筒井清忠編『昭和史講義 【軍人篇】』
ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2018年7月に刊行されました。筒井清忠編『昭和史講義─最新研究で見る戦争への道』(関連記事)と筒井清忠編『昭和史講義2─専門研究者が見る戦争への道』(関連記事 )と筒井清忠編『昭和史講義3─リーダーを通して見る戦争への道』(関連記事)の続編となります。いずれも好評だったのか、続編が刊行されたのは喜ばしいことです。編者による「まえがき」は、昭和時代の陸軍の派閥抗争についての完結な解説になっており、参考になります。本書もたいへん有益だったので、続編が望まれます。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。
●筒井清忠「昭和陸軍の派閥抗争─まえがきに代えて」P9~34
太平洋戦争が始まる直前までの昭和期の陸軍の動向が、派閥抗争という視点で解説されています。この期間で有名なのは統制派と皇道派ですが、両者はそもそも、総力戦体制を志向し、長州閥、さらにはそれを継承したとも言える準長州閥の宇垣一成を批判する、革新志向勢力と言えます。それが、革新志向勢力に歓迎された荒木貞夫陸相の政治力のなさへの対応などから統制派と皇道派に分裂して派閥抗争が激化していき、二・二六事件で皇道派は没落します。しかし、その後は統制派の天下になったのかというと、旧統制派内でも派閥抗争が続き、とても統制派の支配下にあるとは言えない状況でした。本論考は、こうした派閥抗争の要因として、個人の役割も無視できないものの、中堅幕僚グループの動向・雰囲気が大きかったのではないか、と指摘しています。満洲事変で強硬策を主張した石原莞爾が日中戦争では不拡大策をとろうとしても下から突き上げられて失敗し、日中戦争で強硬策を主張した武藤章が対米開戦を回避しようとしても下から突き上げられて失敗したように、陸軍の下剋上的雰囲気のなかで、中堅幕僚グループからの突き上げが、将官級の動向を制約したのではないか、というわけです。中堅幕僚グループのそうした動向には、功名心もあったのでしょう。
第1講●武田知己「東条英機─昭和の悲劇の体現者」P35~52
東条英機の政治家としての限界が解説されています。東条にとっての政治とは、あくまで上下関係や威嚇を背後に進められる軍隊式の意思決定・伝達方式に基づいての、自らの意向・主張の貫徹を意味した、と本論考は指摘します。つまり東条には、異なる利害関係や世界観を総合させ、新たな社会や政治を共に創造していくという観点が欠けていた、というわけです。東条は米英の非妥協的姿勢を開戦の要因と主張し続けましたが、それも東条の政治観に起因するものでした。ただ、本論考は、こうした限界は東条個人に限らず昭和期の政治中枢に共通する問題だった、とも指摘しています。
第2講●庄司潤一郎「梅津美治郎─「後始末」に尽力した陸軍大将」P53~70
梅津美治郎は幼年学校時代から成績優秀で、陸軍で出世していきました。梅津が出世していった頃、陸軍では派閥抗争が激化していきましたが、梅津は終始一貫して無派閥を貫きました。梅津は冷徹と評された人物でしたが、それだけ自分を抑制できた、ということなのでしょう。本論考はそうした個性の梅津を、「後始末」に尽力したと評価しています。二・二六事件からノモンハン事件、さらには終戦という日本にとっての一大転機に、梅津は「後始末」を無難に行ない、昭和天皇から厚く信頼された、と本論考は指摘します。
第3講●波多野澄雄「阿南惟幾─徳義即戦力」を貫いた武将」P71~86
阿南惟幾は、成績優秀というわけではなかったものの、物静かで礼節を弁えた人物で、その人格は高く評価されていたようです。そのような個性の人物だけに、阿南は軍人の政治への関与には消極的というか、批判的だったようです。その阿南が戦局の傾いた時期に陸相に任命された理由として、高潔な人格とともに、精神主義を一貫して唱えていたこともあったようです。傾いた戦局の打開には、阿南の精神主義が必要と考えられた、というわけです。まあ、貧すれば鈍する、といった感じではありますが。阿南は陸相として強硬な主張を続けましたが、辞表を提出しなかったことからも、すでに長期的な抗戦は無理と判断していただろう、と推測されています。
