民主主義は憲法十七条以来の日本の伝統
自民党筆頭副幹事長にして元防衛相の稲田朋美衆院議員の、衆院本会議での代表質問が話題になっています。該当部分を映像で確認すると、
歴史をさかのぼれば、聖徳太子の「和を以て貴しと為す」という多数な意見の尊重と、徹底した議論による決定という民主主義の基本は、我が国古来の伝統であり、敗戦後に連合国から教えられたものではありません
となっています。民主主義のような基本的概念の定義は難しいとは思いますが、少なくとも現代社会においては、直接的であれ間接的(代議制)であれ、広範な国民の政治参加が必要条件となるでしょう。その意味で、そうした想定は皆無と言ってよいだろう「憲法十七条」の第一条を、「民主主義の基本」の根拠として引用するのは、あまりにも的外れだと思います。そもそも、『聖徳太子 実像と伝説の間』(関連記事)の著者である石井公成氏の指摘にあるように、「憲法十七条」が広く特別視されるようになったのは近代以降で、第一条こそが聖徳太子の思想の中心で日本文化の伝統だった、との考えが広まったのは昭和になってからでした。
せめて、戦前から民主主義はあったと主張するならば、まだ議論の対象になり得るでしょう。短期間とはいえ、政党政治が確立しましたし(とはいえ、選挙結果により政権が交代した事例はないのですが)、男性限定とはいえ、普通選挙も行なわれていました。大正デモクラシーと第二次世界大戦後の民主主義を関連づける見解は珍しくないでしょうし、その是非は私の知見では的確に判断できませんが、第二次世界大戦後の日本の政治状況は、戦前における民主主義のある程度の定着を無視できるとは思えません。おそらく、この点を誤解して世界規模で政策を間違ってしまったのが、アメリカ合衆国の「新自由主義」派なのでしょう。
あえて前近代の日本に民主主義の伝統を見出すならば、中世以降に各地で確立していった自治村落が妥当かもしれません(具体的にどの文献か忘れましたが、専門家によるそうした議論もあったと記憶しています)。しかし、稲田議員(やほぼ間違いなく本音では同様の歴史認識の持ち主だろう安倍首相)はそうした歴史に関心を持たないでしょうし、仮にやや詳しく知っていたとしても、さほど価値を見出さないように思います。まあ、それは私の偏見かもしれませんが。
憲法十七条の第一条を「民主主義の基本」の根拠とするような人が、人口1憶2千万人の国の700人以上いる国会議員の中に数人くらい存在しても仕方のないところだとは思いますが、大臣になったり、次期首相の有力候補になったりしては困ります。まあ、大臣辞任の経緯からも、稲田議員が首相になる可能性はきわめて低いでしょうし、安倍首相の退任もしくは辞職後に大臣に起用される可能性も低いとは思いますが。
なお、Twitterにて
聖徳太子が日本の民主主義のルーツである訳がないのです。聖徳太子が目指したのは、あくまでも皇室を中心とした貴族と官僚が主導の国家運営なのです。聖徳太子の仏教思想でさえ鎌倉仏教のような民主救済の思想はほぼ皆無だったと言って間違いないでしょう。政治家が歴史修正をしてはならないのです。
との呟きが流れてきましたが、「聖徳太子の仏教思想でさえ鎌倉仏教のような民主救済の思想はほぼ皆無だったと言って間違いないでしょう」との見解は的外れだと思います。もちろん、「聖徳太子の仏教思想」なるものを確定的に明らかにすることはできませんが、そもそも日本に伝わったのは大乗仏教なので、必然的に「衆生」たる民衆の救済が命題となります。「憲法十七条」と『三経義疏』が聖徳太子の作なのか否か、議論は続いていますが(どちらも、変格漢文の使用から「日本人」の作である可能性が高そうです)、上の立場から労わるという視点が大前提とはいえ、どちらにも民衆救済の思想は打ち出されています。「憲法十七条」の第五条には貧民への配慮が見られますし、『三経義疏』では、民に努力を求めずに、民を救うことが強調されています。もちろん、あくまでも理念上のことではありますが。なお、『聖徳太子 実像と伝説の間』では、文体の違いから、「憲法十七条」と『三経義疏』を同じ時期に同じ人が書いたとは考えられない、と指摘されています(P173)。聖徳太子については以前当ブログの関連記事をまとめましたが(関連記事)、謎が多く議論の絶えない人物で、本当に興味深いと思います。
