増淵竜夫『歴史家の同時代史的考察について』
岩波書店より1983年12月に刊行されました。本書を古書店で購入したのはかなり前だったと記憶していますが、その後ずっと放置してしまいました。本棚を整理していて本書が目についたので、読んでみようと思い立った次第です。本書はひじょうに濃密なのですが、精読して詳しく備忘録的に取り上げるだけの気力も見識も今はないので、とりあえず本書の内容を大まかにまとめておきます。当然たいへん不充分なまとめになってしまったので、いつか再読しようと考えています。本書は第二部で歴史認識や歴史学の方法論も取り上げていますが、主題は第一部の津田左右吉と内藤湖南の中国にたいする同時代史的考察の論理構造の解明だと思います。津田と内藤の中国史認識、さらには中国との関連性における日本史認識は大きく異なります。
津田は、普遍的である近代西洋を基準とし、近代日本がそれを受け入れて生活に定着したとの認識を前提として、思想も含む中国文化の日本への影響を論じました。津田は、前近代において日本における中国文化の影響は皮層的で、真に根づいたものではなかった、と主張します。前近代日本の文化には、儒教道徳では律しきれない生活感情などの民族的個性があり、皮相な中国文化の影響と強固な民族的個性を前提として、近代日本は普遍的な近代西洋を受容して定着させていった、というわけです。津田は、西洋近代を普遍的な大前提とし、中国がいかにそれと異なる特殊な文化・歴史を有するか、という観点から中国史研究を進めました。それはまた、近代西洋を受容した日本が中国といかに異なるか、と強調するものとなりました。こうした津田の姿勢の背景には近代日本の主流的な思潮がある、と言えそうです。それは、中国史を外在的基準で判断し、突き放すような認識でした。津田は、中国史は王朝の歴史の繰り返しで停滞していた、と論じました。
一方、内藤の中国史理解および中国と関連する日本史認識は、津田とは大きく異なります。内藤の中国史理解は内面的なもので、中国史における文化の発達・変容を認め、近代中国の動向も、異質な外来要素たる近代西洋の影響を一方的に受けて大きく変容していく、というものではなく、中国史の展開の延長線上に位置づけました。さらに内藤は、日本文化の発達も中国文化の延長線上にあり、日本文化の起源を知るにはまず中国文化を知らねばならない、と主張しました。本書は、こうした内藤の中国史認識は中国を内面的に理解しようとする姿勢に由来する、と指摘します。
このように中国文化を高く評価した内藤ですが、近代日本の中国「進出」を積極的に主張し、その強力な「妨害者」となるだろうロシアにたいしては強硬派で、日露開戦を強く主張しました。では、中国文化への高い評価と、近代日本における現実の中国への侵略を強く主張する言説とは、内藤の中でいかに整合性がとられていたのでしょうか。本書はその理由として、内藤の内面的な中国史理解の基礎がダイチン・グルン(大清帝国)治下の士大夫層の学問にあったからだ、と指摘します。雍正帝の治世における『大義覚迷録』に代表されるように、中国文化を身に着けたものこそが中国(華)であり、かつては中国(華)であってもその文化を失えば中国ではなくなる、という論理です。この論理によれば、中国文化の延長線上に開花した日本が、西洋近代という東洋にとって異質な要素も摂取し、中国へ「進出」して東西文化の融合を進めるのは「天職」となるわけです。
内藤は津田と違って中国を内面的に理解しましたが、その基盤が大清帝国の士大夫層の学問にあったことは、内藤の同時代の中国考察の限界にもなった、と本書は指摘します。もちろん、後知恵・結果論で昔の見解・評論を批判するのは安易ですが、内藤の中国史理解の基盤に起因する限界を指摘する本書の見解は、今でも有益だと思います。内藤は、大清帝国の立憲制まではその内面的な中国史理解から情勢を読み解けていたものの、その後の民族主義的な動向については、的確な予測がほとんどできませんでした。本書はこれを、内藤個人の問題ではなく、近代日本全体の問題と認識しています。大日本帝国の崩壊は対中国政策の失敗が最大の要因になったのではないか、と私は考えていますので、本書の指摘する近代日本における対中認識の問題には基本的に同意します。この問題の優先順位はさほど高くないのですが、今後も少しずつ調べていくつもりです。