第4講●高杉洋平「鈴木貞一─背広を着た軍人」P87~104
頭脳明晰な鈴木貞一は陸軍で順調に出世していきましたが、舞台勤務の経験は少なく、中央でのデスクワークの多い異色の軍人でした。そもそも、鈴木は鴨緑江の森林開発を志して一高から東大に進学しようと考えていたそうです。鈴木の陸軍での立場は、皇道派と統制派の対立が激化すると悪化していき、陸軍での出世は望めなくなりました。鈴木は統制派の永田鉄山の思想に共鳴していたものの、皇道派の荒木貞夫にも同情的で、派閥抗争を調停しようとしたものの、失敗します。しかし、以前から政治志向の強かった鈴木は近衛文麿とも親交があり、その縁で政界に進出し、第二次近衛内閣では企画院総裁に任命されます。ここでの鈴木は、対米開戦に賛成とも反対ともとれるような態度を示し、後世のみならず同時代の人々からも評判が悪かったのですが、本論考は、鈴木の曖昧な態度は、対米妥協も戦争もせず、経済制裁は甘受するという「臥薪嘗胆論」を排除するという点では一貫していた、と指摘します。
第5講●高杉洋平「武藤章―─「政治的軍人」の実像」P105~122
武藤章は日中戦争前から開戦後間もない頃までは強硬策を主張し、対中戦争回避・不拡大論を主張した石原莞爾と対立しました。その武藤も、中国戦線でのナショナリズムの高揚を見て、自分の判断が間違っていたと悟ります。武藤は日中戦争終結のため、「国防国家」の建設に邁進します。武藤の構想は、議会と政党に肯定的で、一党体制に否定的という点で、通俗的な印象とは異なるかもしれません。しかし本論考は、武藤の構想には政党が軍部の要求を受け入れることを前提としている点など、矛盾も内包されていた、と指摘します。武藤が対米開戦に反対していたことは一般にもそれなりに知られているでしょうが、その重要条件とされた対中方針に関しては、武藤でも妥協には限界があり、陸軍内部の強硬な反対がなくとも難しかっただろう、と指摘されています。
第6講●戸部良一「石原莞爾─悲劇の鬼才か、鬼才による悲劇か」P123~140
石原莞爾が「鬼才」とも言うべき優れた頭脳の持ち主だったことは間違いないでしょう。しかし、その頭脳が日本にもたらした結果は、評価が難しいところではあるものの、少なくとも手放しで賞賛されるようなものではとてもなかったことは、間違いないと思います。石原は満洲事変での「目覚ましい活躍」と二・二六事件での「断固たる討伐方針」により陸軍内、さらには国民の間で声望を高めました。しかし、満洲事変では陸軍に「下剋上」的雰囲気を定着させ、後に日中戦争では自らが「下剋上」的雰囲気の前に敗退することになりましたし、二・二六事件にさいしても、反乱軍への共感が強くあり、当初から「断固たる討伐」一辺倒ではなかったようです。
第7講●戸部良一「牟田口廉也─信念と狂信の間」P141~160
本論考が指摘するように、牟田口廉也はきわめて評判の悪い軍人で、現在でも擁護する人は皆無に近く、批判・罵倒される一方だと言えるでしょう。インパール作戦の大失敗により、牟田口の悪評は決定的となりましたが、戦後のある時期まで、牟田口はその悪評に反論することなく、沈黙を守りました。しかし、イギリス人が牟田口にインパール作戦について問い合わせたところ、牟田口は自分の作戦を弁護するものと考え、以後は死去までの数年間、熱心に自分の正当性を訴えました。しかし本論考は、牟田口のこの認識は幻想だった、と指摘しています。きわめて評判の悪い牟田口ですが、本論考を読むと、日中戦争勃発のさいに重要な役割を果たしたとはいえ、インパール作戦までは将官に昇進しても不思議ではない普通の軍人といった印象を受けます。やはり、戦局が傾いてしまうと、貧すれば鈍するというか、以前からの精神主義的傾向が強く表に出てしまい、大惨事を招来した、ということなのでしょう。
