新元号の公表時期をめぐる自民党保守派議員の奮闘に期待
来年(2019年)5月1日に現在の皇太子が天皇となり、元号も平成から変更となるわけですが、次の元号の公表時期をめぐって与党内でも意見が一致していないことは、たびたび報道されていました。国民生活の混乱を避けるため、できるだけ早く公表しようという意見は以前から強く主張されていましたが(おそらくそれは今上天皇の意思でもあるのでしょうが)、自民党保守派議員は、事前公表に反対したり、新天皇による来年5月1日の政令公布を求めたりしていました。
政府は両方の意見に配慮してというか、板挟みのなかで、来年4月初めの公表を予定している、と朝日新聞で報道されました。一方、読売新聞では、4月中旬を軸に新元号の公表が検討されている、と報道されています。どちらかの報道が間違っているというよりも、まだ政府内部でも合意が形成されておらず、複数の政府関係者から異なる意見が報道機関に伝えられている、ということなのでしょう。また、そのように報道機関を通じて反応を窺う、という目的も政府関係者にはあるのだと思います。
自民党保守派議員が、前例のない新元号の事前公表に反対していることは以前から報道されていましたが、もっと大々的に各報道機関で訴えて、広く国民にその意見を知らせてもらいたいものです。そうすることにより、国民の間で元号使用への忌避感がさらに高まって、やがては西暦使用へと一本化されていくのではないか、と私は期待しているからです。度々変更される(現在では一世一元なので、天皇の代替わりごと)元号の不便性は明らかで、私は昔から、西暦に統一してもらいたいと考えていましたし、じっさいに自分はできるだけ西暦を使うようにしています。
ただ、現実問題として、元号は天皇制と密接に関わっており、天皇制の廃止とまではいかず、元号だけの廃止でもかなりの反発があるだろう、と容易に予想されます。その意味で、元号の廃止は「現実的」ではないかもしれませんが、公文書は原則として西暦とし、私文書も西暦の使用が推進されて定着し、元号は公的には使われ続けるものの、実使用としては現在の六曜程度の頻度・重要性となるのが、私にとっては理想的です。まあこれも、まだとても「現実的」とは言えないかもしれませんが。
もっとも、各省庁のシステム連携を西暦で統一していくよう、すでに政府は指示しており(関連記事)、西暦への統一の流れはもう止められないようにも思います。しかし、自民党保守派議員が奮闘すれば、その流れが促進されるかもしれないので、その意味で新元号の公表時期に関する自民党保守派議員の奮闘には大いに期待しています。なお、「保守派」が天皇の意向に反するのは矛盾している、との揶揄・批判もあるでしょうが、近代日本の「保守派」にとって、時として天皇個人の言動を批判するのは「正統的行為」だと思います(関連記事)。
ただ、私は日本国内における西暦への統一には賛成なのですが、現在の西暦とはグレゴリオ暦のことであり、正直なところ、子供の頃からキリスト教への根強い反感を抱き続けてきた私にとって、西暦を使うのはたいへん不愉快です。ただ、利便性・通用性を考えると、事実上西暦を使うしかないかな、と諦めています。また、最近では、現代日本社会にとって、もはや保守すべきものは「西洋近代」であり、元号は保守に値するものではない、との考えからも元号の使用にいっそう否定的になりました。
なお、西暦(グレゴリオ暦)に関しては、AD(Anno Domini)ではなくCE(Common Era)、BC(Before Christ)ではなくBCE(Before Common Era)と表記することが、近年では英語論文でも増えてきたように思えます。しかし、そのように言い換えたところで、しょせんキリスト教起源であることは否定できません。むしろ、クリスチャンの少ない日本社会で生まれ育ってきて、キリスト教を信仰したことがまったくなく、上述したように、それどころか子供の頃からキリスト教への根強い反感を抱き続けてきた私には、「Common」と言い換えること自体がたいへん傲慢であるように思えます。私が英語で表記する場合は、今後もADとBCを使い続けるつもりです。
政府は両方の意見に配慮してというか、板挟みのなかで、来年4月初めの公表を予定している、と朝日新聞で報道されました。一方、読売新聞では、4月中旬を軸に新元号の公表が検討されている、と報道されています。どちらかの報道が間違っているというよりも、まだ政府内部でも合意が形成されておらず、複数の政府関係者から異なる意見が報道機関に伝えられている、ということなのでしょう。また、そのように報道機関を通じて反応を窺う、という目的も政府関係者にはあるのだと思います。
自民党保守派議員が、前例のない新元号の事前公表に反対していることは以前から報道されていましたが、もっと大々的に各報道機関で訴えて、広く国民にその意見を知らせてもらいたいものです。そうすることにより、国民の間で元号使用への忌避感がさらに高まって、やがては西暦使用へと一本化されていくのではないか、と私は期待しているからです。度々変更される(現在では一世一元なので、天皇の代替わりごと)元号の不便性は明らかで、私は昔から、西暦に統一してもらいたいと考えていましたし、じっさいに自分はできるだけ西暦を使うようにしています。
ただ、現実問題として、元号は天皇制と密接に関わっており、天皇制の廃止とまではいかず、元号だけの廃止でもかなりの反発があるだろう、と容易に予想されます。その意味で、元号の廃止は「現実的」ではないかもしれませんが、公文書は原則として西暦とし、私文書も西暦の使用が推進されて定着し、元号は公的には使われ続けるものの、実使用としては現在の六曜程度の頻度・重要性となるのが、私にとっては理想的です。まあこれも、まだとても「現実的」とは言えないかもしれませんが。
もっとも、各省庁のシステム連携を西暦で統一していくよう、すでに政府は指示しており(関連記事)、西暦への統一の流れはもう止められないようにも思います。しかし、自民党保守派議員が奮闘すれば、その流れが促進されるかもしれないので、その意味で新元号の公表時期に関する自民党保守派議員の奮闘には大いに期待しています。なお、「保守派」が天皇の意向に反するのは矛盾している、との揶揄・批判もあるでしょうが、近代日本の「保守派」にとって、時として天皇個人の言動を批判するのは「正統的行為」だと思います(関連記事)。
ただ、私は日本国内における西暦への統一には賛成なのですが、現在の西暦とはグレゴリオ暦のことであり、正直なところ、子供の頃からキリスト教への根強い反感を抱き続けてきた私にとって、西暦を使うのはたいへん不愉快です。ただ、利便性・通用性を考えると、事実上西暦を使うしかないかな、と諦めています。また、最近では、現代日本社会にとって、もはや保守すべきものは「西洋近代」であり、元号は保守に値するものではない、との考えからも元号の使用にいっそう否定的になりました。
なお、西暦(グレゴリオ暦)に関しては、AD(Anno Domini)ではなくCE(Common Era)、BC(Before Christ)ではなくBCE(Before Common Era)と表記することが、近年では英語論文でも増えてきたように思えます。しかし、そのように言い換えたところで、しょせんキリスト教起源であることは否定できません。むしろ、クリスチャンの少ない日本社会で生まれ育ってきて、キリスト教を信仰したことがまったくなく、上述したように、それどころか子供の頃からキリスト教への根強い反感を抱き続けてきた私には、「Common」と言い換えること自体がたいへん傲慢であるように思えます。私が英語で表記する場合は、今後もADとBCを使い続けるつもりです。
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