中公新書編集部編『日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇制まで』
中公新書の一冊として、中央公論新社から2018年8月に刊行されました。本書は古代・中世・近世・近代・現代の5部構成で、それぞれ複数の論点が取り上げられています。古代と近世には簡略な概説もあります。古代は倉本一宏氏、中世は今谷明、近世は大石学氏、近代は清水唯一朗氏、現代は宮城大蔵氏の担当です。以下、各論点を備忘録的に述べていきます。
◎古代
●論点1「邪馬台国はどこにあったのか」
この20年ほどは、邪馬台国は畿内にあった、もっと具体的には纏向遺跡だった、との見解が一般でもすっかり有力になった感があります。しかし本論考は、邪馬台国が当時の日本列島における最有力の権力だったという前提を疑うべきだ、と指摘します。この指摘は、以前からの私の見解とも通ずるので、同意します。本論考は、文献に見える邪馬台国は環濠集落で纏向遺跡とは異なるとして、邪馬台国は九州北部の倭国連合で、畿内には別の勢力(倭王権)が存在した、との見解を提示しています。この倭国連合において、邪馬台国は聖権力、伊都国が俗権力を代表していた、と本論考は推測しています。邪馬台国の具体的な所在地については、現在の福岡県久留米市・八女市・みやま市の一帯と推測されています。
●論点2「大王はどこまでたどれるか」
倭王権成立の指標として、箸墓古墳と相似形で規模のより小さな古墳が日本列島各地で築造されたことが挙げられています。倭王権盟主墳と考えられる前方後円墳は、大和盆地南東部→大和盆地北部→河内の古市古墳群および和泉の百舌鳥古墳群と移りますが、本論考は、盟主墳の場所と権力の中心は別のもので、盟主墳は外国使節を意識して場所が選定された、と推測しています。これら初期倭王権盟主墳の被葬者については、安易に記紀の「天皇」に比定してはならない、と本論考は注意を喚起しています。「皇統譜」の成立はおそらく7世紀になってからで、大王位の血縁的世襲も6世紀になってからだろう、と本論考は指摘しています。
●論点3「大化改新はあったのか、なかったのか」
本論考は、改新詔が大宝令の修飾を受けていることは明らかであるものの、原詔があったのは確かだろう、との見解を提示しています。ただ本論考は、改新詔が原詔をどこまで伝えているか、判断は難しい、とも指摘しています。それでも本論考は、乙巳の変に続いて一連の改革が進められたことは確実と指摘しています。本論考は乙巳の変の背景として、国際情勢の変動を挙げています。隋と唐という巨大な王朝の成立にどう対応すべきなのか、方針に違いがあったのではないか、というわけです。本論考は、乙巳の変を、大臣が独裁権力を握る高句麗方式を目指した蘇我入鹿と、女王を立てて、有力王族に権力を振るわせたうえで、地位の低い権臣が背後で権力を握るという新羅方式を目指した中臣鎌足(鎌子)との対立という図式で把握しています。乙巳の変で主導権を握っていたのは、父も祖父も即位したわけではない軽(孝徳)ではなく、中大兄と中臣鎌足だろう、と本書は推測しています。ただ、それならば中大兄の母である大王の皇極が弟の軽に位を譲る必要はあったのか、との疑問は残ります。
●論点4「女帝と道鏡は何を目指していたのか」
道鏡を天皇に即位させよ、との宇佐八幡神の神託がくだった、とされる事件は、皇族ではない人物が天皇に即位したかもしれないということで、特異な事例として注目されます。じゅうらい、この事件は道鏡主導だった、と語られていたのですが、近年では、称徳天皇の主導である、との見解が有力です。本論考は、奈良時代の天皇は天武皇統というより持統皇統で、それに拘った結果として即位した未婚の孝謙天皇の後継者をめぐる争いが、政治を混乱させていった、との見通しを提示しています。孝謙天皇は天皇大権を把握できないまま譲位し、藤原仲麻呂を打倒して重祚します(称徳天皇)。称徳天皇の治世でも、皇位継承が不安定な状況に変わりはなく、称徳天皇は、自身の主導する専制体制下で、仏教と天皇との共同統治体制を構想した、と本論考は推測しています。仏教と神祇思想が混淆した「天」により定められた人物であれば天皇に即位できると考え、道鏡を天皇に即位させようとした、というわけです。しかし、この構想は貴族層に受け入れられず、称徳天皇は後継者を決定しないまま死去します。
●論点5「墾田永年私財法で律令制は崩れていったのか」
