桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす 混血する古代、創発する中世』
ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2018年11月に刊行されました。本書は武士の起源という大問題に挑んでおり、たいへん読みごたえがあります。私も以前はこの問題にたいへん高い関心を有しており、最近もこの問題の大家の新書を読みましたが(関連記事)、本書はじゅうらいの所説を批判的に継承しつつ、壮大な仮説を提示しています。もちろん、本書の諸見解・認識について、専門家からは異論も提示されるでしょうが、新書とはいえ、今後武士の起源を論ずるさいに、本書は必読の文献になっていくのではないか、と思います。また本書は、武士起源論に限らず、古代日本の統治と地方社会についての解説も新書としてはたいへん充実しているので、その点でも私のような門外漢には勉強になります。今後、時間を作って何度も再読していきたいものです。
本書は武士成立の前提として、飛鳥時代後期以降の地方社会において、富裕層のなかに武芸に習熟した者たちが出現しつつあったことを挙げます。その武芸とは弓馬術で、後の武士社会でも騎射がその技能的な存在価値の根源とされてたことを、本書は指摘します。本書は、弓馬術の少なくとも一部は百済の騎射文化に由来するのではないか、と推測しています。本書は、弓馬術に習熟するには生活的余裕が必要なので、その担い手は百姓ではなく富裕層だとして、そうした階層を郡司富豪層、弓馬術に習熟した者たちを「有閑弓騎」と呼んでいます。郡司の出自は、おもに大化前代からの伝統的な地方社会の支配者(地方豪族)です。
しかし、有閑弓騎が直ちに武士になったわけではありません。本書は、武士成立の背景として、地方社会の疲弊と治安悪化があった、と指摘します。その前提となるのは、「王臣子孫」による地方社会での収奪でした。増え続ける王臣子孫を、その身分に相応しく処遇できるだけの財源も官職も律令国家にはなかったことが、王臣子孫を地方社会での収奪に向かわせた、と本書は指摘します。王臣子孫の中から、国司として地方社会に赴任した後、任期が終わってもそのまま居座る者が続出しました。そうした中で、郡司や百姓でも富裕な階層と王臣子孫との対立も激化しますが、両者ともに提携することでより効率的に収奪できると考えるようになり、婚姻などで結びついていった、というわけです。
地方社会が、まだ支配技術も経済・軍事力も未熟だっただろう畿内の「中央政権(朝廷)」の支配をなぜ受け入れていったのか、という疑問を昔から私は抱いていたのですが、律令国家の成立前より、地方社会において支配をめぐる競合があり、安定的支配のためには朝廷と結びつくのが有効だったから、と考えるのが妥当なように思います(関連記事)。もちろん、王臣子孫は朝廷支配に「反抗的」でもあるのですが、王臣子孫の出自は朝廷の貴族層で、地方社会で収奪を繰り返す王臣子孫と結びついているので、本書が指摘するように、藤原氏をはじめとして朝廷の要人は王臣子孫の横暴を本気で取り締まろうとは考えていなかったのでしょう。郡司富豪層と王臣子孫の結びつきも、律令国家成立前からの地方と「中央」の関係の延長線上にあるように思います。
こうした地方社会における収奪と治安悪化は、平安時代になってさらに強化されていきます。本書はその要因として、王臣子孫、その中でも天皇との関係の近いより身分の高い層が激増したことを挙げます。その理由は、平安京に遷都した桓武天皇やその息子である嵯峨天皇が、多くの子供を儲けたからでした。すでに奈良時代において、騎射のできない百姓を徴兵した軍隊は実戦で有効ではないことから、有閑弓騎を武力として取り込もう、という志向はありました。平安時代になって、王臣子孫と郡司富豪層が結びついていて収奪と富をめぐる競合が激化していった結果、地方社会、さらには都の治安も悪化していく状況のなかで、都と天皇の安全をどう守るのか、という課題が重要となります。