第8講●渡邉公太「今村均―─「ラバウルの名将」から見る日本陸軍の悲劇」P161~178
今村均は、太平洋戦争中のジャワとラバウルにおける占領政策が寛容で、高潔な人格だったこともあり、日本国内のみならず、被占領国の住民、さらには敵軍にまで高く評価されました。今村がこのような評価を得るにいたった背景として、本論考は今村が陸軍で主流派ではなかったことを指摘しています。そのため、日中戦争以降、軍令・軍政には関わらず、現地軍の指揮官を務め、結果として高い評価を得た、というわけです。今村が陸軍主流派ではなかった背景として、昭和期陸軍の「下剋上」的雰囲気を苦々しく思い、派閥抗争にも関わらなかったこともありますが、今村が幼年学校から士官学校へという陸軍エリートの通常コースではなく、中学校から士官学校へという異端的進路を選択したこともあるのではないか、と本論考は指摘しています。
第9講●畑野勇「山本五十六─その避戦構想と挫折」P179~196
山本五十六は戦後になって海軍良識派の一人と評価されるようになりましたが、それは海軍非主流派だったことを意味する、と本論考は指摘します。昭和期、太平洋戦争まで海軍で大きな影響力を有したのは、長く軍令部長(軍令部総長)を務めた伏見宮博恭王で、山本の伏見宮博恭王への進言内容から、本論考は山本の意図を推測しています。山本の究極の目標は対米戦回避で、戦争への物的準備と一体ではあったものの、せめて長期戦だけは避ける、という強い信念が山本にはありました。太平洋戦争冒頭のハワイ襲撃も、米国民の戦意を挫く、という意図がありました。しかし、海軍主流派が山本に期待したのは、あくまでも作戦上の観点からの統率力だった、と本論考は指摘しています。
第10講●相澤淳「米内光政─終末点のない戦争指導」P197~214
日中戦争初期に海軍大臣だった米内光政の対中方針が検証されています。米内の海軍兵学校での成績は平凡でしたが、日本にとって中国との関係が重要になっていくなか、中国での指揮官勤務を買われて、連合艦隊司令長官や海軍大臣に抜擢されたのではないか、と推測されています。米内は日本軍が中国を屈服させることの難しさから、対中穏健論者で、蒋介石と会見したこともあることから、蒋介石政権に敵対的な勢力を支援するのではなく、蒋介石を中国の交渉相手にすべきと考えていました。その米内が、日中戦争勃発後間もなく、対中強硬派に転じます。本論考はその理由として、中国軍が上海の日本総領事館や日本の軍艦を爆撃し、蒋介石が対日強硬路線を選択したと判断したことや、当時の上海では日本軍より中国軍の方が優勢で、日本軍の増派が必要と考えられたことや、中国への「一撃」、とくに首都である南京を陥落させることで、蒋介石政権を凋落させられるのではないか、と判断したことが挙げられています。
第11講●森山優「永野修身─海軍「主流派」の選択」P215~236
永野修身は海軍重鎮として昭和期に重要な役割を果たし、太平洋戦争開戦直前から戦争中期まで軍令部総長を務めました。本論考は、対米開戦にいたる過程での永野の果たした役割、責任を検証しています。永野は対米戦で勝機があるとはまったく確信していませんでしたが、対米開戦決定にさいして、これを推進する役割を果たしました。本論考はその理由として、対米戦を避けた場合に起きる事態を永野が懸念したからで、その点で一見すると主張の揺れ動いていた永野の判断は一貫していた、と指摘します。その懸念とは、何よりも海軍の体面であり、また海軍と陸軍との対立でした。戦争の目算が立たないと言えば体面が失われるということもありましたが、何よりも、石油が枯渇して米海軍に攻められれば、日本海軍は戦わずして降伏するわけで、永野はこれを懸念していました。また、陸軍との対立回避も永野にとって大前提でした。こうした永野の判断が、戦機は今だが、3年後の勝利は不明という無責任な発言でした。米海軍が攻めてくるという妄想も含めて目先の困難を避けるあまり、大局を見失って破滅するという、大日本帝国を体現する人物だった、と本論考は永野を評価しています。
