6世紀後半~7世紀前半のアレマン人のゲノム解析
6世紀後半~7世紀前半のアレマン人のゲノム解析結果を報告した研究(O’Sullivan et al., 2018)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。アレマン人は紀元後3~8世紀にライン川上流東部盆地およびその周辺地域に居住していたゲルマン人部族連合体で、ゴート族と遠縁とされています。アレマン人はしばしばローマ帝国と衝突し、西ローマ帝国の滅亡後の497年に、メロヴィング朝フランク王国のクローヴィス1世(Clovis I)により征服されました。
本論文は、アレマン人の墓地で発見された人類遺骸のゲノムを解析しました。紀元後580~630年頃と推定されているこの墓地はドイツ西部のニーダーシュトツィンゲン(Niederstotzingen)にあり、1962年に発見されました。この墓地には1~12号の墓があります。8号墓と11号墓にはそれぞれウマが1頭と2頭葬られており、7号墓に葬られている個体は不明ですが、その他の墓には人間が葬られています。各墓には基本的に1人ずつ葬られていますが、3号墓と12号墓には3人ずつ葬られています。これらの墓に応じて埋葬者も分類されています(1、3A、12Bなど)。この合計13人の被葬者は、成人が10人、子供が3人(推定年齢は、0.5~2歳、2歳、9~11歳)で構成されています。
ストロンチウムおよび酸素同位体の分析から、被葬者3Bと10を除いて全員がニーダーシュトツィンゲン周辺地域の出身と推定されています。3Bと10は、スイス・ドイツ間のアルプス山麓出身と推定されています。1人のみおよび複数人が葬られている複数の墓があることから、全員が同時に葬られたわけではない、と考えられています。また、この墓地では、武器・防具・宝石・馬具など多くの副葬品が発見されており、保存状態は良好です。これらの副葬品は、ビザンティン・ランゴバルド・フランクとの関連が指摘されています。こうした豪華な副葬品からも、被葬者は戦士貴族層だったと考えられます。したがって、この墓地は紀元後6~7世紀のアレマン人社会全体の傾向を反映しているわけではないだろう、と指摘されています。これらの埋葬者には外傷や疾患の兆候が見られないため、死因は不明です。この墓地の埋葬者の死因に関しては、ペストが原因のユスティニアヌス疫病の可能性も指摘されていましたが、疫病バクテリアやペスト菌と一致するDNAの痕跡は見つからず、埋葬者の死因は不明のままです。
DNA解析の結果、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループに関しては、被葬者13人全員が分類されました。たとえば、4・9・12BはX2b4に、1・3AはK1aに、2・5はK1a1b2a1aに分類されます。Y染色体DNAでも、10人が各ハプログループに分類されました。そのうち8人は、現代ヨーロッパ西部で最も高い頻度(70%以上)であるR1bに分類されます。この8人のうち5人は、同じサブグループR1b1a2a1a1c2b2b1a1に分類されます。被葬者3Bは、現代ヨーロッパの北部・西部・東部では稀(5%以下)であるものの、コーカサスでは高頻度(70%以上)で、ヨーロッパ南部や近東で10~15%見られるG2a2b1に分類されます。
被葬者3C・6・12Cの骨格は華奢なので、以前には女性とも推定されていましたが、Y染色体DNAが確認され、男性と確定しました。また、Y染色体ハプログループが特定されなかった3人も、X染色体と常染色体の一塩基多型の比率から、男性と推定されています。被葬者は全員男性というわけです。これは、当時の埋葬における軍事的機能や貴族の社会的構造を反映しているかもしれません。ヨーロッパでは古代末期に同様の埋葬パターンが見られます。これは、当時の埋葬における軍事的機能や貴族の社会的構造を反映しているかもしれません。
ゲノム規模のデータが得られた8人のうち、6人(1・3A・6・9・12B・12C)はヨーロッパ北部・東部・中央部の現代人と遺伝的類似性を示しています。一方、被葬者3Bおよび3Cは、ヨーロッパ南部・地中海東部の現代人との遺伝的類似性を示しています。しかし、3Bと3Cは相互に近い系統関係ではありません。北方系6人のうち、12Cを除いて5人は親族関係にあると推定されています。具体的には、9と12Bが兄弟、9の息子が3Aと1、1の息子が6と推定されています。これら親族関係にある5人の副葬品のうち、3Aと12Bがビザンティン、6がランゴバルド、9がフランクと関連している、と指摘されています。当時のアレマン人社会においては、親族関係にはあっても、多様な文化を取り入れていたことが窺えます。
