中世初期の日本仏教
中世初期の日本仏教について、複数の記事で言及してきたので、一度まとめることにします。参考文献は、『週刊新発見!日本の歴史』第17号「平安時代5 院政期を彩った人々」(関連記事)および第21号「鎌倉時代4 鎌倉仏教の主役は誰か」(関連記事)と『岩波講座 日本歴史 第6巻 中世1』上島享「鎌倉時代の仏教」(関連記事)です。
中世初期の日本仏教に関しては、近代になって提唱された、いわゆる鎌倉新仏教を中心に把握する通俗的見解の影響力が今でも強いかもしれません。鎌倉新仏教をヨーロッパの宗教改革に擬する見解も一定以上浸透しているように思われます。しかし、こうした鎌倉新仏教中心史観は、第二次世界大戦後に提唱された顕密体制論により、大きく見直されることになりました。鎌倉時代、さらには中世前半においてなお、日本社会で大きな影響力を有していたのは、鎌倉新仏教ではなく、平安時代以来国家権力と密接に結びついた顕教と密教で、比叡山延暦寺はその代表と言えるでしょう。
しかし近年では、この顕密体制論も、二項対立的な把握という点では鎌倉新仏教中心史観と変わらない、と指摘されています。鎌倉新仏教中心史観では、延暦寺のような旧体制の枠内にある仏教勢力にたいして、新たな社会情勢(中世)に対応した新興の諸宗派が主役になっていった、と想定されていました。一方、顕密体制論では、「正統」たる顕密仏教と「改革運動」としての「異端」たる鎌倉新仏教という枠組みが提示されています。どちらが鎌倉時代、さらには中世前半の「主役」だったかは異なるものの、平安時代以来の伝統仏教と鎌倉時代(もしくは平安時代末)以降の新興仏教という枠組みでの把握は本質的には変わらないわけです。
顕密体制論の二項対立的な把握の問題点として、遁世僧の評価が指摘されています。顕密体制論では、遁世僧は「改革運動」としての「異端」と把握されますが、その後、むしろ「正統」に近い存在だと把握されるようになりました。しかし、こうした遁世僧の評価も、二項対立的な把握に基づいている点で問題だと指摘されるようになっており、新たな視点が提示されています。その新たな視点について述べる前に、まずは中世最初期となる院政期の仏教の様相について述べます。
院政期には仏事の遂行が増加しました。寺院の建立・造営過程での人的編成・鎮護国家の祈祷などは、それ自体が新たな権力を生み出し、その正統性を社会に認知させる政治であり、それは貴族社会のみならず「万民」を視野に入れるものでした。寺院の造営の財源として、成功という院と受領との私的主従関係で完結するものだけではなく、各国の荘園・公領にたいして一律に課税された一国平均役も充てられました。一国平均役は「新御願壇築役」などの名目で徴収されるため、負担する民衆には都での寺院造営事業が強く印象づけられました。受領をはじめとして、京と地方を往復する人々は、こうした寺院など京の景観・文化を地方に伝えるとともに、地方から京へとさまざまなものをもたらす役割も果たしました。
このように、院政期に寺院建立や仏事の増加など中央権力とより緊密に結びついたことにより既成の寺院勢力が腐敗・堕落し、荘園領主として民衆を搾取したので、それに代わっていわゆる鎌倉新仏教が出現した、というのが通俗的な鎌倉新仏教中心史観です。しかし、王権護持・国家鎮護と民衆の救済とはけっして対立・矛盾するものではなく、両者が一体として機能していたことから、国家仏教と民衆仏教との対立という図式の根本的見直しが提示されています。
そうした図式に代わる新たな視点を設定するさいに重要となるのは、10世紀末頃より、日本の仏教界において妻帯など戒律の弛緩が見られることです。また、皇族・貴族の子弟の入寺により、本来は無縁だったはずの世俗の身分秩序が寺院社会に持ち込まれるようになりました。こうして「顕密体制」側とも言える権門寺院では、戒律が軽視されていきますが、一方で教学が強調されるようになります。このように、仏教の特定の要素を軽視する一方で、特定の要素をきょくたんに重視するようになっていったことが、新たな視点では重視されます。
