生き方はできません。


 以上、ざっと記事の内容を見てきました。男女には本質的な違いはないとか、性別を重視すること自体が社会的に構築されたものだとか、性別自体が生物学的に否定されているとかいった言説に私は以前から批判的だったので(関連記事)、ライト氏の見解には全面的に同意します。ただ、「社会正義の活動家たち」による、進化心理学者をはじめとして生物学者への攻撃に関するライト氏の認識については、門外漢なので確信というか実感を持てません。とくに、Twitterが生物学的知見に関する発言を積極的に禁止しようとしてる認識は、やや疑問の残るところです。まあ、日本と英語圏では違うのかもしれませんが。しかし、日本語と英語に限定されますし、多くの情報を得てきたわけではありませんが、ライト氏の認識に関して、被害者意識が強すぎるとは思いませんでした。もちろん、「右派」による学術や言論への攻撃にも強く注意すべきですが、「左派」や「リベラル」と称する勢力による攻撃もまた、大いに警戒すべきなのだと思います。まあこんなことを言うのは、私が(おそらく少なからぬ人々から見れば)「ネトウヨ」そのものだからだ(関連記事)、と糾弾されそうですが。

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