磯田道史、倉本一宏、F・クレインス、呉座勇一『戦乱と民衆』

 講談社現代新書の一冊として、講談社から2018年8月に刊行されました。本書は「戦乱と民衆」という視点から日本史を概観しており、第一部が古代(白村江の戦い)・中世(応仁の乱)・近世(大坂の陣)・近世~近代移行期(禁門の変)の四章、第二部が「歴史を視る視点」および「生き延びる民衆」という二回の座談会で構成されています。

 白村江の戦いについては、倭(日本)軍の主力は新羅の都(金城)を目指しており、白村江の戦いに参加した倭軍は主力ではなく輸送船団で構成されていて、水軍とは言えなかった、と推測されています。倭軍の決定的敗因としては、統制されていた国家軍である唐軍にたいして、倭軍は豪族の寄せ集めにすぎなかった、と指摘されています。また、朝鮮半島への軍の派遣は、百済復興というより、対外危機を煽ることが目的だったのではないか、とも推測されています。史料的な制約から、民衆視点の解説は少ないのですが、唐で囚われて人々の帰国の話が紹介されています。

 中世では足軽が取り上げられ土一揆との関連が指摘されています。京都では土一揆は15世紀後半に頻発しますが、応仁の乱の期間は途絶えています。そのため、土一揆の担い手と足軽の担い手はかなり共通しているのではないか、と推測されています。民衆は状況に応じて権力の側にも反権力の側にも立った、というわけです。

 近世ではおもにオランダとイエズス会の史料から大阪の陣が取り上げられています。オランダ側史料は豊臣方に、イエズス会側史料は徳川方に厳しい傾向が見られますが、いずれも、軍事行動に庶民が翻弄され、被害を受けた、と伝えています。イエズス会の情報に基づき、近世ヨーロッパでは徳川家康は狡猾な悪党との評価が定着していたようです。

 近世~近代移行期では禁門の変が取り上げられています。禁門の変で京都は大打撃を受けました。それは、おもに会津藩など幕府側が、長州藩の敗残兵が潜伏することを恐れて放火したからでした。当時の京都の民衆は、会津藩が一橋(徳川)慶喜の命で放火したことをよく知っており、会津藩はいっそう京都で嫌われていきました。これには、薩摩藩なども放火したものの、禁門の変後の被災者対策において会津藩よりも薩摩藩がうまく立ち回ったこともあったようです。また、民衆は禁門の変で一方的に被害を受けただけではなく、死者から金目の物を奪って商売に成功した事例もあったようです。一方、こうした略奪を武士の側は行なわなかった、とも指摘されています。

 座談会では、前近代において戦乱における民衆の被害・動向を解明するための試料が少ない、と指摘されています。また、戦乱による民衆への影響についても、何が記録されるのか、視点の違いが時代により異なる、とも指摘されています。民衆が戦乱の被害者であったことは当然ですが、一方で、略奪を行なう民衆もおり、加害者としての側面もあることが指摘されています。ただ、こうした側面は、古代史では史料的制約からはっきりとしたことは分かりません。

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