それは具体的には、仏教の基本となる三要素をどの程度重視するのか、という観点からの中世前半の仏教の見直しです。そもそも仏教においては、戒律・修行・教学の三学一致が基本でした。戒律を守る持戒、座禅などによって精神を統一させる禅定(修行)、解脱(悟り)につながる智慧(教学)というわけです。本来仏教では、この三学はどれも欠けてはなりません。しかし、持戒→禅定→智慧という段階性があるので、持戒・禅定が軽視され、智慧のみが重んじられる傾向が平安時代後期の顕密仏教界にはありました。上述したように、世俗の身分秩序が寺院社会に持ち込まれたことも、こうした傾向を促進したのでしょう。一方で、持戒・禅定のような実践的修行は、一部の下級僧侶が重視するにすぎなくなりました。
しかし、そうした動向を本来あるべき姿の三学一致に戻そうという動きも生じ、遁世僧もその一例です。この仏教の基本三要素をそれぞれ重視するのか軽視するのか、という観点からは、旧勢力と新勢力という二項対立的な把握ではなく、各要素の重視・軽視の振幅が大きかった、ということが中世前半の仏教の特徴とされています。中世前半の仏教界では、破戒や学の重視など極端な方向へ大きく振れるようになり、各僧侶が自らを見つめ直し、仏教とは何かを深く問いかける契機となって、仏教が最も生き生きとした時代だった、とも評価されています。
こうした環境下で成長した法然や親鸞の、諸行の価値を否定する専修念仏や、妻帯を公言して「南無阿弥陀仏」を唱えさえすれば救われる、という教えもまた、極端な方向性の一部として把握されます。鎌倉新仏教の代表的人物とされる法然も親鸞も、平安時代後期以降の仏教思潮から生まれた、というわけです。一方、「旧仏教」たる興福寺の立場から、三学一致より大きく外れているとして法然を批判した貞慶もまた、中世前半の仏教思潮の一方の極に位置していた、ということになります。ただ、法然は延暦寺や一部の学僧から敵視されたものの、朝廷や他宗から広く尊敬を集めており、問題視されたのは法然の弟子や支持者たちの「暴走」だった、とも指摘されています。こうした中世前半の仏教思潮は、大きく二つの方向性に区分されます。一つは、末法の世だからこそ、三学全体を盛んにしていこう、という考えです。もう一つは、末法の世で三学の修業は困難なので、そこに拘らず、異なる救済を創造する、という考えです。前者を牽引したのは栄西や俊芿などといった入宋僧で、後者を牽引したのが念仏系の法然・親鸞・一遍らと法華系の日蓮でした。
三学全体を盛んにしていこうとする傾向は、南宋の仏教界と深く関わっていました。当時、南宋の仏教界では、各僧侶がいずれに重点を置くかによって区分されていたとはいえ、三学全体が重んじられていました。また、坐禅や朝昼の集団での食事など、日常的な集団生活の場として僧堂が設けられていました。栄西や俊芿といった入宋僧は、こうした集団生活を日本の禅院で再現し、毎日の規則正しい修行生活を実現しようとしました。栄西や俊芿の後も宋に渡る僧侶が続き、禅院を拠点に戒律を守り、共通の作法に則って、仏教本来の平等性原理で集団生活を送る禅僧の集団(禅家)が日本全体で形成されていきました。こうした動きは南都にも影響を及ぼしました。俊芿の建立した泉涌寺で再現された南宋仏教の動向を、南都の僧侶たちが取り入れていきました。この結果として、律法興行という改革が始まり、律院を拠点とする律僧集団(律家)が日本全体で形成されていきました。戒律を守ることで人々から信頼を集めた律僧たちは、寺社造営や架橋などの勧進活動でも力を発揮しました。
