山極寿一「自然と文化の間にあるジェンダー」

 本論文は碩学による分かりやすい解説となっており、たいへん有益だと思います。以下、本論文の見解について備忘録的にまとめます。家族は現代人の社会において普遍的に見られ、社会の基本的な組織ですが、他の霊長類には見られません。それは、家族が単独では存在できず、複数の家族が集まって共同体を作るという性質を持っているからです。「家族的」な集団や、「共同体的」な集団を作る霊長類は存在し、現代人と系統的に近い現生種のうち、ゴリラは前者、チンパンジーは後者の集団で暮らしています。しかし、「家族的」な集団と「共同体的」な集団を合わせた集団は、現生種では現代人にしか見られません。

 本論文はその理由として、家族と共同体が互いに相反する原理を持っているからだ、と指摘します。家族は基本的に繁殖を目的とし、子供の育成を主眼として、見返りを求めずに助け合う論理を共有しているのに対して、共同体は集団全体の利益保全を目的とし、そのために対等な関係を保ったり、階層性を作ったりしながら、義務や権利を付与し、利益を配分することに努力を注ぐので、相容れないことがある、というわけです。誰もがその役割に応じて対等に義務を負う共同体の中で、家族のように依怙贔屓の論理がまかり通れば争いが生じます。これを避ける工夫として、ゴリラは繁殖単位として雄と雌のつながりを重視したまとまりのよい小集団を、チンパンジーは雄同士の連合重視の離合集散性の高い大集団を形成します。ゴリラの小集団どうしが集まって共同体を形成することはありませんし、チンパンジーの大集団の中に家族的な小集団が分節することはありません。

 では、なぜ人間だけが、家族と共同体という相反する論理を持った社会を作れたのか、と本論文は問題提起し、文化ではなく、人類が類人猿との共通祖先から分岐し、独自な進化の道を歩んできた生物学上の理由が潜んでおり、それをさらに、制度という社会的な枠組みで強化したのが人間としての新たな出発点だった、という見通しを提示します。本論文は、ジェンダーという自然と文化をつなぐ概念が登場したのも、この頃だったに違いない、と推測しています。本論文はその理由を、ジェンダーは生物学的な性差に立脚しつつ、それを「人間にふさわしい社会性」という観点から乗り超えようとする試みだからと説明しています。では、その出発点がどのような進化の背景と必要性に基づいていたのか、という問題を本論文は検証しています。

 人間は霊長類の一系統です。霊長類は大きく原猿類と真猿類に、真猿類はサルと類人猿に分かれますが、人間も類人猿の一系統と言え、他の類人猿と共通する多くの生物学的な特徴を有しています。人間と他の類人猿との類似性は社会の特徴にも現れています。サルの多くの種では、雌が生涯生まれ育った群れを離れない母系的な社会が形成されます。しかし、類人猿では各系統で社会構造こそ異なるものの、雌が思春期になると親元を離れ、血縁関係にない雄との間に子供を儲けます。オランウータンは雄も雌も単独で暮らし、それぞれ縄張りをもって接していますが、雄は複数の雌の行動域を含む大きな縄張りを持っています。子供は母親だけに育てられ、思春期になると雄も雌も両親の行動域から分散していきます。ゴリラは1頭の雄が複数の雌とまとまりのよい小集団を作り、縄張りを持たずに他集団と接触しています。雄も雌も親の集団を出ていきますが、雌だけが他集団や単独で暮らしている雄に加入します。雄はしばらく単独で遊動した後、雌を誘い出して新しい集団を作りますが、親元を離れずに複雄群を作る地域もあります。チンパンジーは複数の雄と雌から構成される大集団を作り、雌だけが親元を離れて他集団へ移籍していきます。類人猿は、集合性では違いがあるものの、雌が親元を離れて繁殖するという点では共通の特徴を持っており、初期人類もこの特徴を持っていた、と示唆されます。