その一連の対策のなかで武士が形成されていった、というのが本書の見通しです。ただ、地方の有閑弓騎がそのまま武士になったわけでも、都の衛府で治安対策から武士が形成されていったわけではない、と本書は指摘します。武士の成立には、貴姓の王臣子孫・卑姓の伝統的現地豪族・坂上氏のような準貴姓の伝統的武人輩出氏族もしくは蝦夷との接触体験(蝦夷は俘囚として全国に配置されました)の融合が必要だった、と指摘します。貴姓の王臣子孫は、地方社会でネットワークを構築していた伝統的な豪族層と婚姻などで結びついていき、国府と対立しつつ、地方社会の調停者として勢力を確立していきました。調停者であることを保障するのは何と言っても武力なので、弓馬術に習熟した集団を率いていることが必要です。本書は、平将門の行動は基本的に当時としては一般的なもので、国司を殺害しなかったことはむしろ穏当でさえあるものの、その範囲が大きかったことと、何よりも「新皇」として朝廷(天皇)に替わる新たな権威を標榜したことが朝廷に大きな衝撃を与え、本格的な武力討伐に至った、と指摘します。
本書の見解はたいへん興味深いのですが、律令国家当初からの王臣子孫の「横暴」が誇張されているのではないか、とも思います。もちろん、私の受け取り方の問題でもあるのですが、いかに地方で横暴の限りを尽くす王臣子孫が朝廷の要人と結びついており、朝廷の要人もまた王臣子孫からの収奪に依拠していたところがあるとはいえ、本書の記述からは、朝廷が今にも崩壊しそうな印象さえ受けました。もちろん、定量的な調査はきわめて困難でしょうから、客観的な解説の難しいところだとは思いますが。また、鎌倉・室町・江戸幕府がいずれも、最終的に日本国とその民の統治者になろうとしたのは、武士が調停者として出現したことに起因するから、との見解も疑問の残るところです。鎌倉幕府は「全国統治」に消極的だったように思われるからです(関連記事)。まあ本書は、「最終的に」と述べてはいますが。
以上、本書について述べてきましたが、とても本書の内容を的確かつ充分に伝えられておらず、私の下手な要約よりも、本書の一部を引用する方が有益でしょうから、以下に引用します(P314)。
武士は、地方社会に中央の貴姓の血が振りかけられた結果発生した創発の産物として、地方で生まれ、中央と地方の双方の拠点を行き来しながら成長した。しかし、その一部を召集・選抜して「滝口武士」に組織するという形で、彼らに「武士」というラベルを与え、「武士」という概念を定着させたのは朝廷であり、その場は京だ。武士の誕生に必須の血統(王臣子孫や武人輩出氏族)の出所も京だ。
とはいえ、王臣子孫や武人輩出氏族を、「武士」を創発する融合へと駆り立てたのは、<過当競争になった京・朝廷では今まで通りに食えない>という危機感であり、その原因は、後先考えずに王臣家・王臣子孫を増やしすぎた朝廷(主に桓武とその子孫)の失敗だ。朝廷や京は、武士の内実が成立する過程を、ネガティブな面でしか後押ししていない。
また本書は、最終的な結論として、以下のように述べています(P318)。
武士の内実は地方で、制度を蹂躙しながら成立・成長したが、京・天皇が群盗に脅かされた時、それを「武士」と名づけて制度の中に回収し、形を与えたのが京の宇多朝であり、その背後には「文人」と「武士」を両立させる宇多朝特有の《礼》思想的な構想があった。武士は、王臣家の無法や群盗の横行という形で分裂を極めた中央と地方に、再び結合する回路を与えた。滝口経験者として坂東の覇者となった将門は、まさにその体現者だ。
武士は、京ではない場所(地方)だからこそ生まれた。しかし、地方の土地や有力豪族の社会だけからは、「武士」という創発に結実する統合は起こらなかった。そこに、王臣子孫という貴姓の血が投入されて、初めてその統合・創発は始まるのである。