一方、三学の修業は困難なので異なる救済を創造しようとする動きもあり、法然がその先駆者的存在でした。この動向は、法然や親鸞や一遍のように念仏系が目立つのですが、日蓮のように法華系の立場の僧もいました。念仏系・法華系を問わず、三学による修行体系から離れたこれらの宗教改革の特徴は、信心をよりどころとした新たな救済思想だった、ということです。出家者が三学の修業により悟りを目指す本来の仏教から逸脱し、キリスト教やイスラム教とも通ずる、信心が救済に直結する宗教が成立したわけです。この場合、出家者と在家者との境界は曖昧となり、浄土宗の念仏者は禅僧・律僧のように真の僧侶とはみなされませんでした。しかし、在家者中心の救済体系は、出家・在家を問わず、全衆生の成仏を目指す大乗仏教の志向に沿ったものと言えます。三学による修行体系から離れたこれらの宗教改革は室町時代後期になって勢いを増し、一向宗・法華宗と呼ばれる新たな社会集団が形成されました。
こうした二つの方向での宗教改革の一方で、旧仏教とされる顕密仏教が多くの人々の支援を受けていたことも確かでした。修学を重んじた顕密仏教では僧侶が尊重され、法会・修法の勤修を託されました。しかし上述したように、顕密仏教の内部で世俗の身分秩序が受容され、破戒が常態化していたことも否定できません。こうした仏教界の在り様への反発として、中世前半におけるさまざまな改革運動が生じたわけです。このように、仏教の根本たる仏宝(釈迦などの如来)・法宝(如来の説いた教え)・僧宝(僧侶の集団)のうち、法宝を担った顕密仏教、僧宝としての禅僧・律僧集団、在家者を取り込んだ念仏系・法華系がそろった鎌倉時代は、日本宗教史における黄金期だった、との評価も提示されています。
中世前半の仏教において注目されるのは、古代よりも影響力がずっと強くなった武士階層の新興です。中世前半において、武士の信仰心は生業への罪悪感と父祖への意識の克服とともに強まった、と指摘されています。武士が禅宗や律宗を保護したのは政治的見地からのみではなく、精神的安定を求めるという目的も大きかった、というわけです。おそらくそれは平安時代後期の公家も同様で、極楽往生が人生において重要な位置を占めていました。どうすれば極楽往生が可能なのか、平安時代後期以降に模索されるなかで、法然や親鸞も登場した、と把握すべきなのでしょう。
中世初期の日本仏教に関しては、近代になって提唱された、いわゆる鎌倉新仏教を中心に把握する通俗的見解の影響力が今でも強いかもしれません。鎌倉新仏教をヨーロッパの宗教改革に擬する見解も一定以上浸透しているように思われます。しかし、こうした鎌倉新仏教中心史観は、第二次世界大戦後に提唱された顕密体制論により、大きく見直されることになりました。鎌倉時代、さらには中世前半においてなお、日本社会で大きな影響力を有していたのは、鎌倉新仏教ではなく、平安時代以来国家権力と密接に結びついた顕教と密教で、比叡山延暦寺はその代表と言えるでしょう。
しかし近年では、この顕密体制論も、二項対立的な把握という点では鎌倉新仏教中心史観と変わらない、と指摘されています。鎌倉新仏教中心史観では、延暦寺のような旧体制の枠内にある仏教勢力にたいして、新たな社会情勢(中世)に対応した新興の諸宗派が主役になっていった、と想定されていました。一方、顕密体制論では、「正統」たる顕密仏教と「改革運動」としての「異端」たる鎌倉新仏教という枠組みが提示されています。どちらが鎌倉時代、さらには中世前半の「主役」だったかは異なるものの、平安時代以来の伝統仏教と鎌倉時代(もしくは平安時代末)以降の新興仏教という枠組みでの把握は本質的には変わらないわけです。
顕密体制論の二項対立的な把握の問題点として、遁世僧の評価が指摘されています。顕密体制論では、遁世僧は「改革運動」としての「異端」と把握されますが、その後、むしろ「正統」に近い存在だと把握されるようになりました。しかし、こうした遁世僧の評価も、二項対立的な把握に基づいている点で問題だと指摘されるようになっており、新たな視点が提示されています。その新たな視点について述べる前に、まずは中世最初期となる院政期の仏教の様相について述べます。