歴史をさかのぼれば、聖徳太子の「和を以て貴しと為す」という多数な意見の尊重と、徹底した議論による決定という民主主義の基本は、我が国古来の伝統であり、敗戦後に連合国から教えられたものではありません
となっています。民主主義のような基本的概念の定義は難しいとは思いますが、少なくとも現代社会においては、直接的であれ間接的(代議制)であれ、広範な国民の政治参加が必要条件となるでしょう。その意味で、そうした想定は皆無と言ってよいだろう「憲法十七条」の第一条を、「民主主義の基本」の根拠として引用するのは、あまりにも的外れだと思います。そもそも、『聖徳太子 実像と伝説の間』(関連記事)の著者である石井公成氏の指摘にあるように、「憲法十七条」が広く特別視されるようになったのは近代以降で、第一条こそが聖徳太子の思想の中心で日本文化の伝統だった、との考えが広まったのは昭和になってからでした。
せめて、戦前から民主主義はあったと主張するならば、まだ議論の対象になり得るでしょう。短期間とはいえ、政党政治が確立しましたし(とはいえ、選挙結果により政権が交代した事例はないのですが)、男性限定とはいえ、普通選挙も行なわれていました。大正デモクラシーと第二次世界大戦後の民主主義を関連づける見解は珍しくないでしょうし、その是非は私の知見では的確に判断できませんが、第二次世界大戦後の日本の政治状況は、戦前における民主主義のある程度の定着を無視できるとは思えません。おそらく、この点を誤解して世界規模で政策を間違ってしまったのが、アメリカ合衆国の「新自由主義」派なのでしょう。
あえて前近代の日本に民主主義の伝統を見出すならば、中世以降に各地で確立していった自治村落が妥当かもしれません(具体的にどの文献か忘れましたが、専門家によるそうした議論もあったと記憶しています)。しかし、稲田議員(やほぼ間違いなく本音では同様の歴史認識の持ち主だろう安倍首相)はそうした歴史に関心を持たないでしょうし、仮にやや詳しく知っていたとしても、さほど価値を見出さないように思います。まあ、それは私の偏見かもしれませんが。
憲法十七条の第一条を「民主主義の基本」の根拠とするような人が、人口1憶2千万人の国の700人以上いる国会議員の中に数人くらい存在しても仕方のないところだとは思いますが、大臣になったり、次期首相の有力候補になったりしては困ります。まあ、大臣辞任の経緯からも、稲田議員が首相になる可能性はきわめて低いでしょうし、安倍首相の退任もしくは辞職後に大臣に起用される可能性も低いとは思いますが。
なお、Twitterにて
聖徳太子が日本の民主主義のルーツである訳がないのです。聖徳太子が目指したのは、あくまでも皇室を中心とした貴族と官僚が主導の国家運営なのです。聖徳太子の仏教思想でさえ鎌倉仏教のような民主救済の思想はほぼ皆無だったと言って間違いないでしょう。政治家が歴史修正をしてはならないのです。
との呟きが流れてきましたが、「聖徳太子の仏教思想でさえ鎌倉仏教のような民主救済の思想はほぼ皆無だったと言って間違いないでしょう」との見解は的外れだと思います。もちろん、「聖徳太子の仏教思想」なるものを確定的に明らかにすることはできませんが、そもそも日本に伝わったのは大乗仏教なので、必然的に「衆生」たる民衆の救済が命題となります。「憲法十七条」と『三経義疏』が聖徳太子の作なのか否か、議論は続いていますが(どちらも、変格漢文の使用から「日本人」の作である可能性が高そうです)、上の立場から労わるという視点が大前提とはいえ、どちらにも民衆救済の思想は打ち出されています。「憲法十七条」の第五条には貧民への配慮が見られますし、『三経義疏』では、民に努力を求めずに、民を救うことが強調されています。もちろん、あくまでも理念上のことではありますが。なお、『聖徳太子 実像と伝説の間』では、文体の違いから、「憲法十七条」と『三経義疏』を同じ時期に同じ人が書いたとは考えられない、と指摘されています(P173)。聖徳太子については以前当ブログの関連記事をまとめましたが(関連記事)、謎が多く議論の絶えない人物で、本当に興味深いと思います。
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