さかのぼるチベット高原への人類の拡散
チベット高原への人類の拡散に関する研究(Zhang et al., 2018)が報道されました。チベットへの人類の移住に関しては、以前まとめました(関連記事)。海抜4000m以上となるような高地は、砂漠・熱帯雨林・北極圏とともに人類にとって極限環境で、居住は容易ではないため、進出できた人類は現生人類(Homo sapiens)だけで(関連記事)、チベット高原も、低温・低い生物量(バイオマス)生産性・低酸素のため、人類にとって過酷な環境で、人類の進出した陸上環境の中でも最後の方の一つと考えられています。
海抜4000m以上となるような高地における、ある程度は継続的な人類の居住の確実な痕跡は、これまでせいぜい更新世~完新世移行期にまでしかさかのぼりませんでした。アンデス高地に関しては、通年の利用と断定はできないとしても、少なくとも季節的には利用していたと考えられる12800~11500年前頃の人類の痕跡が(関連記事)、チベット高原に関しては、12670~8200年前頃までさかのぼる人類の通年の居住が報告されています(関連記事)。
本論文は、チベット北部のチャンタン(Changthang)地域にある、海抜約4600mに位置する尼阿底(Nwya Devu)遺跡の年代を報告しています。2013年に発見された尼阿底遺跡は、ラサ市の300km北西に位置し、東西1km、南北2kmほどの広さです。尼阿底遺跡では1ヶ所の発掘溝で3地点の層位と人工物と年代が詳細に調べられました。3地点の層位はそれぞれ3層に区分されます。10~30cmの第1層は小石の多い沈泥と細かい砂で構成されており、表面採集分も含めて3124点の石器が発見されています。50~80cmの第2層はよく揃った細粒砂で構成されており、砂利を含んでいて、223点の石器が発見されています。第3層はおもに砂利で、淡水貝の殻を含んでいます。深さは全体で約170cmです。石器が発見されたのは、第3層となる深さ138cmまでの地点です。これら3層の石器の間に明確な形態・技術の違いはなく、本論文は、これらが単一の石器群で、第3層で人類の痕跡が始まる、と結論づけています。
尼阿底遺跡では放射性炭素年代測定法を用いて信頼できる年代を得られるほどの有機物は残存していなかったので、年代測定にはおもに光刺激ルミネッセンス法(OSL)が用いられ、合計24点の標本から推定年代値が得られました。これらの年代はおおむね層序と整合的です。第1層の年代は130000±1000年前と3600±300年前で、おもに完新世と考えられます。第1層最下部の淡水の貝の殻は、加速器質量分析(AMS)法による放射性炭素年代で12700~12400年前頃となります。第2層の年代は25000~18000年前頃と短い期間なので、最終氷期極大期の間の堆積や攪乱を反映しているかもしれません。第3層の人工物と関連した年代は45000~30000年前頃で、貝殻のAMS法による年代と一致しています。石器と近い試料による最古級の年代は、44800±4100年前と36700±3200年前です。AMS法による年代とOSLの年代は近接しているので、OSLの年代の信頼性は高いと考えられます。OSLと放射性炭素年代測定法によると、石器の出現年代は海洋酸素同位体ステージ(MIS)3となる4万~3万年前頃と推定されます。チベット高原における更新世の人類の痕跡は、これまでその周縁部でいくつか発見されているだけでしたから、尼阿底遺跡は、海抜4000m以上となるような高地における更新世の人類の痕跡としては最古の事例となります。
尼阿底遺跡の合計3683点の石器の中には、石刃石核・剥片石核・石刃・剥片などが含まれています。これらの石器の特徴は石刃生産で、ルヴァロワ(Levallois)石核というよりも、プリズム石核から製作され、単方向剥離が優占しています。石刃のサイズは様々で、掻器や礫器などに再加工されています。全ての石器は黒い粘板岩で製作されており、尼阿底遺跡の東方800mの丘から調達されていた、と推測されます。廃棄物の割合が高くて精選された道具が少なく、遺跡の規模や石材調達地から近くて、動物遺骸や炉床がないことから、尼阿底遺跡は石器製作の作業場だった、と本論文は推測しています。