上述したように、3Bおよび10は他地域で育った、と推定されています。3Bは遺伝的にもヨーロッパ南部・地中海東部の現代人と近いので、他地域の部族集団からアレマン人社会に迎え入れられた、と考えられます。文化的にも遺伝的にも、当時のアレマン人社会貴族層は外部に開かれていた、と考えられます。一方、3Cは遺伝的にはアレマン人とは遠い関係にある一方で、同位体分析ではアレマン人社会で育った、と推定されています。3Cは人質として子供時代にアレマン人社会貴族層に迎え入れられた、とも考えられます。当時の民間伝承では、部族間で子供を人質として交換していた、と語られています。埋葬者のうち何人かが子供の人質として北方に連れてこられたとすると、養子関係を結んだ部族に戦士として育てられたでしょう。しかし、同盟関係悪化のさいは、部族間交渉において人質とされることもありました。もっとも、こうした慣行が広範だったのか明らかではない、とも指摘されています。
上述したように、この墓地は戦士貴族層のものと思われるので、アレマン人社会全体の傾向を反映しているわけではない、と考えられます。遺伝的・文化的な「外部社会」への「開放性」は、民衆においても同様だったのか定かではない、というわけです。今後は、より広範な階層の人々の古代DNA解析の進展が期待されます。それにしても、ヨーロッパの古代DNA研究の進展は本当に目覚ましく、日本人の私から見ると羨ましい限りです。今後、日本列島、さらには東アジアでも、古代DNA研究が飛躍的に発展することを期待しています。
参考文献:
O’Sullivan N. et al.(2018): Ancient genome-wide analyses infer kinship structure in an Early Medieval Alemannic graveyard. Science Advances, 4, 9, eaao1262.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aao1262
本論文は、アレマン人の墓地で発見された人類遺骸のゲノムを解析しました。紀元後580~630年頃と推定されているこの墓地はドイツ西部のニーダーシュトツィンゲン(Niederstotzingen)にあり、1962年に発見されました。この墓地には1~12号の墓があります。8号墓と11号墓にはそれぞれウマが1頭と2頭葬られており、7号墓に葬られている個体は不明ですが、その他の墓には人間が葬られています。各墓には基本的に1人ずつ葬られていますが、3号墓と12号墓には3人ずつ葬られています。これらの墓に応じて埋葬者も分類されています(1、3A、12Bなど)。この合計13人の被葬者は、成人が10人、子供が3人(推定年齢は、0.5~2歳、2歳、9~11歳)で構成されています。
ストロンチウムおよび酸素同位体の分析から、被葬者3Bと10を除いて全員がニーダーシュトツィンゲン周辺地域の出身と推定されています。3Bと10は、スイス・ドイツ間のアルプス山麓出身と推定されています。1人のみおよび複数人が葬られている複数の墓があることから、全員が同時に葬られたわけではない、と考えられています。また、この墓地では、武器・防具・宝石・馬具など多くの副葬品が発見されており、保存状態は良好です。これらの副葬品は、ビザンティン・ランゴバルド・フランクとの関連が指摘されています。こうした豪華な副葬品からも、被葬者は戦士貴族層だったと考えられます。したがって、この墓地は紀元後6~7世紀のアレマン人社会全体の傾向を反映しているわけではないだろう、と指摘されています。これらの埋葬者には外傷や疾患の兆候が見られないため、死因は不明です。この墓地の埋葬者の死因に関しては、ペストが原因のユスティニアヌス疫病の可能性も指摘されていましたが、疫病バクテリアやペスト菌と一致するDNAの痕跡は見つからず、埋葬者の死因は不明のままです。