本書は、武士を発酵食品にたとえています。地方社会という大量の牛乳(大豆)に、王臣子孫という微量の乳酸菌(納豆菌)を投入したら、ヨーグルト(納豆)という全く別種の、しかもきわめて有用な食品になった、というわけです。上述したように、疑問点もありますし、専門家からはさまざまな点で異論が提示されるかもしれませんが、本書が武士起源論を再び活性化させる契機になることを期待しています。現在では、武士起源論の優先順位はさほど高くないのですが、今後、本書のように一般向け書籍として刊行されたなら、何とか時間を作って読みたいものです。本書はおもに天慶の乱の頃までを扱っているので、できれば、古代末期から中世にかけての武士の展開に関する著者の新著を、一般向け書籍の形で読みたいものです。
本書は武士成立の前提として、飛鳥時代後期以降の地方社会において、富裕層のなかに武芸に習熟した者たちが出現しつつあったことを挙げます。その武芸とは弓馬術で、後の武士社会でも騎射がその技能的な存在価値の根源とされてたことを、本書は指摘します。本書は、弓馬術の少なくとも一部は百済の騎射文化に由来するのではないか、と推測しています。本書は、弓馬術に習熟するには生活的余裕が必要なので、その担い手は百姓ではなく富裕層だとして、そうした階層を郡司富豪層、弓馬術に習熟した者たちを「有閑弓騎」と呼んでいます。郡司の出自は、おもに大化前代からの伝統的な地方社会の支配者(地方豪族)です。
しかし、有閑弓騎が直ちに武士になったわけではありません。本書は、武士成立の背景として、地方社会の疲弊と治安悪化があった、と指摘します。その前提となるのは、「王臣子孫」による地方社会での収奪でした。増え続ける王臣子孫を、その身分に相応しく処遇できるだけの財源も官職も律令国家にはなかったことが、王臣子孫を地方社会での収奪に向かわせた、と本書は指摘します。王臣子孫の中から、国司として地方社会に赴任した後、任期が終わってもそのまま居座る者が続出しました。そうした中で、郡司や百姓でも富裕な階層と王臣子孫との対立も激化しますが、両者ともに提携することでより効率的に収奪できると考えるようになり、婚姻などで結びついていった、というわけです。
地方社会が、まだ支配技術も経済・軍事力も未熟だっただろう畿内の「中央政権(朝廷)」の支配をなぜ受け入れていったのか、という疑問を昔から私は抱いていたのですが、律令国家の成立前より、地方社会において支配をめぐる競合があり、安定的支配のためには朝廷と結びつくのが有効だったから、と考えるのが妥当なように思います(関連記事)。もちろん、王臣子孫は朝廷支配に「反抗的」でもあるのですが、王臣子孫の出自は朝廷の貴族層で、地方社会で収奪を繰り返す王臣子孫と結びついているので、本書が指摘するように、藤原氏をはじめとして朝廷の要人は王臣子孫の横暴を本気で取り締まろうとは考えていなかったのでしょう。郡司富豪層と王臣子孫の結びつきも、律令国家成立前からの地方と「中央」の関係の延長線上にあるように思います。
こうした地方社会における収奪と治安悪化は、平安時代になってさらに強化されていきます。本書はその要因として、王臣子孫、その中でも天皇との関係の近いより身分の高い層が激増したことを挙げます。その理由は、平安京に遷都した桓武天皇やその息子である嵯峨天皇が、多くの子供を儲けたからでした。すでに奈良時代において、騎射のできない百姓を徴兵した軍隊は実戦で有効ではないことから、有閑弓騎を武力として取り込もう、という志向はありました。平安時代になって、王臣子孫と郡司富豪層が結びついていて収奪と富をめぐる競合が激化していった結果、地方社会、さらには都の治安も悪化していく状況のなかで、都と天皇の安全をどう守るのか、という課題が重要となります。
その一連の対策のなかで武士が形成されていった、というのが本書の見通しです。ただ、地方の有閑弓騎がそのまま武士になったわけでも、都の衛府で治安対策から武士が形成されていったわけではない、と本書は指摘します。武士の成立には、貴姓の王臣子孫・卑姓の伝統的現地豪族・坂上氏のような準貴姓の伝統的武人輩出氏族もしくは蝦夷との接触体験(蝦夷は俘囚として全国に配置されました)の融合が必要だった、と指摘します。貴姓の王臣子孫は、地方社会でネットワークを構築していた伝統的な豪族層と婚姻などで結びついていき、国府と対立しつつ、地方社会の調停者として勢力を確立していきました。調停者であることを保障するのは何と言っても武力なので、弓馬術に習熟した集団を率いていることが必要です。本書は、平将門の行動は基本的に当時としては一般的なもので、国司を殺害しなかったことはむしろ穏当でさえあるものの、その範囲が大きかったことと、何よりも「新皇」として朝廷(天皇)に替わる新たな権威を標榜したことが朝廷に大きな衝撃を与え、本格的な武力討伐に至った、と指摘します。