墾田永年私財法により律令制は崩壊していった、との見解がかつては有力でしたが、本論考は、墾田永年私財法により律令国家の土地所有体制が後退したのではなく、むしろじゅうらいは充分に把握できていなかった未墾地と新墾田を土地支配体制のなかに組み込めた、と指摘しています。これにより、日本全体の水田の面積が増大していきました。そもそも、律令制は唐に倣ったもので、当時の日本社会の実情とは異なっており、平安時代中期に成立した王朝国家こそ、日本的な古代国家と評価されています。
●論点6「武士はなぜ、どのように台頭したのか」
武士の起源について、都との関わりも深く、初期の「武家の棟梁」とされる人物が、中央貴族の血筋で、地方に勢力を有しつつも完全には土着せず、官職や邸宅など都にも基盤を置いていた、と指摘されています。こうした平安時代の軍事貴族は、在地に大きな基盤を有していたわけではなく、軍事行動にさいてしても、朝廷から公認されなければ大規模な兵力を動員することも困難でした。平安時代末期の戦乱(いわゆる源平合戦)においてさえ、有力者たちの兵力のほとんどは国衙の指揮下にありました。平安時代の武士は、強訴を行なう寺社勢力への対策や、地方の紛争の解決に武士は不可欠な存在となっていき、やがて中央の政治に大きな影響力を有するようになります。本論考は、こうして「武士的なもの」が中世以降に日本史の主流となり、武士を善、貴族を悪とする価値観や、草深い東国の大地を善、腐敗した都を悪とする地域観が現代日本社会にも生き続けている、と指摘します。もちろん本論考も、「古代的・都的・貴族的なもの」がよいことばかりではないことも認めていますが、降伏してきた女性や子供も皆殺しにしてしまう発想は、儒教倫理を表看板にしている古代国家ではあり得ず、そうした古代的価値観は中世以降には京都の没落貴族にしかなかった、と指摘しています。本論考は近世以降についてとくに言及していませんが、そうした価値観に武士勢力が気づく(再発見する)のが近世という見通しを提示することも、可能かもしれません。
◎中世
●論点1「中世はいつ始まったか」
日本史において中世がいつ始まったのかという議論は、明治時代における近代史学の導入により始まりました。当初は、まず封建制が日本に存在したのか、議論になり、続いて、中世・近世といった呼称が登場しました。こうした議論は南北朝正閏問題を機に下火となり、再び盛んになったのは第二次世界大戦後でした。戦後、封建制の担い手は武士との認識が主流となり、中世は鎌倉時代から始まる、とされました。その後、権門体制論の提唱とそれをめぐる議論など研究が進展し、現在では、後三条天皇の即位と院政の始まりが時代の画期として認識されるようになっています。本論考は、寺社の強訴や地方の争乱など、天皇と摂関による統治体制では対応できない状況の出現が、院政を定着させたのだ、と論じています。
●論点2「鎌倉幕府はどのように成立したか」
鎌倉幕府の成立時期に関しては、大別すると、1180年の南関東における軍事政権の成立から1192年の源頼朝の征夷大将軍就任までの6説あり、東国国家論的立場と権門体制論的立場のどちらを支持するかで異なってくる、と本論考は指摘します。現在有力なのは、守護・地頭の任命権などを獲得した1185年の文治勅許を画期とする説です。御家人制は鎌倉幕府の基礎となりましたが、これとヨーロッパの封建制との類似性が、明治時代より注目されてきました。
●論点3「元寇勝利の理由は神風なのか」
文永の役と弘安の役で、日本は暴風雨により何とかモンゴルを退けることができ、戦闘では圧倒されていた、との見解が戦後歴史学では主流でしたが、本論考は、文永の役の戦闘は1日だけではなく日本軍は善戦しており、弘安の役ではモンゴル軍が日本軍の防衛線を前に本格的に上陸することすらできなかった、と指摘しています。このように、日本側の奮戦を過小評価した理由として、信頼性の低い史料に依拠していたことが指摘されています。
●論点4「南朝はなぜすぐに滅びなかったのか」
本論考は、鎌倉幕府滅亡後、南北朝合一までの期間も室町幕府の形成期として把握する見解に、違和感を示しています。確かにこの期間の大半は北朝が南朝よりも圧倒的に優勢で、地方政権にすぎないとも言えるかもしれない南朝を全国政権と並べるのはおかしいとしても、南北朝の動乱を無視することにも違和感がある、というわけです。劣勢な南朝が50年以上命脈を保った理由として、幕府側が分裂の危機を内包していたことが大きかっただろう、と指摘されています。
●論点5「応仁の乱は画期だったか」
応仁の乱は日本史上における画期だったと内藤湖南は主張しましたが、権門体制や五山の崩壊など、確かにそうした側面が認められる、と本論考は指摘します。しかし一方で、大きく変容しつつも室町幕府は存続するなど、応仁の乱は画期といえども、その在り様は多角的・多面的だと本論考は指摘します。戦国時代の始まりについては、応仁の乱よりも明応の政変を画期とする見解が近年では有力で、戦国時代の終わりについては、まだ見解が集約されていない、と本論考は指摘します。
