聖徳太子関連の記事のまとめ

 ブログ開始前の分も含めて、聖徳太子関連の記事をまとめてみます。関連記事一覧は本文の後に掲載します。聖徳太子といえば、大山誠一氏の架空人物説が一般層にもかなり浸透したように思います。大山氏の一般向け著書である『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館、1999年)が刊行されてから20年近く経過し、この間、民放キー局・全国紙・発行部数の多そうな雑誌などでそれなりの回数取り上げられことが大きかったのでしょう。私もかつては、疑問を呈しつつも、大山説、とくに聖徳太子関連の史料批判にはおおむね同意していました。今となっては恥ずかしい限りですが。

 その後、当初より大山説の弱点だと考えていた聖徳太子の創作者とその理由についてはもろちん、大山説の史料批判(その大半は、大山氏の独創というよりは先行研究の参照でしたが)についても、問題のあることが指摘されています。たとえば、大山説では『三経義疏』が聖徳太子の作ではなく、中華地域での作であることは自明視されていますが、『三経義疏』における仏教理解の古さと変格漢文の使用から、日本(倭)人の作であり、聖徳太子の作とは断定できないものの、その可能性は高い、との見解も提示されています。

 また、大山説では、「聖徳太子」という表記は誤りで、「厩戸王」が正しいとされ、教科書にも影響を与えていますが、「厩戸王」が江戸時代後期まで見られない表記なのに対して、「聖徳太子」は8世紀半ば頃成立の『懐風藻』に見えます。さらに、『日本書紀』には「聖徳太子」という名称そのものはありませんが、「敏達紀(巻廿)」には「東宮聖徳」、「推古紀(巻廿二)」には「上宮太子」とあるので、『日本書紀』成立の頃には、「聖徳太子」という表記が用いられる要素は出そろっていた、と言えそうです。

 もっとも、「聖徳太子」よりも「厩戸王」の方がまだしも妥当な表記だ、との見解にも一定以上の説得力があるかもしれません。通説とまでは言えないかもしれませんが、7世紀初頭のヤマト政権には後世の皇太子制のようなものはなかった、との見解が有力だと思われるからです。その意味で、太子という表記は適切とは言えないかもしれません。もっとも、これもすでに多くの人が指摘しているでしょうが、それならば、「欽明天皇」や「推古天皇」のような表記も問題視されるべきではあるでしょう(天皇号の成立については、天武朝説が有力ではあるものの、それよりも前との説も根強くあるようです)。ただ、『隋書』によると、当時の倭国には太子が存在したことになっています。これが中華王朝の知識層の常識(皇帝や王などの君主がいるならば太子もいるだろう)による誤認なのか、当時すでに後の皇太子制に類似したものがあったのか、門外漢には判断の難しいところです。

 それはさておき、元服・出家・還俗など人生の節目に新たな名を名乗ることの多かった前近代の日本の人物を、高校までの教育の水準において「当時の(正しい)名前」で表記することに拘るのにあまり意味があるとも思えないので、「聖徳太子」から「厩戸王」に表記を変更したり、両者を併記したりする必要はなく、「聖徳太子」のままでよいのではないか、と思います。「聖徳太子」表記の問題に関して、大山説は歴史教育を混乱させただけではないか、と私は考えています。

 もっとも、『日本書紀』では、後世の作文ではないかとも疑われている十七条憲法は聖徳太子の作と明示されているのにたいして、準同時代史料の『隋書』で確認のとれる冠位十二階や遣隋使については聖徳太子の関与が明示されていないことなど、通俗的に漠然と思い描かれてきた聖徳太子像を見直す必要はあるでしょう。しかし、だからといって、「聖徳太子」は「架空の人物」だったとの見解は妥当ではないでしょう。以下、聖徳太子関連の記事の一覧です。


大山誠一『聖徳太子と日本人』(前編)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/read005.htm

大山誠一『聖徳太子と日本人』(後編)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/read006.htm

聖徳太子架空人物説
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/history033.htm

中日新聞社説で取り上げられた聖徳太子非実在説
https://sicambre.seesaa.net/article/200802article_15.html

遣隋使をめぐる『隋書』と『日本書記』の相違について
https://sicambre.seesaa.net/article/200803article_12.html

新川登亀男『聖徳太子の歴史学』
https://sicambre.seesaa.net/article/200803article_33.html

遠山美都男『蘇我氏四代の冤罪を晴らす』
https://sicambre.seesaa.net/article/200901article_22.html

最近の聖徳太子研究
https://sicambre.seesaa.net/article/201011article_2.html

遠山美都男『聖徳太子の「謎」』
https://sicambre.seesaa.net/article/201303article_1.html

聖徳太子は実在せず? 高校日本史教科書に「疑う」記述
https://sicambre.seesaa.net/article/201303article_30.html

『週刊新発見!日本の歴史』第3号「飛鳥時代1 蘇我氏と大王家の挑戦」
https://sicambre.seesaa.net/article/201307article_6.html

遠山美都男『敗者の日本史1 大化改新と蘇我氏』
https://sicambre.seesaa.net/article/201311article_38.html

篠川賢『日本古代の歴史2 飛鳥と古代国家』
https://sicambre.seesaa.net/article/201312article_10.html

石井公成 『聖徳太子 実像と伝説の間』
https://sicambre.seesaa.net/article/201602article_3.html

吉川真司『シリーズ日本古代史3 飛鳥の都』
https://sicambre.seesaa.net/article/201605article_3.html

吉田一彦『シリーズ<本と日本史>1 『日本書紀』の呪縛』
https://sicambre.seesaa.net/article/201702article_4.html

歴史は妄想であってはならない(「聖徳太子」表記をめぐる議論)
https://sicambre.seesaa.net/article/201703article_20.html

瀧浪貞子『光明皇后 平城京にかけた夢と祈り』
https://sicambre.seesaa.net/article/201711article_12.html

『日本書紀』には聖徳太子の遣隋使への関与は明記されていない
https://sicambre.seesaa.net/article/201810article_52.html

民主主義は憲法十七条以来の日本の伝統
https://sicambre.seesaa.net/article/201810article_63.html

日本の多様性
https://sicambre.seesaa.net/article/201909article_10.html

関根淳『六国史以前 日本書紀への道のり』
https://sicambre.seesaa.net/article/202102article_6.html

吉村武彦『新版 古代天皇の誕生』
https://sicambre.seesaa.net/article/202109article_18.html

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  • 『日本書紀』には聖徳太子の遣隋使への関与は明記されていない

    Excerpt: 聖徳太子についてのまとめ(関連記事)など、当ブログでは何度か述べてきましたが、改めて強調したいのは、『日本書紀』には聖徳太子の遣隋使への関与は明記されていない、ということです。もっとも、『日本書紀』に.. Weblog: 雑記帳 racked: 2018-10-25 16:40
  • 民主主義は憲法十七条以来の日本の伝統

    Excerpt: 自民党筆頭副幹事長にして元防衛相の稲田朋美衆院議員の、衆院本会議での代表質問が話題になっています。該当部分を映像で確認すると、 Weblog: 雑記帳 racked: 2018-10-30 17:53