現生人類の心理的傾向の進化
現生人類(Homo sapiens)の心理的傾向の進化に関する研究(Sato, and Kawata., 2018)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。現代人の5人に1人は、一生の間に何らかの「精神疾患」を発症すると言われており、その原因解明および治療は、精神医学や神経科学における中心的課題の一つです。また、「精神疾患」は遺伝率が高く、しばしば適応度に大きな影響を与える可能性があるにも関わらず、ヒトの集団中に頻繁に見られることから「進化的なパラドクス」とされることもあり、その進化機構の解明は進化学的にも重要な研究課題です。さらに、統合失調症や自閉症などの精神疾患は、社会行動や認知機能など、ヒトを特徴づけるような高次脳機能の障害を示すことから、人類の高次脳機能の進化の副産物として精神・神経疾患が生まれたとする仮説もあり、精神疾患関連遺伝子は人類の脳の進化において重要な役割を果たしたと考えられます(関連記事)。
一方で、「精神疾患」という表現型は現代人が持つ「個性」の一部として把握することもできます。じっさい、近年の研究の多くが、精神疾患と精神的個性(調和性・誠実性・開放性・外向性・神経質傾向)の遺伝的背景にはかなりの重なりがあることを見出しています。過去の理論研究は、こうした個性にかかわる遺伝的変異は積極的に維持されうると提唱していますが、じっさいに「精神疾患」および精神的個性に関わる遺伝的変異が自然選択によって積極的に維持されていることを明確に示す証拠は、これまで報告されていませんでした。本論文は、「精神疾患」の関連遺伝子に着目し、哺乳類 15 種のゲノム配列を用いて、人類の進化過程で加速的に進化した遺伝子を検出しました。また、約 2500 人分の現代人の遺伝的多型データを用いて、集団中で積極的に維持されている遺伝的変異の特定を試みました。比較対象となった15種の哺乳類は、現代人(Homo sapiens)、チンパンジー(Pan troglodytes)、ニシローランドゴリラ(Gorilla gorilla gorilla)、スマトラオランウータン(Pongo abelli)、キタホオジロテナガザル(Nomascus leucogenys)、アカゲザル(Macaca mulatta)、コモンマーモセット(Callithrix jacchus)、オオガラゴ(Otolemur garnettii)、ハツカネズミ(Mus musculus)、モルモット(Cavia porcellus)、アナウサギ(Oryctolagus cuniculus)、イヌ(Canis lupus familiaris)、ウマ(Equus caballus)、トビイロホオヒゲコウモリ(Myotis lucifugus)、家畜ウシ(Bos taurus)です。
これら15種の哺乳類のゲノム配列の比較の結果、「精神疾患」関連遺伝子 588 個の進化速度が推定され、そのうち3遺伝子(CLSTN2、FAT1、SLC18A1)が人類の進化過程で自然選択を受けて加速的に進化してきた、と明らかになりました。この中で本論文が注目したのはSLC18A1 遺伝子です。同遺伝子の 136 番目のアミノ酸座位は、現代人以外の哺乳類では全てアスパラギン(Asn)でしたが、現代人にはスレオニン(Thr、トレオニン)とイソロイシン(Ile)という 2 つの型がありました。(136 番目のアミノ酸が、Thrである SLC18A1 遺伝子(Thr 型)と、Ile である(Ile 型)は、現代人において約3:1の割合で存在しています。現代人は3通りのSLC18A1 遺伝子型(Thr/Thr、Thr/Ile、Ile/Ile)を有している、というわけです。現代日本人では、約 52%の人が Thr/Thr 型、約 40%の人が Thr/Ile 型、約 8%の人が Ile/Ile 型となります。