院政期には仏事の遂行が増加しました。寺院の建立・造営過程での人的編成・鎮護国家の祈祷などは、それ自体が新たな権力を生み出し、その正統性を社会に認知させる政治であり、それは貴族社会のみならず「万民」を視野に入れるものでした。寺院の造営の財源として、成功という院と受領との私的主従関係で完結するものだけではなく、各国の荘園・公領にたいして一律に課税された一国平均役も充てられました。一国平均役は「新御願壇築役」などの名目で徴収されるため、負担する民衆には都での寺院造営事業が強く印象づけられました。受領をはじめとして、京と地方を往復する人々は、こうした寺院など京の景観・文化を地方に伝えるとともに、地方から京へとさまざまなものをもたらす役割も果たしました。
このように、院政期に寺院建立や仏事の増加など中央権力とより緊密に結びついたことにより既成の寺院勢力が腐敗・堕落し、荘園領主として民衆を搾取したので、それに代わっていわゆる鎌倉新仏教が出現した、というのが通俗的な鎌倉新仏教中心史観です。しかし、王権護持・国家鎮護と民衆の救済とはけっして対立・矛盾するものではなく、両者が一体として機能していたことから、国家仏教と民衆仏教との対立という図式の根本的見直しが提示されています。
そうした図式に代わる新たな視点を設定するさいに重要となるのは、10世紀末頃より、日本の仏教界において妻帯など戒律の弛緩が見られることです。また、皇族・貴族の子弟の入寺により、本来は無縁だったはずの世俗の身分秩序が寺院社会に持ち込まれるようになりました。こうして「顕密体制」側とも言える権門寺院では、戒律が軽視されていきますが、一方で教学が強調されるようになります。このように、仏教の特定の要素を軽視する一方で、特定の要素をきょくたんに重視するようになっていったことが、新たな視点では重視されます。
それは具体的には、仏教の基本となる三要素をどの程度重視するのか、という観点からの中世前半の仏教の見直しです。そもそも仏教においては、戒律・修行・教学の三学一致が基本でした。戒律を守る持戒、座禅などによって精神を統一させる禅定(修行)、解脱(悟り)につながる智慧(教学)というわけです。本来仏教では、この三学はどれも欠けてはなりません。しかし、持戒→禅定→智慧という段階性があるので、持戒・禅定が軽視され、智慧のみが重んじられる傾向が平安時代後期の顕密仏教界にはありました。上述したように、世俗の身分秩序が寺院社会に持ち込まれたことも、こうした傾向を促進したのでしょう。一方で、持戒・禅定のような実践的修行は、一部の下級僧侶が重視するにすぎなくなりました。
しかし、そうした動向を本来あるべき姿の三学一致に戻そうという動きも生じ、遁世僧もその一例です。この仏教の基本三要素をそれぞれ重視するのか軽視するのか、という観点からは、旧勢力と新勢力という二項対立的な把握ではなく、各要素の重視・軽視の振幅が大きかった、ということが中世前半の仏教の特徴とされています。中世前半の仏教界では、破戒や学の重視など極端な方向へ大きく振れるようになり、各僧侶が自らを見つめ直し、仏教とは何かを深く問いかける契機となって、仏教が最も生き生きとした時代だった、とも評価されています。
こうした環境下で成長した法然や親鸞の、諸行の価値を否定する専修念仏や、妻帯を公言して「南無阿弥陀仏」を唱えさえすれば救われる、という教えもまた、極端な方向性の一部として把握されます。鎌倉新仏教の代表的人物とされる法然も親鸞も、平安時代後期以降の仏教思潮から生まれた、というわけです。一方、「旧仏教」たる興福寺の立場から、三学一致より大きく外れているとして法然を批判した貞慶もまた、中世前半の仏教思潮の一方の極に位置していた、ということになります。ただ、法然は延暦寺や一部の学僧から敵視されたものの、朝廷や他宗から広く尊敬を集めており、問題視されたのは法然の弟子や支持者たちの「暴走」だった、とも指摘されています。こうした中世前半の仏教思潮は、大きく二つの方向性に区分されます。一つは、末法の世だからこそ、三学全体を盛んにしていこう、という考えです。もう一つは、末法の世で三学の修業は困難なので、そこに拘らず、異なる救済を創造する、という考えです。前者を牽引したのは栄西や俊芿などといった入宋僧で、後者を牽引したのが念仏系の法然・親鸞・一遍らと法華系の日蓮でした。