津田は、普遍的である近代西洋を基準とし、近代日本がそれを受け入れて生活に定着したとの認識を前提として、思想も含む中国文化の日本への影響を論じました。津田は、前近代において日本における中国文化の影響は皮層的で、真に根づいたものではなかった、と主張します。前近代日本の文化には、儒教道徳では律しきれない生活感情などの民族的個性があり、皮相な中国文化の影響と強固な民族的個性を前提として、近代日本は普遍的な近代西洋を受容して定着させていった、というわけです。津田は、西洋近代を普遍的な大前提とし、中国がいかにそれと異なる特殊な文化・歴史を有するか、という観点から中国史研究を進めました。それはまた、近代西洋を受容した日本が中国といかに異なるか、と強調するものとなりました。こうした津田の姿勢の背景には近代日本の主流的な思潮がある、と言えそうです。それは、中国史を外在的基準で判断し、突き放すような認識でした。津田は、中国史は王朝の歴史の繰り返しで停滞していた、と論じました。
一方、内藤の中国史理解および中国と関連する日本史認識は、津田とは大きく異なります。内藤の中国史理解は内面的なもので、中国史における文化の発達・変容を認め、近代中国の動向も、異質な外来要素たる近代西洋の影響を一方的に受けて大きく変容していく、というものではなく、中国史の展開の延長線上に位置づけました。さらに内藤は、日本文化の発達も中国文化の延長線上にあり、日本文化の起源を知るにはまず中国文化を知らねばならない、と主張しました。本書は、こうした内藤の中国史認識は中国を内面的に理解しようとする姿勢に由来する、と指摘します。
このように中国文化を高く評価した内藤ですが、近代日本の中国「進出」を積極的に主張し、その強力な「妨害者」となるだろうロシアにたいしては強硬派で、日露開戦を強く主張しました。では、中国文化への高い評価と、近代日本における現実の中国への侵略を強く主張する言説とは、内藤の中でいかに整合性がとられていたのでしょうか。本書はその理由として、内藤の内面的な中国史理解の基礎がダイチン・グルン(大清帝国)治下の士大夫層の学問にあったからだ、と指摘します。雍正帝の治世における『大義覚迷録』に代表されるように、中国文化を身に着けたものこそが中国(華)であり、かつては中国(華)であってもその文化を失えば中国ではなくなる、という論理です。この論理によれば、中国文化の延長線上に開花した日本が、西洋近代という東洋にとって異質な要素も摂取し、中国へ「進出」して東西文化の融合を進めるのは「天職」となるわけです。
内藤は津田と違って中国を内面的に理解しましたが、その基盤が大清帝国の士大夫層の学問にあったことは、内藤の同時代の中国考察の限界にもなった、と本書は指摘します。もちろん、後知恵・結果論で昔の見解・評論を批判するのは安易ですが、内藤の中国史理解の基盤に起因する限界を指摘する本書の見解は、今でも有益だと思います。内藤は、大清帝国の立憲制まではその内面的な中国史理解から情勢を読み解けていたものの、その後の民族主義的な動向については、的確な予測がほとんどできませんでした。本書はこれを、内藤個人の問題ではなく、近代日本全体の問題と認識しています。大日本帝国の崩壊は対中国政策の失敗が最大の要因になったのではないか、と私は考えていますので、本書の指摘する近代日本における対中認識の問題には基本的に同意します。この問題の優先順位はさほど高くないのですが、今後も少しずつ調べていくつもりです。
この記事へのコメント