●論点6「戦国時代の戦争はどのようだったのか」
戦国大名の研究について、室町時代の守護との連続性を強調する傾向が見られる、と指摘しています。鎌倉時代と室町時代に得た権限をさらに発展させ、室町時代には不充分だった家臣団統制を強化していった、というわけです。本論考は、戦国大名の出自としては守護代が多かったことを指摘しています。戦国時代の戦争については、攻城戦が長引いていったように、兵農分離が進み、鉄砲の普及により変わっていった、と指摘されています。この論点6については、本書の解説がどこまで妥当なのか、今後時間のある時に検証していこうと考えています。
◎近世
●論点1「大名や旗本は封建領主か、それとも官僚か」
江戸時代の武士が封建領主というよりは官僚的性格の強い存在になっていたことが、給米取りが主流になっていったことや、大名の江戸在住が一般的になっていたことや、とくに初期には改易が珍しくなかったことなどから主張されています。また、家は身分役割に応じて厳然と存在したものの、個人の水準では比較的身分地域間の流動性が高かった、と指摘されています。
●論点2「江戸時代の首都は京都か、江戸か」
首都は君主(天皇)の所在地ではなく、内政外交の中心地なのだから、江戸時代の首都は京都ではなく江戸である、と主張されています。また、近現代の東京一極集中は江戸時代の有り様を継承しており、明治政府の最大派閥は薩摩でも長州でもなく旧幕府官僚だった、指摘されています。
●論点3「日本は鎖国によって閉ざされていた、は本当か」
近年では一般にも知られるようになったと思いますが、江戸時代には完全に国が鎖されていたわけではなく、長崎・薩摩・対馬・松前経由で「外国」と通じており、人々が「外国」の情報に接していたことが指摘されています。さらに本論考では、幕末の「開国」とはいっても、新たに開かれた4港は幕府の直轄領で、「鎖国」の延長だった、と指摘されています。
●論点4「江戸は「大きな政府」か、「小さな政府」か」
江戸幕府は基本的に「大きな政府」ではあったものの、5代将軍綱吉期や田沼意次が主導した時期のように、「小さな政府」を志向することもあった、と指摘されています。幕府は「大きな政府」と「小さな政府」の間を揺れ動いていた、というわけです。諸藩においても同様でしたが、「名君」と称されるような藩主の多くは「大きな政府」を志向した、と指摘されています。
●論点5「江戸の社会は家柄重視か、実力主義か」
8代将軍吉宗期が江戸時代の転機だったと指摘されています。じゅうらい、家ごとに職務遂行上の規定が継承されていたのですが、吉宗期に公文書システムが整備され、業務がずっと効率的になった、と指摘されています。本論考はこれを、近代官僚制の前提と評価しています。
●論点6「「平和」の土台は武力か、教育か」
江戸時代には教育が普及していき、識字率も向上したことで広範な階層での意思疎通が可能になるとともに、近代における義務教育の前提にもなった、と指摘されています。江戸時代の識字率向上の前提として、織田信長による兵農分離の進展が挙げられていますが、この評価については今後も時間を作って少しずつ調べていくつもりです。
●論点7「明治維新は江戸の否定か、江戸の達成か」
明治維新の要因としては、国内の矛盾・対立の激化よりも、対外圧力の方が重要だっただろう、と指摘されています。本論考では江戸時代と明治時代との連続性が強調されており、その前提として、江戸時代を通じて日本では均質化が進行し、ナショナリズム的観念が形成されていたからと指摘されています。
◎近代
●論点1「明治維新は革命だったのか」
幕末の攘夷については、全国的に共通した意思で、より長期的な視点の「大攘夷」とより短期的視点の「小攘夷」があり、「小攘夷」の立場の諸勢力が「大攘夷」へと変わっていった、と指摘されています。幕末の政治的功績については見直しが進められており、たとえば薩摩藩では、西郷隆盛や大久保利通だけではなく、小松帯刀の功績が大きかった、と指摘されています。幕府でも、開国を進めたのは井伊直弼の強権ではなく、その配下の現実的な若手幕臣で、井伊直弼は配下に押し切られた、と指摘されています。江戸時代と近代の連続性の問題については、地域秩序の面では非連続性が見られるものの、社会全体では高い連続性があった、と指摘されています。本論考はとくに、江戸時代における広範な知的ネットワークを重視し、それが近代化の前提となったことを指摘しています。ものであったとされていたもの
●論点2「なぜ官僚主導の近代国家が生まれたのか」