第12講●手嶋泰伸「高木惣吉─昭和期海軍の語り部」P237~252
高木惣吉は健康上の問題から艦隊勤務での活躍は望めず、海軍では軽視されていた情報収集などの業務に従事することになります。高木は、伝統的に陸軍よりも政治への介入が弱かった海軍の政治的立場が弱いことから、政治情報の収集に努め、海軍の政治的立場の向上を企図します。こうした政治活動や、太平洋戦争後期以降の終戦工作により、高木は貴重な政治的情報を多く収集し、戦後には「昭和期海軍の語り部」となり得ました。しかし本論考は、高木の活動が海軍の政治的立場の強化や終戦に果たした役割は小さく、高木の政治的力量には限界があった、と指摘しています。
第13講●畑野勇「石川信吾─「日本海軍最強硬論者」の実像」P253~270
石川信吾は海軍における対米開戦強硬論者とされていますが、本論考によると、対米開戦について強い決意を抱き、首尾一貫していたわけではなさそうです。石川は陸軍・政財界にまで広がる交友関係を築き、そうした政治的志向もまた、石川の人物像を印象づけましたが、本論考は、石川の幅広い交友関係は職務上の不遇感を払拭するためのものだった、と推測しています。また、それとも関連して、石川の戦後の回想には、失敗・錯誤・重大事態における逡巡などの率直な記述が見られず、自己顕示が目立つ、とも指摘されています。
第14講●筒井清忠「堀悌吉─海軍軍縮派の悲劇」P271~298
堀悌吉には平和主義的なところがあり、そのため世界主義者・共産主義者と周囲に思われたこともありましたが、本書は堀の平和主義志向の前提として、郷里の国東半島(大分県)における、篤い神仏への信仰と、三浦梅園から始まる大分県(当時は豊前の一部と豊後)合理的思索があったのではないか、と指摘しています。堀は条約派として大きな功績を残し、そのために艦隊派から敵視されて海軍を去ることになりました。本論考はその背景として、堀を執拗に攻撃した末次信正などの個人の問題として把握するのではなく、第一次世界大戦後の国際協調の時代における軍人の不遇とそれへの反発・鬱憤、昭和恐慌下で財閥元老重臣層が既得権者として攻撃されるようになり、条約派が既得権側と同一視されるようになったことなど、広範な社会的動向があったことを指摘しています。
●筒井清忠「昭和陸軍の派閥抗争─まえがきに代えて」P9~34
太平洋戦争が始まる直前までの昭和期の陸軍の動向が、派閥抗争という視点で解説されています。この期間で有名なのは統制派と皇道派ですが、両者はそもそも、総力戦体制を志向し、長州閥、さらにはそれを継承したとも言える準長州閥の宇垣一成を批判する、革新志向勢力と言えます。それが、革新志向勢力に歓迎された荒木貞夫陸相の政治力のなさへの対応などから統制派と皇道派に分裂して派閥抗争が激化していき、二・二六事件で皇道派は没落します。しかし、その後は統制派の天下になったのかというと、旧統制派内でも派閥抗争が続き、とても統制派の支配下にあるとは言えない状況でした。本論考は、こうした派閥抗争の要因として、個人の役割も無視できないものの、中堅幕僚グループの動向・雰囲気が大きかったのではないか、と指摘しています。満洲事変で強硬策を主張した石原莞爾が日中戦争では不拡大策をとろうとしても下から突き上げられて失敗し、日中戦争で強硬策を主張した武藤章が対米開戦を回避しようとしても下から突き上げられて失敗したように、陸軍の下剋上的雰囲気のなかで、中堅幕僚グループからの突き上げが、将官級の動向を制約したのではないか、というわけです。中堅幕僚グループのそうした動向には、功名心もあったのでしょう。
第1講●武田知己「東条英機─昭和の悲劇の体現者」P35~52
