織田信長の「異国趣味」と歴史認識

 織田信長の人気に関するまとめ記事が公開され、信長には「異国趣味」があったものの、それは「南蛮趣味」ではなく「中国(唐)風趣味」で、「南蛮趣味」が強調されたのは、「明治維新の先駆的改革者」と位置づけられたからだ、との興味深い指摘があります。この問題については12年前(2006年10月)に短く述べたことがありますが(関連記事)、私の認識も似たようなものです。もっとも、私の場合、近代以降でも、とくに第二次世界大戦後の動向を重視しています。

 第二次世界大戦での決定的敗北の結果、日本では欧米への劣等感がいっそう強くなり、欧米的な合理性・先進性をもった英雄を前近代の日本にも見出したいという願望の結果として、日本の「識者」が信長の「合理性・革新性」を高く評価し、その評価は多数の日本国民の間に浸透した、というのが私の見通しです。近代以降の日本の思潮では、中華文化は「遅れた」アジアの象徴とされました。その「遅れた」中華文化への憧憬は、「先進的」なはずの信長像とは整合的ではなく、「南蛮趣味」と比較して「唐風趣味」が注目されてこなかったのは、当然と言えるかもしれません。信長の「唐風趣味」が注目されてこなかったのは、一つにはそうした欧米崇拝が影響していると思います。

 もう一つ影響を及ぼしているのは、同じく近代の思潮であるナショナリズムで、日本史においては、これは単に近代以降の傾向ではなく、すでに近世(江戸時代)において、とくに国学で強く見られるものでした。このナショナリズム的傾向において、中華文化的要素は排除されていくようになります。中世五山の学芸の知名度が現代日本では低いことや、前近代の文芸では和歌と比較して漢詩の知名度がずっと低いことも、同根の問題と言えるでしょう。神道については、「唐心」を排していった結果、最高水準の宗教的哲理から「宗教ではない」と称せられるようになった原始的信仰へと変容してしまった、との評価もあります(関連記事)。こうした歴史認識の「歪み」は、おそらく日本だけの問題ではなく、近代以降のヨーロッパ諸国において、ラテン語文学の知名度・関心が「自国語」文学よりもずっと低い、という状況と通底しているのではないか、と思います。

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