近代日本はプロイセンを模範に国家建設を進めたとされていましたが、議会制度におけるイギリスなど、各分野で広範な国々が模範とされた、と指摘されています。また、近代日本の法体系は政治的紛争を極小化する柔軟な構造を有し、行政の裁量権が大きかったので、議会を中心とした民主主義が育ちにくくなった、とも指摘されています。大日本帝国憲法下の統治体制についても柔軟性が指摘されており、権力が分立していましたが、それは属人的な調整に大きく依存しており、元老が減少していった後に問題となってきます。
●論点3「大正デモクラシーとは何だったのか」
「大正デモクラシー」は第二次世界大戦後に「発見」されました。大正デモクラシーでは政治参加の拡充、具体的には選挙権の拡大が目指され、普通選挙(とはいっても、女性の参政権はないわけですが)が実現しますが、これは第二次護憲運動の直接的成果というよりは、すでに政府内において広範に普通選挙の実現は必然視されていた、と指摘されています。大正デモクラシーの限界としては、普通選挙実現後の大きな目標と理想を描くにまではいたらなかったことが指摘されています。
●論点4「戦争は日本に何をもたらしたか」
近代日本は多くの戦争を経験しました。西南戦争では近代国民軍の成功が強く印象づけられました。日清戦争では国民意識の高揚が見られました。日露戦争では、メディアの役割が増大するとともに、戦傷者の増大が獲得した利益への固執をもたらしました。第一次世界大戦で、日本はイギリスをはじめとして他国から中国への野心を疑われ、これは国際政治における失敗でした。太平洋戦争に関しては、行政権の拡大と戦後への継承が指摘されています。
●論点5「大日本帝国とは何だったのか」
大日本帝国の拡大原理は安全保障にあったものの、権益の拡大という経済目的と結びついたことで、無限の膨張を引き起こした、と指摘されています。大日本帝国統合の中心とされた天皇は、大日本帝国憲法の権力分立構造に抱合され、天皇親政の建前と天皇不親政の実態との間で、天皇も制御できない国家が形成されました。
◎現代
●論点1「いつまでが「戦後」なのか」
「もはや戦後ではない」という1956年度『経済白書』の一節は、戦災からの復興という需要が一段落した日本にとって、今後どのようにして経済成長が可能なのか、という危機感の発露であった、と指摘されています。また、「戦後」の終焉に関して、高度経済成長期までに見られたような、成長や近代化を無批判に肯定する時代精神が終わった、1970年代を重視する見解も取り上げられています。
●論点2「吉田路線は日本に何を残したか」
日米安保により安全保障を達成し、軽武装・経済重視で高度経済成長の基礎を築いた、と吉田茂の路線は高く評価されています。しかし、吉田が首相の座を退き、鳩山一郎や岸信介といった戦前の実力者が復権して首相に就任した頃には、吉田の時代は終わった、とみなされていました。しかし、岸の次の首相の池田勇人は吉田直系で、池田とその次の首相の佐藤栄作の時期に高度経済成長期を迎えたことで、戦後の基礎を築いた大政治家としての吉田の評価は定まりました。
●論点3「田中角栄は名宰相なのか」
近年の意識調査では、田中角栄は戦後日本を象徴する政治家として認識されています。本論考は、田中が日中国交「正常化」といった功績を残した一方で、ロッキード事件に代表される金権政治が批判され、竹下派にも引き継がれた金権政治による二重支配といった「田中的政治」の克服が1990年代以降に強く主張され、田中派の流れをくむ派閥も小泉内閣以降に影響力が低下していった、と指摘しています。「田中的」政治で批判された金権政治については、公共事業が再分配的役割を果たした側面もあるものの、恣意的だったことも指摘されています。
●論点4「戦後日本はなぜ高度成長できたのか」
高度経済成長の前提として、財閥解体や農地改革などといった戦後の諸改革が指摘されています。一方で、こうした戦後の諸改革について、一般的には被占領国となったことが契機とされていますが、戦中の総力戦体制との連続性を指摘する見解も取り上げられています。また、対外的には、自由貿易体制の恩恵を受けたことが指摘されています。また近年では、人口ボーナスという観点も重視されています。高度経済成長期の内需と外需の貢献度に関しては、貿易立国という一般的な日本像とは異なり、他の主要国との比較でも、輸出よりも国内需要が大きかった、と指摘されています。
●論点5「象徴天皇制はなぜ続いているのか」