東条英機の政治家としての限界が解説されています。東条にとっての政治とは、あくまで上下関係や威嚇を背後に進められる軍隊式の意思決定・伝達方式に基づいての、自らの意向・主張の貫徹を意味した、と本論考は指摘します。つまり東条には、異なる利害関係や世界観を総合させ、新たな社会や政治を共に創造していくという観点が欠けていた、というわけです。東条は米英の非妥協的姿勢を開戦の要因と主張し続けましたが、それも東条の政治観に起因するものでした。ただ、本論考は、こうした限界は東条個人に限らず昭和期の政治中枢に共通する問題だった、とも指摘しています。
第2講●庄司潤一郎「梅津美治郎─「後始末」に尽力した陸軍大将」P53~70
梅津美治郎は幼年学校時代から成績優秀で、陸軍で出世していきました。梅津が出世していった頃、陸軍では派閥抗争が激化していきましたが、梅津は終始一貫して無派閥を貫きました。梅津は冷徹と評された人物でしたが、それだけ自分を抑制できた、ということなのでしょう。本論考はそうした個性の梅津を、「後始末」に尽力したと評価しています。二・二六事件からノモンハン事件、さらには終戦という日本にとっての一大転機に、梅津は「後始末」を無難に行ない、昭和天皇から厚く信頼された、と本論考は指摘します。
第3講●波多野澄雄「阿南惟幾─徳義即戦力」を貫いた武将」P71~86
阿南惟幾は、成績優秀というわけではなかったものの、物静かで礼節を弁えた人物で、その人格は高く評価されていたようです。そのような個性の人物だけに、阿南は軍人の政治への関与には消極的というか、批判的だったようです。その阿南が戦局の傾いた時期に陸相に任命された理由として、高潔な人格とともに、精神主義を一貫して唱えていたこともあったようです。傾いた戦局の打開には、阿南の精神主義が必要と考えられた、というわけです。まあ、貧すれば鈍する、といった感じではありますが。阿南は陸相として強硬な主張を続けましたが、辞表を提出しなかったことからも、すでに長期的な抗戦は無理と判断していただろう、と推測されています。
第4講●高杉洋平「鈴木貞一─背広を着た軍人」P87~104
頭脳明晰な鈴木貞一は陸軍で順調に出世していきましたが、舞台勤務の経験は少なく、中央でのデスクワークの多い異色の軍人でした。そもそも、鈴木は鴨緑江の森林開発を志して一高から東大に進学しようと考えていたそうです。鈴木の陸軍での立場は、皇道派と統制派の対立が激化すると悪化していき、陸軍での出世は望めなくなりました。鈴木は統制派の永田鉄山の思想に共鳴していたものの、皇道派の荒木貞夫にも同情的で、派閥抗争を調停しようとしたものの、失敗します。しかし、以前から政治志向の強かった鈴木は近衛文麿とも親交があり、その縁で政界に進出し、第二次近衛内閣では企画院総裁に任命されます。ここでの鈴木は、対米開戦に賛成とも反対ともとれるような態度を示し、後世のみならず同時代の人々からも評判が悪かったのですが、本論考は、鈴木の曖昧な態度は、対米妥協も戦争もせず、経済制裁は甘受するという「臥薪嘗胆論」を排除するという点では一貫していた、と指摘します。
第5講●高杉洋平「武藤章―─「政治的軍人」の実像」P105~122
武藤章は日中戦争前から開戦後間もない頃までは強硬策を主張し、対中戦争回避・不拡大論を主張した石原莞爾と対立しました。その武藤も、中国戦線でのナショナリズムの高揚を見て、自分の判断が間違っていたと悟ります。武藤は日中戦争終結のため、「国防国家」の建設に邁進します。武藤の構想は、議会と政党に肯定的で、一党体制に否定的という点で、通俗的な印象とは異なるかもしれません。しかし本論考は、武藤の構想には政党が軍部の要求を受け入れることを前提としている点など、矛盾も内包されていた、と指摘します。武藤が対米開戦に反対していたことは一般にもそれなりに知られているでしょうが、その重要条件とされた対中方針に関しては、武藤でも妥協には限界があり、陸軍内部の強硬な反対がなくとも難しかっただろう、と指摘されています。
第6講●戸部良一「石原莞爾─悲劇の鬼才か、鬼才による悲劇か」P123~140