SLC18A1 遺伝子は小胞モノアミントランスポーター1(Vesicular Monoamine Transporter1: VMAT1)をコードしており、神経や分泌細胞内で分泌小胞に神経伝達物質を運搬しています。SLC18A1 遺伝子においてアミノ酸置換が生じた座位は、タンパク質の機能制御に関わるドメインに属していることから、神経伝達物質の運搬に影響を与える可能性が高い、と推測されます。じっさい、Thr 型と Ile 型の違いがタンパク質の機能やヒトの精神に与える影響についてはいくつかの先行研究があり、Thr 型の方が小胞への神経伝達物質の取り込み効率が低いほか、鬱や不安症傾向、また精神的個性の一つである神経質傾向は 、Thr 型の方が強いと示されています。また、Thr 型は双極性障害や統合失調症などとの関連が指摘されています。これらを踏まえると、人類の進化過程で SLC18A1 遺伝子に生じた遺伝的変化は、精神機能に影響を与えた可能性があります。
一方で、Thr 型と Ile 型はどちらが先に出現したのか、また、なぜ鬱や不安傾向などに関わる遺伝的変異が集団中に高頻度で存在するのかなど、その進化機構は不明でした。そこで本論文はさらに、シミュレーション解析を交えて、Thr 型と Ile 型の進化プロセスの解明、およびこの多型に働く自然選択の検出を試みました。その結果、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のデニソワ人(Denisovan)にはすでに Thr 型は存在しており、Ile 型は現生人類が出アフリカを果たした前後(105500±30800年前)で出現し、有利に働く自然選択を受け頻度を増加させていった一方で、アフリカの現代人集団ではIle 型の頻度は低く、自然選択をじゅうぶんに受けていない、と明らかになりました。また、ヨーロッパやアジアの現代人集団では、この多型座位の付近で有意に遺伝的多様性が増加しており、多型を積極的に維持する平衡選択が働いている、と明らかになりました。
つまり、不安傾向や神経質傾向などをより強く示す Thr 型は、チンパンジー系統と分岐した後の人類系統の進化の過程で、何らかの有利な影響を与えていた、と考えられます。その後、現生人類がアフリカ大陸を出て、ヨーロッパやアジアなどに広がったさいに、抗鬱・抗不安傾向を示す Ile 型が、自然選択を受け有利に進化した、と推測されます。しかし、Ile 型と Thr 型は、どちらか一方に完全に置き換わることなく、両方の遺伝子が積極的に維持されるような自然選択が働いている、と考えられます。本論文は、現生人類の精神的特性がその進化過程で強い自然選択を受けてきたことを示すとともに、現代人の心理の多様性に関わる遺伝的変異が自然選択により積極的に維持されていることを、初めて実証しました。現代人の「十人十色」な心理のあり方には、進化的な意義があるのかもしれません。これらの知見は、現代人の精神的個性の違いや、鬱症状・不安症をはじめとする「精神疾患」の進化学的意義を明らかにするもので、精神疾患を含めた多様な個性の捉え方や社会的意義を考える上で、大きな示唆を提示するだろう、と本論文は指摘しています。
本論文の見解はたいへん興味深く、今後同様の研究の進展が大いに期待されます。現代人の各地域集団において、アフリカではIle 型の比率がユーラシアよりずっと少なく、ユーラシアでは地域により違いはあるものの、大きくはなく、Ile 型が一定以上の比率で見られます。一方、アメリカ大陸では、 Ile 型とThr 型の比率に大きな違いがあり、これは自然選択というよりも、ボトルネック(瓶首効果)が大きいのではないか、と思われます。Ile 型とThr 型の比率は、社会構造に大きな影響を及ぼす可能性があるという意味で、たいへん注目されます。もちろん、社会構造には、様々な表現型だけではなく、自然環境、さらには人為的環境が深く関わっているので、単一の遺伝子のみで論じることはできません。しかし、いつかは、そうした諸要素から社会構造とその変化を推定できるような数理モデルが開発されるかもしれず、人類史の解明にお大きく貢献するのではないか、と期待されます。
参考文献:
Sato DX, and Kawata M.(2018): Positive and balancing selection on SLC18A1 gene associated with psychiatric disorders and human‐unique personality traits. Evolution Letters, 2, 5, 499–510.