戦後の天皇は日本国・日本国民統合の象徴で、その地位は日本国憲法に規定されているように、日本国民の総意に基づいていることが指摘されています。それと関連して、国民統合は絶え間ない努力により初めて持続的・安定的となることが指摘されています。また、天皇の地位は日本国民の総意に基づいているので、旧皇族の復帰・即位により国民の支持が失われれば、そこで天皇制が終わるかもしれない、との懸念が取り上げられていることも注目されます。
◎古代
●論点1「邪馬台国はどこにあったのか」
この20年ほどは、邪馬台国は畿内にあった、もっと具体的には纏向遺跡だった、との見解が一般でもすっかり有力になった感があります。しかし本論考は、邪馬台国が当時の日本列島における最有力の権力だったという前提を疑うべきだ、と指摘します。この指摘は、以前からの私の見解とも通ずるので、同意します。本論考は、文献に見える邪馬台国は環濠集落で纏向遺跡とは異なるとして、邪馬台国は九州北部の倭国連合で、畿内には別の勢力(倭王権)が存在した、との見解を提示しています。この倭国連合において、邪馬台国は聖権力、伊都国が俗権力を代表していた、と本論考は推測しています。邪馬台国の具体的な所在地については、現在の福岡県久留米市・八女市・みやま市の一帯と推測されています。
●論点2「大王はどこまでたどれるか」
倭王権成立の指標として、箸墓古墳と相似形で規模のより小さな古墳が日本列島各地で築造されたことが挙げられています。倭王権盟主墳と考えられる前方後円墳は、大和盆地南東部→大和盆地北部→河内の古市古墳群および和泉の百舌鳥古墳群と移りますが、本論考は、盟主墳の場所と権力の中心は別のもので、盟主墳は外国使節を意識して場所が選定された、と推測しています。これら初期倭王権盟主墳の被葬者については、安易に記紀の「天皇」に比定してはならない、と本論考は注意を喚起しています。「皇統譜」の成立はおそらく7世紀になってからで、大王位の血縁的世襲も6世紀になってからだろう、と本論考は指摘しています。
●論点3「大化改新はあったのか、なかったのか」
本論考は、改新詔が大宝令の修飾を受けていることは明らかであるものの、原詔があったのは確かだろう、との見解を提示しています。ただ本論考は、改新詔が原詔をどこまで伝えているか、判断は難しい、とも指摘しています。それでも本論考は、乙巳の変に続いて一連の改革が進められたことは確実と指摘しています。本論考は乙巳の変の背景として、国際情勢の変動を挙げています。隋と唐という巨大な王朝の成立にどう対応すべきなのか、方針に違いがあったのではないか、というわけです。本論考は、乙巳の変を、大臣が独裁権力を握る高句麗方式を目指した蘇我入鹿と、女王を立てて、有力王族に権力を振るわせたうえで、地位の低い権臣が背後で権力を握るという新羅方式を目指した中臣鎌足(鎌子)との対立という図式で把握しています。乙巳の変で主導権を握っていたのは、父も祖父も即位したわけではない軽(孝徳)ではなく、中大兄と中臣鎌足だろう、と本書は推測しています。ただ、それならば中大兄の母である大王の皇極が弟の軽に位を譲る必要はあったのか、との疑問は残ります。
●論点4「女帝と道鏡は何を目指していたのか」
道鏡を天皇に即位させよ、との宇佐八幡神の神託がくだった、とされる事件は、皇族ではない人物が天皇に即位したかもしれないということで、特異な事例として注目されます。じゅうらい、この事件は道鏡主導だった、と語られていたのですが、近年では、称徳天皇の主導である、との見解が有力です。本論考は、奈良時代の天皇は天武皇統というより持統皇統で、それに拘った結果として即位した未婚の孝謙天皇の後継者をめぐる争いが、政治を混乱させていった、との見通しを提示しています。孝謙天皇は天皇大権を把握できないまま譲位し、藤原仲麻呂を打倒して重祚します(称徳天皇)。称徳天皇の治世でも、皇位継承が不安定な状況に変わりはなく、称徳天皇は、自身の主導する専制体制下で、仏教と天皇との共同統治体制を構想した、と本論考は推測しています。仏教と神祇思想が混淆した「天」により定められた人物であれば天皇に即位できると考え、道鏡を天皇に即位させようとした、というわけです。しかし、この構想は貴族層に受け入れられず、称徳天皇は後継者を決定しないまま死去します。
●論点5「墾田永年私財法で律令制は崩れていったのか」
墾田永年私財法により律令制は崩壊していった、との見解がかつては有力でしたが、本論考は、墾田永年私財法により律令国家の土地所有体制が後退したのではなく、むしろじゅうらいは充分に把握できていなかった未墾地と新墾田を土地支配体制のなかに組み込めた、と指摘しています。これにより、日本全体の水田の面積が増大していきました。そもそも、律令制は唐に倣ったもので、当時の日本社会の実情とは異なっており、平安時代中期に成立した王朝国家こそ、日本的な古代国家と評価されています。