石原莞爾が「鬼才」とも言うべき優れた頭脳の持ち主だったことは間違いないでしょう。しかし、その頭脳が日本にもたらした結果は、評価が難しいところではあるものの、少なくとも手放しで賞賛されるようなものではとてもなかったことは、間違いないと思います。石原は満洲事変での「目覚ましい活躍」と二・二六事件での「断固たる討伐方針」により陸軍内、さらには国民の間で声望を高めました。しかし、満洲事変では陸軍に「下剋上」的雰囲気を定着させ、後に日中戦争では自らが「下剋上」的雰囲気の前に敗退することになりましたし、二・二六事件にさいしても、反乱軍への共感が強くあり、当初から「断固たる討伐」一辺倒ではなかったようです。
第7講●戸部良一「牟田口廉也─信念と狂信の間」P141~160
本論考が指摘するように、牟田口廉也はきわめて評判の悪い軍人で、現在でも擁護する人は皆無に近く、批判・罵倒される一方だと言えるでしょう。インパール作戦の大失敗により、牟田口の悪評は決定的となりましたが、戦後のある時期まで、牟田口はその悪評に反論することなく、沈黙を守りました。しかし、イギリス人が牟田口にインパール作戦について問い合わせたところ、牟田口は自分の作戦を弁護するものと考え、以後は死去までの数年間、熱心に自分の正当性を訴えました。しかし本論考は、牟田口のこの認識は幻想だった、と指摘しています。きわめて評判の悪い牟田口ですが、本論考を読むと、日中戦争勃発のさいに重要な役割を果たしたとはいえ、インパール作戦までは将官に昇進しても不思議ではない普通の軍人といった印象を受けます。やはり、戦局が傾いてしまうと、貧すれば鈍するというか、以前からの精神主義的傾向が強く表に出てしまい、大惨事を招来した、ということなのでしょう。
第8講●渡邉公太「今村均―─「ラバウルの名将」から見る日本陸軍の悲劇」P161~178
今村均は、太平洋戦争中のジャワとラバウルにおける占領政策が寛容で、高潔な人格だったこともあり、日本国内のみならず、被占領国の住民、さらには敵軍にまで高く評価されました。今村がこのような評価を得るにいたった背景として、本論考は今村が陸軍で主流派ではなかったことを指摘しています。そのため、日中戦争以降、軍令・軍政には関わらず、現地軍の指揮官を務め、結果として高い評価を得た、というわけです。今村が陸軍主流派ではなかった背景として、昭和期陸軍の「下剋上」的雰囲気を苦々しく思い、派閥抗争にも関わらなかったこともありますが、今村が幼年学校から士官学校へという陸軍エリートの通常コースではなく、中学校から士官学校へという異端的進路を選択したこともあるのではないか、と本論考は指摘しています。
第9講●畑野勇「山本五十六─その避戦構想と挫折」P179~196
山本五十六は戦後になって海軍良識派の一人と評価されるようになりましたが、それは海軍非主流派だったことを意味する、と本論考は指摘します。昭和期、太平洋戦争まで海軍で大きな影響力を有したのは、長く軍令部長(軍令部総長)を務めた伏見宮博恭王で、山本の伏見宮博恭王への進言内容から、本論考は山本の意図を推測しています。山本の究極の目標は対米戦回避で、戦争への物的準備と一体ではあったものの、せめて長期戦だけは避ける、という強い信念が山本にはありました。太平洋戦争冒頭のハワイ襲撃も、米国民の戦意を挫く、という意図がありました。しかし、海軍主流派が山本に期待したのは、あくまでも作戦上の観点からの統率力だった、と本論考は指摘しています。
第10講●相澤淳「米内光政─終末点のない戦争指導」P197~214
日中戦争初期に海軍大臣だった米内光政の対中方針が検証されています。米内の海軍兵学校での成績は平凡でしたが、日本にとって中国との関係が重要になっていくなか、中国での指揮官勤務を買われて、連合艦隊司令長官や海軍大臣に抜擢されたのではないか、と推測されています。米内は日本軍が中国を屈服させることの難しさから、対中穏健論者で、蒋介石と会見したこともあることから、蒋介石政権に敵対的な勢力を支援するのではなく、蒋介石を中国の交渉相手にすべきと考えていました。その米内が、日中戦争勃発後間もなく、対中強硬派に転じます。本論考はその理由として、中国軍が上海の日本総領事館や日本の軍艦を爆撃し、蒋介石が対日強硬路線を選択したと判断したことや、当時の上海では日本軍より中国軍の方が優勢で、日本軍の増派が必要と考えられたことや、中国への「一撃」、とくに首都である南京を陥落させることで、蒋介石政権を凋落させられるのではないか、と判断したことが挙げられています。
