坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』

 中公新書の一冊として、中央公論新社から2018年12月に刊行されました。本書は承久の乱を長い歴史の中に位置づけており、その前提となった政治体制について、院政の成立にまでさかのぼって解説しています。承久の乱の意義を解説するには、単にその経過と結果を叙述するのではなく、もっと時空間的に広範な把握を前提としなければならないわけで、本書はその点を強く意識しつつ、一般向けであることからできるだけ平易な解説に努めよう、との意識も窺えます。本書の特徴は、和歌を中心に文化面からも、承久の乱に関わっている重要人物の思惑や立場を解説していることで、これは一般向けとしてなかなかよい試みではないか、と思います。

 本書が提示する承久の乱の大まかな枠組みは、朝廷と鎌倉幕府は、治天の君である後鳥羽院と第三代将軍である源実朝との個人的つながりもあって協調関係を築いていたものの、実朝殺害事件により状況が劇的に変わり、後鳥羽は幕府を統制すべくその最大の実力者である北条義時の追討を決意した、というものです。後鳥羽院は「倒幕(討幕)」を目指したのではなく、あくまでも幕府を統制しようとして、そのために邪魔となる北条義時を排除しようとした、というわけです。

 実朝は自分には子供ができないと認識しており、後鳥羽院の皇子を将軍に迎えたいという幕府首脳部の申し出を、後鳥羽院も認めていました。実朝殺害後に後鳥羽院の方針が皇子を幕府将軍とする構想の否定に変わったのは、後鳥羽院が実朝を守れなかった幕府に不信感を抱いたからではないか、と本書は推測しています。後鳥羽院は、実朝亡き後の幕府の対応から、もはや北条義時が実質的な最高権力者である幕府を自分が統制することは困難だと判断し、さらに、源頼茂を討伐したさいの在京武士の動向から、勝算ありと考えて北条義時追討を命じた、と本書は推測します。

 しかし結果的に、激戦もあったとはいえ、巨大勢力同士の戦いにしては、朝廷側はあっけなく敗北しました。そのため通俗的見解では、後鳥羽院が自身の権威を過信して杜撰な計画を立てていた、とも言われるのですが、本書は、後鳥羽院の計画は幕府内部の対立も考慮に入れた用意周到で妥当なものであり、楽観的とは言えない、と指摘します。では、なぜ幕府方が圧勝したのか、という問題になるわけですが、まず、幕府首脳部が情報統制および北条義時追討を倒幕(討幕)と読み替えることに成功したことが挙げられています。次に、幕府首脳部が待機策ではなく即時出撃策を採用したことが挙げられています。時間が経過すれば、東国でも幕府から離反する武士が出てくる可能性を、幕府首脳部も懸念していました。また、幕府方では要人が適材適所で自分の役割を果たしたのにたいして、朝廷では後鳥羽院すべてを担う専制的役割を担っていたことや、後鳥羽院が武士の現実をよく理解できていなかったことも指摘されています。

 承久の乱は、朝廷と幕府との力関係に劇的な変化をもたらしました。乱後は、皇位継承に幕府の意向が強く反映されるようになり、また幕府の影響力が西国にも強く浸透するようになります。本書は、保元の乱で「武者の世」が始まり、鎌倉幕府の成立は画期だったものの、本書の副題にあるように真の「武者の世」になった契機は承久の乱で、これ以降大政奉還まで、建武年間の一時期を除き、武家が公家にたいして優位に立つ構造が確立した、と指摘します。また、後鳥羽院が倒幕を目指したとの歴史認識が、後醍醐帝による倒幕の成功により定着していった、との見解も興味深いと思います。本書で参考文献に挙げられている関幸彦『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』(関連記事)と合わせて読むと、承久の乱への理解がいっそう深まるのではないか、と思います。

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