●論点6「武士はなぜ、どのように台頭したのか」
武士の起源について、都との関わりも深く、初期の「武家の棟梁」とされる人物が、中央貴族の血筋で、地方に勢力を有しつつも完全には土着せず、官職や邸宅など都にも基盤を置いていた、と指摘されています。こうした平安時代の軍事貴族は、在地に大きな基盤を有していたわけではなく、軍事行動にさいてしても、朝廷から公認されなければ大規模な兵力を動員することも困難でした。平安時代末期の戦乱(いわゆる源平合戦)においてさえ、有力者たちの兵力のほとんどは国衙の指揮下にありました。平安時代の武士は、強訴を行なう寺社勢力への対策や、地方の紛争の解決に武士は不可欠な存在となっていき、やがて中央の政治に大きな影響力を有するようになります。本論考は、こうして「武士的なもの」が中世以降に日本史の主流となり、武士を善、貴族を悪とする価値観や、草深い東国の大地を善、腐敗した都を悪とする地域観が現代日本社会にも生き続けている、と指摘します。もちろん本論考も、「古代的・都的・貴族的なもの」がよいことばかりではないことも認めていますが、降伏してきた女性や子供も皆殺しにしてしまう発想は、儒教倫理を表看板にしている古代国家ではあり得ず、そうした古代的価値観は中世以降には京都の没落貴族にしかなかった、と指摘しています。本論考は近世以降についてとくに言及していませんが、そうした価値観に武士勢力が気づく(再発見する)のが近世という見通しを提示することも、可能かもしれません。
◎中世
●論点1「中世はいつ始まったか」
日本史において中世がいつ始まったのかという議論は、明治時代における近代史学の導入により始まりました。当初は、まず封建制が日本に存在したのか、議論になり、続いて、中世・近世といった呼称が登場しました。こうした議論は南北朝正閏問題を機に下火となり、再び盛んになったのは第二次世界大戦後でした。戦後、封建制の担い手は武士との認識が主流となり、中世は鎌倉時代から始まる、とされました。その後、権門体制論の提唱とそれをめぐる議論など研究が進展し、現在では、後三条天皇の即位と院政の始まりが時代の画期として認識されるようになっています。本論考は、寺社の強訴や地方の争乱など、天皇と摂関による統治体制では対応できない状況の出現が、院政を定着させたのだ、と論じています。
●論点2「鎌倉幕府はどのように成立したか」
鎌倉幕府の成立時期に関しては、大別すると、1180年の南関東における軍事政権の成立から1192年の源頼朝の征夷大将軍就任までの6説あり、東国国家論的立場と権門体制論的立場のどちらを支持するかで異なってくる、と本論考は指摘します。現在有力なのは、守護・地頭の任命権などを獲得した1185年の文治勅許を画期とする説です。御家人制は鎌倉幕府の基礎となりましたが、これとヨーロッパの封建制との類似性が、明治時代より注目されてきました。
●論点3「元寇勝利の理由は神風なのか」
文永の役と弘安の役で、日本は暴風雨により何とかモンゴルを退けることができ、戦闘では圧倒されていた、との見解が戦後歴史学では主流でしたが、本論考は、文永の役の戦闘は1日だけではなく日本軍は善戦しており、弘安の役ではモンゴル軍が日本軍の防衛線を前に本格的に上陸することすらできなかった、と指摘しています。このように、日本側の奮戦を過小評価した理由として、信頼性の低い史料に依拠していたことが指摘されています。
●論点4「南朝はなぜすぐに滅びなかったのか」
本論考は、鎌倉幕府滅亡後、南北朝合一までの期間も室町幕府の形成期として把握する見解に、違和感を示しています。確かにこの期間の大半は北朝が南朝よりも圧倒的に優勢で、地方政権にすぎないとも言えるかもしれない南朝を全国政権と並べるのはおかしいとしても、南北朝の動乱を無視することにも違和感がある、というわけです。劣勢な南朝が50年以上命脈を保った理由として、幕府側が分裂の危機を内包していたことが大きかっただろう、と指摘されています。
●論点5「応仁の乱は画期だったか」
応仁の乱は日本史上における画期だったと内藤湖南は主張しましたが、権門体制や五山の崩壊など、確かにそうした側面が認められる、と本論考は指摘します。しかし一方で、大きく変容しつつも室町幕府は存続するなど、応仁の乱は画期といえども、その在り様は多角的・多面的だと本論考は指摘します。戦国時代の始まりについては、応仁の乱よりも明応の政変を画期とする見解が近年では有力で、戦国時代の終わりについては、まだ見解が集約されていない、と本論考は指摘します。
●論点6「戦国時代の戦争はどのようだったのか」