第11講●森山優「永野修身─海軍「主流派」の選択」P215~236
永野修身は海軍重鎮として昭和期に重要な役割を果たし、太平洋戦争開戦直前から戦争中期まで軍令部総長を務めました。本論考は、対米開戦にいたる過程での永野の果たした役割、責任を検証しています。永野は対米戦で勝機があるとはまったく確信していませんでしたが、対米開戦決定にさいして、これを推進する役割を果たしました。本論考はその理由として、対米戦を避けた場合に起きる事態を永野が懸念したからで、その点で一見すると主張の揺れ動いていた永野の判断は一貫していた、と指摘します。その懸念とは、何よりも海軍の体面であり、また海軍と陸軍との対立でした。戦争の目算が立たないと言えば体面が失われるということもありましたが、何よりも、石油が枯渇して米海軍に攻められれば、日本海軍は戦わずして降伏するわけで、永野はこれを懸念していました。また、陸軍との対立回避も永野にとって大前提でした。こうした永野の判断が、戦機は今だが、3年後の勝利は不明という無責任な発言でした。米海軍が攻めてくるという妄想も含めて目先の困難を避けるあまり、大局を見失って破滅するという、大日本帝国を体現する人物だった、と本論考は永野を評価しています。
第12講●手嶋泰伸「高木惣吉─昭和期海軍の語り部」P237~252
高木惣吉は健康上の問題から艦隊勤務での活躍は望めず、海軍では軽視されていた情報収集などの業務に従事することになります。高木は、伝統的に陸軍よりも政治への介入が弱かった海軍の政治的立場が弱いことから、政治情報の収集に努め、海軍の政治的立場の向上を企図します。こうした政治活動や、太平洋戦争後期以降の終戦工作により、高木は貴重な政治的情報を多く収集し、戦後には「昭和期海軍の語り部」となり得ました。しかし本論考は、高木の活動が海軍の政治的立場の強化や終戦に果たした役割は小さく、高木の政治的力量には限界があった、と指摘しています。
第13講●畑野勇「石川信吾─「日本海軍最強硬論者」の実像」P253~270
石川信吾は海軍における対米開戦強硬論者とされていますが、本論考によると、対米開戦について強い決意を抱き、首尾一貫していたわけではなさそうです。石川は陸軍・政財界にまで広がる交友関係を築き、そうした政治的志向もまた、石川の人物像を印象づけましたが、本論考は、石川の幅広い交友関係は職務上の不遇感を払拭するためのものだった、と推測しています。また、それとも関連して、石川の戦後の回想には、失敗・錯誤・重大事態における逡巡などの率直な記述が見られず、自己顕示が目立つ、とも指摘されています。
第14講●筒井清忠「堀悌吉─海軍軍縮派の悲劇」P271~298
堀悌吉には平和主義的なところがあり、そのため世界主義者・共産主義者と周囲に思われたこともありましたが、本書は堀の平和主義志向の前提として、郷里の国東半島(大分県)における、篤い神仏への信仰と、三浦梅園から始まる大分県(当時は豊前の一部と豊後)合理的思索があったのではないか、と指摘しています。堀は条約派として大きな功績を残し、そのために艦隊派から敵視されて海軍を去ることになりました。本論考はその背景として、堀を執拗に攻撃した末次信正などの個人の問題として把握するのではなく、第一次世界大戦後の国際協調の時代における軍人の不遇とそれへの反発・鬱憤、昭和恐慌下で財閥元老重臣層が既得権者として攻撃されるようになり、条約派が既得権側と同一視されるようになったことなど、広範な社会的動向があったことを指摘しています。
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