『日本書紀』には聖徳太子の遣隋使への関与は明記されていない

 聖徳太子についてのまとめ(関連記事)など、当ブログでは何度か述べてきましたが、改めて強調したいのは、『日本書紀』には聖徳太子の遣隋使への関与は明記されていない、ということです。もっとも、『日本書紀』には「立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子。仍錄攝政。以萬機悉委焉」とあるのだから、聖徳太子は当然関与していた、との見解もあるでしょう。しかし、当ブログで何度か述べてきたように、準同時代史料と言ってよいだろう『隋書』において遣隋使とともに確認のとれる冠位十二階についても、『日本書紀』では聖徳太子の関与が明記されていません。一方、『隋書』では確認がとれず、後世の作文ではないかとも疑われている十七条憲法(『日本書紀』での潤色は多分にあるとしても、原文に相当するものがあった可能性は高い、と私は考えていますが)に関しては、『日本書紀』では聖徳太子の作と明示されています。

 遣隋使にしても冠位十二階にしても、聖徳太子も深く関わっていた可能性は高いと思いますが、『日本書紀』においてこのようにはっきりと区別されていることは、やはり重視しなければならないでしょう。少なくとも、遣隋使における聖徳太子の主導を安易に前提としてはならないと思います。これは、『隋書』に見える、「日出處天子」で始まる国書も同様で、安易に聖徳太子の作と判断すべきではないでしょう。遣隋使と冠位十二階を実施した主体は当時の倭国支配層とするのが妥当でしょうし、あえて一人に代表させるならば、推古天皇(当時、まだ天皇という称号はなかった可能性が高そうですが)が相応しいと思います。

 その意味で、いくつかの辞典の説明のなかでは、「日本古代の朝廷が隋に派遣した使節」とする『百科事典マイペディア』の記述は妥当で、「推古天皇のとき,聖徳太子が中国の隋へ派遣した使節」とする『ブリタニカ国際大百科事典』の記述は百科事典としては不適切だと思います。Wikipediaの遣隋使の項目では、「推古朝の時代、倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢使のことをいう」とされ、その後の記述でも聖徳太子の名前が出てくるのは、「国書紛失事件」のさいに対応した倭国要人の一人としてのみ(もう一人具体名が挙げられているのは推古天皇)なので、この点では抑制された記述になっており、よいと思います。

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