戦国大名の研究について、室町時代の守護との連続性を強調する傾向が見られる、と指摘しています。鎌倉時代と室町時代に得た権限をさらに発展させ、室町時代には不充分だった家臣団統制を強化していった、というわけです。本論考は、戦国大名の出自としては守護代が多かったことを指摘しています。戦国時代の戦争については、攻城戦が長引いていったように、兵農分離が進み、鉄砲の普及により変わっていった、と指摘されています。この論点6については、本書の解説がどこまで妥当なのか、今後時間のある時に検証していこうと考えています。
◎近世
●論点1「大名や旗本は封建領主か、それとも官僚か」
江戸時代の武士が封建領主というよりは官僚的性格の強い存在になっていたことが、給米取りが主流になっていったことや、大名の江戸在住が一般的になっていたことや、とくに初期には改易が珍しくなかったことなどから主張されています。また、家は身分役割に応じて厳然と存在したものの、個人の水準では比較的身分地域間の流動性が高かった、と指摘されています。
●論点2「江戸時代の首都は京都か、江戸か」
首都は君主(天皇)の所在地ではなく、内政外交の中心地なのだから、江戸時代の首都は京都ではなく江戸である、と主張されています。また、近現代の東京一極集中は江戸時代の有り様を継承しており、明治政府の最大派閥は薩摩でも長州でもなく旧幕府官僚だった、指摘されています。
●論点3「日本は鎖国によって閉ざされていた、は本当か」
近年では一般にも知られるようになったと思いますが、江戸時代には完全に国が鎖されていたわけではなく、長崎・薩摩・対馬・松前経由で「外国」と通じており、人々が「外国」の情報に接していたことが指摘されています。さらに本論考では、幕末の「開国」とはいっても、新たに開かれた4港は幕府の直轄領で、「鎖国」の延長だった、と指摘されています。
●論点4「江戸は「大きな政府」か、「小さな政府」か」
江戸幕府は基本的に「大きな政府」ではあったものの、5代将軍綱吉期や田沼意次が主導した時期のように、「小さな政府」を志向することもあった、と指摘されています。幕府は「大きな政府」と「小さな政府」の間を揺れ動いていた、というわけです。諸藩においても同様でしたが、「名君」と称されるような藩主の多くは「大きな政府」を志向した、と指摘されています。
●論点5「江戸の社会は家柄重視か、実力主義か」
8代将軍吉宗期が江戸時代の転機だったと指摘されています。じゅうらい、家ごとに職務遂行上の規定が継承されていたのですが、吉宗期に公文書システムが整備され、業務がずっと効率的になった、と指摘されています。本論考はこれを、近代官僚制の前提と評価しています。
●論点6「「平和」の土台は武力か、教育か」
江戸時代には教育が普及していき、識字率も向上したことで広範な階層での意思疎通が可能になるとともに、近代における義務教育の前提にもなった、と指摘されています。江戸時代の識字率向上の前提として、織田信長による兵農分離の進展が挙げられていますが、この評価については今後も時間を作って少しずつ調べていくつもりです。
●論点7「明治維新は江戸の否定か、江戸の達成か」
明治維新の要因としては、国内の矛盾・対立の激化よりも、対外圧力の方が重要だっただろう、と指摘されています。本論考では江戸時代と明治時代との連続性が強調されており、その前提として、江戸時代を通じて日本では均質化が進行し、ナショナリズム的観念が形成されていたからと指摘されています。
◎近代
●論点1「明治維新は革命だったのか」
幕末の攘夷については、全国的に共通した意思で、より長期的な視点の「大攘夷」とより短期的視点の「小攘夷」があり、「小攘夷」の立場の諸勢力が「大攘夷」へと変わっていった、と指摘されています。幕末の政治的功績については見直しが進められており、たとえば薩摩藩では、西郷隆盛や大久保利通だけではなく、小松帯刀の功績が大きかった、と指摘されています。幕府でも、開国を進めたのは井伊直弼の強権ではなく、その配下の現実的な若手幕臣で、井伊直弼は配下に押し切られた、と指摘されています。江戸時代と近代の連続性の問題については、地域秩序の面では非連続性が見られるものの、社会全体では高い連続性があった、と指摘されています。本論考はとくに、江戸時代における広範な知的ネットワークを重視し、それが近代化の前提となったことを指摘しています。ものであったとされていたもの
●論点2「なぜ官僚主導の近代国家が生まれたのか」
近代日本はプロイセンを模範に国家建設を進めたとされていましたが、議会制度におけるイギリスなど、各分野で広範な国々が模範とされた、と指摘されています。また、近代日本の法体系は政治的紛争を極小化する柔軟な構造を有し、行政の裁量権が大きかったので、議会を中心とした民主主義が育ちにくくなった、とも指摘されています。大日本帝国憲法下の統治体制についても柔軟性が指摘されており、権力が分立していましたが、それは属人的な調整に大きく依存しており、元老が減少していった後に問題となってきます。