三学全体を盛んにしていこうとする傾向は、南宋の仏教界と深く関わっていました。当時、南宋の仏教界では、各僧侶がいずれに重点を置くかによって区分されていたとはいえ、三学全体が重んじられていました。また、坐禅や朝昼の集団での食事など、日常的な集団生活の場として僧堂が設けられていました。栄西や俊芿といった入宋僧は、こうした集団生活を日本の禅院で再現し、毎日の規則正しい修行生活を実現しようとしました。栄西や俊芿の後も宋に渡る僧侶が続き、禅院を拠点に戒律を守り、共通の作法に則って、仏教本来の平等性原理で集団生活を送る禅僧の集団(禅家)が日本全体で形成されていきました。こうした動きは南都にも影響を及ぼしました。俊芿の建立した泉涌寺で再現された南宋仏教の動向を、南都の僧侶たちが取り入れていきました。この結果として、律法興行という改革が始まり、律院を拠点とする律僧集団(律家)が日本全体で形成されていきました。戒律を守ることで人々から信頼を集めた律僧たちは、寺社造営や架橋などの勧進活動でも力を発揮しました。
一方、三学の修業は困難なので異なる救済を創造しようとする動きもあり、法然がその先駆者的存在でした。この動向は、法然や親鸞や一遍のように念仏系が目立つのですが、日蓮のように法華系の立場の僧もいました。念仏系・法華系を問わず、三学による修行体系から離れたこれらの宗教改革の特徴は、信心をよりどころとした新たな救済思想だった、ということです。出家者が三学の修業により悟りを目指す本来の仏教から逸脱し、キリスト教やイスラム教とも通ずる、信心が救済に直結する宗教が成立したわけです。この場合、出家者と在家者との境界は曖昧となり、浄土宗の念仏者は禅僧・律僧のように真の僧侶とはみなされませんでした。しかし、在家者中心の救済体系は、出家・在家を問わず、全衆生の成仏を目指す大乗仏教の志向に沿ったものと言えます。三学による修行体系から離れたこれらの宗教改革は室町時代後期になって勢いを増し、一向宗・法華宗と呼ばれる新たな社会集団が形成されました。
こうした二つの方向での宗教改革の一方で、旧仏教とされる顕密仏教が多くの人々の支援を受けていたことも確かでした。修学を重んじた顕密仏教では僧侶が尊重され、法会・修法の勤修を託されました。しかし上述したように、顕密仏教の内部で世俗の身分秩序が受容され、破戒が常態化していたことも否定できません。こうした仏教界の在り様への反発として、中世前半におけるさまざまな改革運動が生じたわけです。このように、仏教の根本たる仏宝(釈迦などの如来)・法宝(如来の説いた教え)・僧宝(僧侶の集団)のうち、法宝を担った顕密仏教、僧宝としての禅僧・律僧集団、在家者を取り込んだ念仏系・法華系がそろった鎌倉時代は、日本宗教史における黄金期だった、との評価も提示されています。
中世前半の仏教において注目されるのは、古代よりも影響力がずっと強くなった武士階層の新興です。中世前半において、武士の信仰心は生業への罪悪感と父祖への意識の克服とともに強まった、と指摘されています。武士が禅宗や律宗を保護したのは政治的見地からのみではなく、精神的安定を求めるという目的も大きかった、というわけです。おそらくそれは平安時代後期の公家も同様で、極楽往生が人生において重要な位置を占めていました。どうすれば極楽往生が可能なのか、平安時代後期以降に模索されるなかで、法然や親鸞も登場した、と把握すべきなのでしょう。
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