尼阿底遺跡の石器群と技術的に類似した石器は、中国では北部でわずかにしか見つかっていません。尼阿底遺跡の石器群と最もよく類似しているのは、シベリアとモンゴルの早期上部旧石器時代の石器群です。そのため本論文は、チベットとシベリアで4万~3万年前頃に相互作用があった可能性を指摘しています。これは、南シベリアのアルタイ地域で存在が確認されている、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との関連(関連記事)で注目されます。デニソワ人の現代人への遺伝的影響は、東アジアにおいてわずかで、オセアニアにおいてそれよりずっと高く、チベット高原は、デニソワ人の遺伝的影響を受けた現生人類集団の南方への拡散経路の一つだったかもしれない、と本論文は指摘します。ただ、デニソワ人に関しては、北方系と南方系が存在し、それぞれ東アジア系とオセアニア系に遺伝的影響を残した、と想定する方が節約的であるように思えます(関連記事)。
本論文は、チベット高原のような海抜4000m以上の高地への人類の進出が4万年前頃までさかのぼることを示した点で、たいへん意義深いと思います。MIS3には、チベット高原の生態学的条件は現在と同じか、もっと良かったのではないか、と推測されていますが、それでも、低温や低酸素への適応が重要となってきます。現代チベット人には高地適応関連遺伝子が確認されており(関連記事)、中にはデニソワ人から継承されたと推測されるものもあります(関連記事)。おそらく、現代チベット人の祖先集団のなかにはそうした遺伝的多様体を有した個体がおり、高地へと拡散して定着していく過程で集団内に定着していった(遺伝子頻度が上昇した)のでしょう。なお、アンデス高原の現代人も高地適応関連遺伝子を有していますが、それはチベット人とは異なっており(関連記事)、人類の遺伝的な高地適応も多様だったと考えられます。
参考文献:
Zhang XL. et al.(2018): The earliest human occupation of the high-altitude Tibetan Plateau 40 thousand to 30 thousand years ago. Science, 362, 6418, 1049-1051.
https://doi.org/10.1126/science.aat8824
海抜4000m以上となるような高地における、ある程度は継続的な人類の居住の確実な痕跡は、これまでせいぜい更新世~完新世移行期にまでしかさかのぼりませんでした。アンデス高地に関しては、通年の利用と断定はできないとしても、少なくとも季節的には利用していたと考えられる12800~11500年前頃の人類の痕跡が(関連記事)、チベット高原に関しては、12670~8200年前頃までさかのぼる人類の通年の居住が報告されています(関連記事)。
本論文は、チベット北部のチャンタン(Changthang)地域にある、海抜約4600mに位置する尼阿底(Nwya Devu)遺跡の年代を報告しています。2013年に発見された尼阿底遺跡は、ラサ市の300km北西に位置し、東西1km、南北2kmほどの広さです。尼阿底遺跡では1ヶ所の発掘溝で3地点の層位と人工物と年代が詳細に調べられました。3地点の層位はそれぞれ3層に区分されます。10~30cmの第1層は小石の多い沈泥と細かい砂で構成されており、表面採集分も含めて3124点の石器が発見されています。50~80cmの第2層はよく揃った細粒砂で構成されており、砂利を含んでいて、223点の石器が発見されています。第3層はおもに砂利で、淡水貝の殻を含んでいます。深さは全体で約170cmです。石器が発見されたのは、第3層となる深さ138cmまでの地点です。これら3層の石器の間に明確な形態・技術の違いはなく、本論文は、これらが単一の石器群で、第3層で人類の痕跡が始まる、と結論づけています。