 この雌が移籍するという特徴は、繁殖や子供の成長に大きな影響をもたらしている、と明らかになってきました。霊長類は哺乳類の中でも、雌の体重を基準にした妊娠期間・出産間隔・授乳期間・成長期間が長いという、ゆっくりした生活史の特徴を有しています。類人猿の生活史はサルと比較するとさらにゆっくりしています。サルの中でも、雌が親元を離れて繁殖する種ではゆっくりした生活史を持つと明らかになっているので、これは雌が自分と子供の双方の生存を図る生活史戦略と考えられます。一般的に生活史はトレードオフ(交換)の関係にある特徴から成り立っています。子供の死亡率が高ければ多くの子供を産み、寿命が短ければ成長の早い子供を産みます。しかし、霊長類は親を長く生かすことにより、子供の生存率を高めるという方策をとったので、少子高齢という道を進みました。類人猿はまさにその典型です。

 しかし、そのゆっくりした生活史戦略により、類人猿は中期中新世以降に衰退していきます。もともと胃腸を特殊化せずに完熟した果実を好んで採食していた類人猿系統では、2000万年前にはサルの10倍以上の種が生息していました。しかし、中新世の後半に地球規模の寒冷・乾燥化が進んで熱帯雨林が縮小すると、葉や未熟果を効率的に消化でき、早く成長し繁殖できるサルたちのほうが優勢になりました。アフリカ大陸では現在、50種を超えるサルが生息しているのに対して、類人猿はわずか4種しか生き残っていません。人類の祖先は、この類人猿のゆっくりした生活史戦略を踏襲しつつ、多産という特徴を獲得したことにより、類人猿の進出できなかった草原へと生息域を拡大することができました。それが家族と共同体からなる人間独自の社会組織を作り、アフリカ大陸から全大陸へと拡散し、ついには70億以上の人口を抱えるまでに発展する素地を築きました。

 人類の祖先が草原へ進出できたのは、採食様式を変え、多産になったからだ、と本論文は指摘します。一年中豊かな食物が得られる熱帯雨林と違って、サバンナでは食物の種類も少なく分散している、というわけです。ただ、人類にとって熱帯雨林は、高温多湿で資源の不足している極限環境とも指摘されています(関連記事)。もっとも、初期人類とホモ属とでは、極限環境の条件もある程度違うでしょうが。その問題はさておき、本論文は直立二足歩行について、広く歩き回って食物を集め、それを安全な場所に持ち帰って仲間と食べることが選択圧になった可能性を指摘しています。食物を分配する行動は、類人猿にも南米に生息するマーモセット類にも見られます。もともとは育児に手がかかる子供に養育者が食物を与えることから始まり、それが成体の間に普及したのではないか、と本論文は推測しています。類人猿は子供の成長に時間がかかり、マーモセット類は双子や三つ子を産んで母親に負担がかかるので、雄や年長の子供が共同で育児をします。人間は、子供の成長が遅く、多産という二つの特徴を併せ持っています。そのため、食物分配が不可欠になり、成体の間に普及して日常的に社会関係を調整する手段になった、と本論文は推測しています。

 人類が多産になった理由として、草原で肉食獣による高い捕食圧を経験したからではないか、と本論文は指摘しています。熱帯雨林では木に登れば安全ですが、木のない草原では安全な避難場所は限られています。そのため、食物をその場で食べるのではなく、運んで安全な場所で食べることが直立二足歩行の選択圧となったわけですが、死亡率の増加を防ぐことは困難でした。捕食圧の効果を軽減するには多産が効率的です。その方法は、一度にたくさんの子供を産むか、出産間隔を縮めるかですが、類人猿に近縁な人類は後者の方向へと進みます。それには、幼児を早く離乳させて排卵を回復させることが必要です。類人猿の授乳期間は長く、オランウータンは7年、ゴリラは4年、チンパンジーは5年授乳します。これらの類人猿では離乳した時すでに永久歯が生えており、成体と同じものが食べられます。しかし、人間の幼児はせいぜい2年そこそこで離乳するもののが、永久歯は6歳にならないと生えてきません。その間、華奢な乳歯で、成体とは違う柔らかいものを食べねばなりません。もっとも、離乳時期も人類史において変わっていった可能性が高いとは思いますが。