DNA解析の結果、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループに関しては、被葬者13人全員が分類されました。たとえば、4・9・12BはX2b4に、1・3AはK1aに、2・5はK1a1b2a1aに分類されます。Y染色体DNAでも、10人が各ハプログループに分類されました。そのうち8人は、現代ヨーロッパ西部で最も高い頻度(70%以上)であるR1bに分類されます。この8人のうち5人は、同じサブグループR1b1a2a1a1c2b2b1a1に分類されます。被葬者3Bは、現代ヨーロッパの北部・西部・東部では稀(5%以下)であるものの、コーカサスでは高頻度(70%以上)で、ヨーロッパ南部や近東で10~15%見られるG2a2b1に分類されます。
被葬者3C・6・12Cの骨格は華奢なので、以前には女性とも推定されていましたが、Y染色体DNAが確認され、男性と確定しました。また、Y染色体ハプログループが特定されなかった3人も、X染色体と常染色体の一塩基多型の比率から、男性と推定されています。被葬者は全員男性というわけです。これは、当時の埋葬における軍事的機能や貴族の社会的構造を反映しているかもしれません。ヨーロッパでは古代末期に同様の埋葬パターンが見られます。これは、当時の埋葬における軍事的機能や貴族の社会的構造を反映しているかもしれません。
ゲノム規模のデータが得られた8人のうち、6人(1・3A・6・9・12B・12C)はヨーロッパ北部・東部・中央部の現代人と遺伝的類似性を示しています。一方、被葬者3Bおよび3Cは、ヨーロッパ南部・地中海東部の現代人との遺伝的類似性を示しています。しかし、3Bと3Cは相互に近い系統関係ではありません。北方系6人のうち、12Cを除いて5人は親族関係にあると推定されています。具体的には、9と12Bが兄弟、9の息子が3Aと1、1の息子が6と推定されています。これら親族関係にある5人の副葬品のうち、3Aと12Bがビザンティン、6がランゴバルド、9がフランクと関連している、と指摘されています。当時のアレマン人社会においては、親族関係にはあっても、多様な文化を取り入れていたことが窺えます。
上述したように、3Bおよび10は他地域で育った、と推定されています。3Bは遺伝的にもヨーロッパ南部・地中海東部の現代人と近いので、他地域の部族集団からアレマン人社会に迎え入れられた、と考えられます。文化的にも遺伝的にも、当時のアレマン人社会貴族層は外部に開かれていた、と考えられます。一方、3Cは遺伝的にはアレマン人とは遠い関係にある一方で、同位体分析ではアレマン人社会で育った、と推定されています。3Cは人質として子供時代にアレマン人社会貴族層に迎え入れられた、とも考えられます。当時の民間伝承では、部族間で子供を人質として交換していた、と語られています。埋葬者のうち何人かが子供の人質として北方に連れてこられたとすると、養子関係を結んだ部族に戦士として育てられたでしょう。しかし、同盟関係悪化のさいは、部族間交渉において人質とされることもありました。もっとも、こうした慣行が広範だったのか明らかではない、とも指摘されています。
上述したように、この墓地は戦士貴族層のものと思われるので、アレマン人社会全体の傾向を反映しているわけではない、と考えられます。遺伝的・文化的な「外部社会」への「開放性」は、民衆においても同様だったのか定かではない、というわけです。今後は、より広範な階層の人々の古代DNA解析の進展が期待されます。それにしても、ヨーロッパの古代DNA研究の進展は本当に目覚ましく、日本人の私から見ると羨ましい限りです。今後、日本列島、さらには東アジアでも、古代DNA研究が飛躍的に発展することを期待しています。
参考文献:
O’Sullivan N. et al.(2018): Ancient genome-wide analyses infer kinship structure in an Early Medieval Alemannic graveyard. Science Advances, 4, 9, eaao1262.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aao1262
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