尼阿底遺跡では放射性炭素年代測定法を用いて信頼できる年代を得られるほどの有機物は残存していなかったので、年代測定にはおもに光刺激ルミネッセンス法(OSL)が用いられ、合計24点の標本から推定年代値が得られました。これらの年代はおおむね層序と整合的です。第1層の年代は130000±1000年前と3600±300年前で、おもに完新世と考えられます。第1層最下部の淡水の貝の殻は、加速器質量分析(AMS)法による放射性炭素年代で12700~12400年前頃となります。第2層の年代は25000~18000年前頃と短い期間なので、最終氷期極大期の間の堆積や攪乱を反映しているかもしれません。第3層の人工物と関連した年代は45000~30000年前頃で、貝殻のAMS法による年代と一致しています。石器と近い試料による最古級の年代は、44800±4100年前と36700±3200年前です。AMS法による年代とOSLの年代は近接しているので、OSLの年代の信頼性は高いと考えられます。OSLと放射性炭素年代測定法によると、石器の出現年代は海洋酸素同位体ステージ(MIS)3となる4万~3万年前頃と推定されます。チベット高原における更新世の人類の痕跡は、これまでその周縁部でいくつか発見されているだけでしたから、尼阿底遺跡は、海抜4000m以上となるような高地における更新世の人類の痕跡としては最古の事例となります。
尼阿底遺跡の合計3683点の石器の中には、石刃石核・剥片石核・石刃・剥片などが含まれています。これらの石器の特徴は石刃生産で、ルヴァロワ(Levallois)石核というよりも、プリズム石核から製作され、単方向剥離が優占しています。石刃のサイズは様々で、掻器や礫器などに再加工されています。全ての石器は黒い粘板岩で製作されており、尼阿底遺跡の東方800mの丘から調達されていた、と推測されます。廃棄物の割合が高くて精選された道具が少なく、遺跡の規模や石材調達地から近くて、動物遺骸や炉床がないことから、尼阿底遺跡は石器製作の作業場だった、と本論文は推測しています。
尼阿底遺跡の石器群と技術的に類似した石器は、中国では北部でわずかにしか見つかっていません。尼阿底遺跡の石器群と最もよく類似しているのは、シベリアとモンゴルの早期上部旧石器時代の石器群です。そのため本論文は、チベットとシベリアで4万~3万年前頃に相互作用があった可能性を指摘しています。これは、南シベリアのアルタイ地域で存在が確認されている、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との関連(関連記事)で注目されます。デニソワ人の現代人への遺伝的影響は、東アジアにおいてわずかで、オセアニアにおいてそれよりずっと高く、チベット高原は、デニソワ人の遺伝的影響を受けた現生人類集団の南方への拡散経路の一つだったかもしれない、と本論文は指摘します。ただ、デニソワ人に関しては、北方系と南方系が存在し、それぞれ東アジア系とオセアニア系に遺伝的影響を残した、と想定する方が節約的であるように思えます(関連記事)。
本論文は、チベット高原のような海抜4000m以上の高地への人類の進出が4万年前頃までさかのぼることを示した点で、たいへん意義深いと思います。MIS3には、チベット高原の生態学的条件は現在と同じか、もっと良かったのではないか、と推測されていますが、それでも、低温や低酸素への適応が重要となってきます。現代チベット人には高地適応関連遺伝子が確認されており(関連記事)、中にはデニソワ人から継承されたと推測されるものもあります(関連記事)。おそらく、現代チベット人の祖先集団のなかにはそうした遺伝的多様体を有した個体がおり、高地へと拡散して定着していく過程で集団内に定着していった(遺伝子頻度が上昇した)のでしょう。なお、アンデス高原の現代人も高地適応関連遺伝子を有していますが、それはチベット人とは異なっており(関連記事)、人類の遺伝的な高地適応も多様だったと考えられます。
参考文献:
Zhang XL. et al.(2018): The earliest human occupation of the high-altitude Tibetan Plateau 40 thousand to 30 thousand years ago. Science, 362, 6418, 1049-1051.
https://doi.org/10.1126/science.aat8824
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