 さらに、ホモ属系統では200万年前かその少し前から脳が大きくなり始めて、人間の子供の成長はさらに遅れることになりました。直立二足歩行により皿状に変形した骨盤は産道を広げられず、頭の小さな子供を産んで生後に脳を急速に成長させることが必要になりました。身体の成長に用いるエネルギーを脳に回したため、ますます身体の成長が遅れることになったわけです。ホモ属では、頭が大きく成長の遅い子供を多数抱えることになって母親の育児負担が高まり、共同育児が必要となりました。本論文は、人間の幼児が生まれた直後から大声で泣くのは、母親が幼児を手から離してしまうためで、幼児が天使のような微笑を浮かべるのは、誰にでも愛されるような選択圧のためではないか、と推測しています。一方、類人猿の幼児は生後1年間、母親の腕の中で育ち、めったに泣きません。人間の幼児は共同保育をされるように生まれてくるといっても過言ではないだろう、と本論文は指摘しています。

 この共同保育が、子供の成長に大きな影響を与えます。霊長類社会における親は、生物学的関係ではなく、養育関係で決まり、近親相姦回避の現象となって現れます。かつて、人間の家族は原始乱婚の時代から、親子や兄弟姉妹の間に近親相姦が禁止されるようになった、と考えられていました。しかし、この説が登場した19世紀には、まだ人間以外の霊長類の性行動はまったく調べられておらず、乱交社会だと勝手に想像されていたにすぎない、と本論文は指摘します。20世紀後半になって野生や飼育群で研究が進むと、霊長類では一般的に母系的血縁関係にある異性は交尾をしない、と明らかになってきました。乱交どころか、見事に近親相姦が避けられていたわけです。

 しかし、父系的な血縁関係については確証が得られないため、近親相姦の回避が生まれつきの血縁認識によるのか、生後何らかの経験を経て生まれるのか、よく分かっていませんでした。1980~1990年代にDNAを用いての親子判別法が発達し、血液や毛髪や糞などの試料から血縁が解析されるようになりました。血縁を判別したうえで性交渉を調査すると、母系制のサル社会では、父系的血縁にある異性の間では近親相姦が普通に起こっている、と明らかになりました。しかし、血縁関係になくても、幼児期に親密な関係にあった異性の間には交尾が起こらないことも明らかになりました。雄が乳児や幼児の世話をよく焼くバーバリマカクでは、雄が一日に6分以上毛づくろいなどの親和的な接触を6ヶ月続ければ、その幼児が大人の雌となっても性交渉が避けられます。また、アカゲザルの幼児を生後すぐに別の雌に育てさせると、両者の間にも交尾が起きない、と明らかになってきました。つまり、近親相姦の回避は産みの親ではなく育ての親との間に起きるわけです。

 類人猿の雌たちは、この近親相姦回避傾向のために、生まれ育った集団を離れ、血縁関係のない雄を最初の繁殖相手として選びます。近親相姦の回避は、非母系社会においては雌の移動を促進します。近親相姦を禁止する制度により、人間の家族には性交渉が許される異性と禁止される異性が共存します。しかし、この制度がなくても、霊長類では一般的に、子育てを介して近親相姦は回避されています。人間社会にこれが制度として必要だったのは、複数の家族が集まって共同体を作り、子育てを家族間の共同作業としたからではないか、と本論文は推測しています。レヴィ・ストロースの指摘するように、女性を交換のシステムに乗せるため、制度によって配偶者の不足を作り出す必要が生じたからだ、というわけです。