本書の見解はたいへん興味深いのですが、律令国家当初からの王臣子孫の「横暴」が誇張されているのではないか、とも思います。もちろん、私の受け取り方の問題でもあるのですが、いかに地方で横暴の限りを尽くす王臣子孫が朝廷の要人と結びついており、朝廷の要人もまた王臣子孫からの収奪に依拠していたところがあるとはいえ、本書の記述からは、朝廷が今にも崩壊しそうな印象さえ受けました。もちろん、定量的な調査はきわめて困難でしょうから、客観的な解説の難しいところだとは思いますが。また、鎌倉・室町・江戸幕府がいずれも、最終的に日本国とその民の統治者になろうとしたのは、武士が調停者として出現したことに起因するから、との見解も疑問の残るところです。鎌倉幕府は「全国統治」に消極的だったように思われるからです(関連記事)。まあ本書は、「最終的に」と述べてはいますが。
以上、本書について述べてきましたが、とても本書の内容を的確かつ充分に伝えられておらず、私の下手な要約よりも、本書の一部を引用する方が有益でしょうから、以下に引用します(P314)。
武士は、地方社会に中央の貴姓の血が振りかけられた結果発生した創発の産物として、地方で生まれ、中央と地方の双方の拠点を行き来しながら成長した。しかし、その一部を召集・選抜して「滝口武士」に組織するという形で、彼らに「武士」というラベルを与え、「武士」という概念を定着させたのは朝廷であり、その場は京だ。武士の誕生に必須の血統(王臣子孫や武人輩出氏族)の出所も京だ。
とはいえ、王臣子孫や武人輩出氏族を、「武士」を創発する融合へと駆り立てたのは、<過当競争になった京・朝廷では今まで通りに食えない>という危機感であり、その原因は、後先考えずに王臣家・王臣子孫を増やしすぎた朝廷(主に桓武とその子孫)の失敗だ。朝廷や京は、武士の内実が成立する過程を、ネガティブな面でしか後押ししていない。
また本書は、最終的な結論として、以下のように述べています(P318)。
武士の内実は地方で、制度を蹂躙しながら成立・成長したが、京・天皇が群盗に脅かされた時、それを「武士」と名づけて制度の中に回収し、形を与えたのが京の宇多朝であり、その背後には「文人」と「武士」を両立させる宇多朝特有の《礼》思想的な構想があった。武士は、王臣家の無法や群盗の横行という形で分裂を極めた中央と地方に、再び結合する回路を与えた。滝口経験者として坂東の覇者となった将門は、まさにその体現者だ。
武士は、京ではない場所(地方)だからこそ生まれた。しかし、地方の土地や有力豪族の社会だけからは、「武士」という創発に結実する統合は起こらなかった。そこに、王臣子孫という貴姓の血が投入されて、初めてその統合・創発は始まるのである。
本書は、武士を発酵食品にたとえています。地方社会という大量の牛乳(大豆)に、王臣子孫という微量の乳酸菌(納豆菌)を投入したら、ヨーグルト(納豆)という全く別種の、しかもきわめて有用な食品になった、というわけです。上述したように、疑問点もありますし、専門家からはさまざまな点で異論が提示されるかもしれませんが、本書が武士起源論を再び活性化させる契機になることを期待しています。現在では、武士起源論の優先順位はさほど高くないのですが、今後、本書のように一般向け書籍として刊行されたなら、何とか時間を作って読みたいものです。本書はおもに天慶の乱の頃までを扱っているので、できれば、古代末期から中世にかけての武士の展開に関する著者の新著を、一般向け書籍の形で読みたいものです。
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