●論点3「大正デモクラシーとは何だったのか」
「大正デモクラシー」は第二次世界大戦後に「発見」されました。大正デモクラシーでは政治参加の拡充、具体的には選挙権の拡大が目指され、普通選挙(とはいっても、女性の参政権はないわけですが)が実現しますが、これは第二次護憲運動の直接的成果というよりは、すでに政府内において広範に普通選挙の実現は必然視されていた、と指摘されています。大正デモクラシーの限界としては、普通選挙実現後の大きな目標と理想を描くにまではいたらなかったことが指摘されています。
●論点4「戦争は日本に何をもたらしたか」
近代日本は多くの戦争を経験しました。西南戦争では近代国民軍の成功が強く印象づけられました。日清戦争では国民意識の高揚が見られました。日露戦争では、メディアの役割が増大するとともに、戦傷者の増大が獲得した利益への固執をもたらしました。第一次世界大戦で、日本はイギリスをはじめとして他国から中国への野心を疑われ、これは国際政治における失敗でした。太平洋戦争に関しては、行政権の拡大と戦後への継承が指摘されています。
●論点5「大日本帝国とは何だったのか」
大日本帝国の拡大原理は安全保障にあったものの、権益の拡大という経済目的と結びついたことで、無限の膨張を引き起こした、と指摘されています。大日本帝国統合の中心とされた天皇は、大日本帝国憲法の権力分立構造に抱合され、天皇親政の建前と天皇不親政の実態との間で、天皇も制御できない国家が形成されました。
◎現代
●論点1「いつまでが「戦後」なのか」
「もはや戦後ではない」という1956年度『経済白書』の一節は、戦災からの復興という需要が一段落した日本にとって、今後どのようにして経済成長が可能なのか、という危機感の発露であった、と指摘されています。また、「戦後」の終焉に関して、高度経済成長期までに見られたような、成長や近代化を無批判に肯定する時代精神が終わった、1970年代を重視する見解も取り上げられています。
●論点2「吉田路線は日本に何を残したか」
日米安保により安全保障を達成し、軽武装・経済重視で高度経済成長の基礎を築いた、と吉田茂の路線は高く評価されています。しかし、吉田が首相の座を退き、鳩山一郎や岸信介といった戦前の実力者が復権して首相に就任した頃には、吉田の時代は終わった、とみなされていました。しかし、岸の次の首相の池田勇人は吉田直系で、池田とその次の首相の佐藤栄作の時期に高度経済成長期を迎えたことで、戦後の基礎を築いた大政治家としての吉田の評価は定まりました。
●論点3「田中角栄は名宰相なのか」
近年の意識調査では、田中角栄は戦後日本を象徴する政治家として認識されています。本論考は、田中が日中国交「正常化」といった功績を残した一方で、ロッキード事件に代表される金権政治が批判され、竹下派にも引き継がれた金権政治による二重支配といった「田中的政治」の克服が1990年代以降に強く主張され、田中派の流れをくむ派閥も小泉内閣以降に影響力が低下していった、と指摘しています。「田中的」政治で批判された金権政治については、公共事業が再分配的役割を果たした側面もあるものの、恣意的だったことも指摘されています。
●論点4「戦後日本はなぜ高度成長できたのか」
高度経済成長の前提として、財閥解体や農地改革などといった戦後の諸改革が指摘されています。一方で、こうした戦後の諸改革について、一般的には被占領国となったことが契機とされていますが、戦中の総力戦体制との連続性を指摘する見解も取り上げられています。また、対外的には、自由貿易体制の恩恵を受けたことが指摘されています。また近年では、人口ボーナスという観点も重視されています。高度経済成長期の内需と外需の貢献度に関しては、貿易立国という一般的な日本像とは異なり、他の主要国との比較でも、輸出よりも国内需要が大きかった、と指摘されています。
●論点5「象徴天皇制はなぜ続いているのか」
戦後の天皇は日本国・日本国民統合の象徴で、その地位は日本国憲法に規定されているように、日本国民の総意に基づいていることが指摘されています。それと関連して、国民統合は絶え間ない努力により初めて持続的・安定的となることが指摘されています。また、天皇の地位は日本国民の総意に基づいているので、旧皇族の復帰・即位により国民の支持が失われれば、そこで天皇制が終わるかもしれない、との懸念が取り上げられていることも注目されます。
この記事へのコメント