 本論文は、育児における性別役割は生物学的な特徴の上に作られてはいるものの、代替可能なものであるということが重要だ、と指摘します。そこで必要なのは、育児を通した関係に性的衝動が生じないようにすることです。それが、生物学的な血縁関係ではなく、生後の育児という交渉を介して経験的に作られるというところに、人間家族が多様になる萌芽が潜んでいる、と本論文は指摘します。19世紀の終わりに、エドワード・ウェスターマークは、幼児期に親密な関係にあった男女は思春期を迎えても性衝動を覚えない、という説を提唱しました。しかし、同時期にエディプスコンプレックス(幼児はまず異性の親に性衝動を覚え、それを同性の親に禁止されます)を提唱したフロイトに黙殺されました。ウェスターマーク説は、20世紀後半になってエリック・ウルフの台湾の幼児婚の研究によって復活し、ウェスターマーク効果という用語を与えられました。幼児期の異性との親和的な接触は、幼児の性的な成長に大きな影響を及ぼす、というわけです。

 人間の家族と共同体は、類人猿から引き継いだゆっくりした子供の成長と、危険な環境に暮らして獲得した多産を成り立たせるための社会組織です。そこでは外婚制を維持するために近親相姦を制度化し、女性の移動を促進する仕組みを作り出す必要がありました。しかし、もともと生後の子育てを介した経験によって後天的に作られるこの性向は、育ての親を重視した代替可能な家族を人間にもたらしました。そこには性的な衝動を排した擬制の親子関係が成り立つ、と示唆されます。血縁関係のない親でも、片親でも、同性婚の親でも、家族と共同体という共同子育ての仕組みがあれば、子供は性的な衝動を向けられることのない環境で思春期を迎えられるわけです。生命科学の発展やジェンダーフリーの社会により、今後はますます生物学的血縁のつながりのない家族が増えていくでしょう。しかし、家族と共同体が人間に独特な繁殖と成長の特徴によって生み出されたという進化の歴史を忘れなければ、子供の成長に支障は起こらない、と本論文は指摘します。人間の自然と文化をつなぐ社会を構想するところに、現代のジェンダーを考える意義はある、というわけです。

 以上、本論文の内容について備忘録的に取り上げてきました。さすがに碩学の論文だけに、広く深い解説になっていると思います。多岐にわたって重要な論点が提示されていますが、それらをさらに掘り下げていくような見識と気力は今の私にはなく、矮小化してしまいますが、近年の関心の一つを取り上げることにします。本論文は、類人猿系統における共通の特徴として、雌が親元を離れて繁殖することを挙げています。私は以前から、人類社会はもともと母系制的だった、との見解に疑問を抱いていましたが、それは、更新世以前の人類社会に関して、母系制的だったことを示唆する直接的証拠がない一方で、父系的だったことを示唆する直接的証拠は、まだ検証の余地はあるにしても複数提示されているからです(関連記事)。「本来の」人類社会が母系制的だったという説を前提として、原始的な母系社会が「発展」して父系社会が到来した、というような唯物史観的見解を常識とするのは、もう止めるべきだと思います。

 こうした唯物史観的な母系制社会説は、遅れた母系制と進んだ父系性というような差別観念を助長してきたのではないか、と私は考えています。もちろん、人類社会が元々は母系制的だったとすれば、それは広く知られるべきではありますが、父系性への移行は社会の「発展」の結果なのか、そもそも「発展」とは何なのか、といった根源的な問いかけを常に伴うべきでしょう。まあ、人類社会は元々母系制的だったという前提自体が高い確率で間違いでしょうから、間違った認識を前提とした見解に大きな問題があると言うべきなのでしょう。また、唯物史観的な「原始社会」乱婚説も、間違いである可能性が高いと思います(関連記事)。この問題に関しては、気になる参考文献をいくつか読み、まとめるつもりなのですが、人類進化に関する問題のなかで優先度が最上位というわけではないので、目途がまったく立っていません。まあ、私の能力・見識・性分の問題も大きいのですが。


参考文献:
山極寿一(2017)「自然と文化の間にあるジェンダー」『学術の動向』第22巻11号P18-23
https://doi.org/10.5363/tits.22.11_18

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