https://doi.org/10.1002/evl3.81
一方で、「精神疾患」という表現型は現代人が持つ「個性」の一部として把握することもできます。じっさい、近年の研究の多くが、精神疾患と精神的個性(調和性・誠実性・開放性・外向性・神経質傾向)の遺伝的背景にはかなりの重なりがあることを見出しています。過去の理論研究は、こうした個性にかかわる遺伝的変異は積極的に維持されうると提唱していますが、じっさいに「精神疾患」および精神的個性に関わる遺伝的変異が自然選択によって積極的に維持されていることを明確に示す証拠は、これまで報告されていませんでした。本論文は、「精神疾患」の関連遺伝子に着目し、哺乳類 15 種のゲノム配列を用いて、人類の進化過程で加速的に進化した遺伝子を検出しました。また、約 2500 人分の現代人の遺伝的多型データを用いて、集団中で積極的に維持されている遺伝的変異の特定を試みました。比較対象となった15種の哺乳類は、現代人(Homo sapiens)、チンパンジー(Pan troglodytes)、ニシローランドゴリラ(Gorilla gorilla gorilla)、スマトラオランウータン(Pongo abelli)、キタホオジロテナガザル(Nomascus leucogenys)、アカゲザル(Macaca mulatta)、コモンマーモセット(Callithrix jacchus)、オオガラゴ(Otolemur garnettii)、ハツカネズミ(Mus musculus)、モルモット(Cavia porcellus)、アナウサギ(Oryctolagus cuniculus)、イヌ(Canis lupus familiaris)、ウマ(Equus caballus)、トビイロホオヒゲコウモリ(Myotis lucifugus)、家畜ウシ(Bos taurus)です。
これら15種の哺乳類のゲノム配列の比較の結果、「精神疾患」関連遺伝子 588 個の進化速度が推定され、そのうち3遺伝子(CLSTN2、FAT1、SLC18A1)が人類の進化過程で自然選択を受けて加速的に進化してきた、と明らかになりました。この中で本論文が注目したのはSLC18A1 遺伝子です。同遺伝子の 136 番目のアミノ酸座位は、現代人以外の哺乳類では全てアスパラギン(Asn)でしたが、現代人にはスレオニン(Thr、トレオニン)とイソロイシン(Ile)という 2 つの型がありました。(136 番目のアミノ酸が、Thrである SLC18A1 遺伝子(Thr 型)と、Ile である(Ile 型)は、現代人において約3:1の割合で存在しています。現代人は3通りのSLC18A1 遺伝子型(Thr/Thr、Thr/Ile、Ile/Ile)を有している、というわけです。現代日本人では、約 52%の人が Thr/Thr 型、約 40%の人が Thr/Ile 型、約 8%の人が Ile/Ile 型となります。
SLC18A1 遺伝子は小胞モノアミントランスポーター1(Vesicular Monoamine Transporter1: VMAT1)をコードしており、神経や分泌細胞内で分泌小胞に神経伝達物質を運搬しています。SLC18A1 遺伝子においてアミノ酸置換が生じた座位は、タンパク質の機能制御に関わるドメインに属していることから、神経伝達物質の運搬に影響を与える可能性が高い、と推測されます。じっさい、Thr 型と Ile 型の違いがタンパク質の機能やヒトの精神に与える影響についてはいくつかの先行研究があり、Thr 型の方が小胞への神経伝達物質の取り込み効率が低いほか、鬱や不安症傾向、また精神的個性の一つである神経質傾向は 、Thr 型の方が強いと示されています。また、Thr 型は双極性障害や統合失調症などとの関連が指摘されています。これらを踏まえると、人類の進化過程で SLC18A1 遺伝子に生じた遺伝的変化は、精神機能に影響を与えた可能性があります。
一方で、Thr 型と Ile 型はどちらが先に出現したのか、また、なぜ鬱や不安傾向などに関わる遺伝的変異が集団中に高頻度で存在するのかなど、その進化機構は不明でした。そこで本論文はさらに、シミュレーション解析を交えて、Thr 型と Ile 型の進化プロセスの解明、およびこの多型に働く自然選択の検出を試みました。その結果、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のデニソワ人(Denisovan)にはすでに Thr 型は存在しており、Ile 型は現生人類が出アフリカを果たした前後(105500±30800年前)で出現し、有利に働く自然選択を受け頻度を増加させていった一方で、アフリカの現代人集団ではIle 型の頻度は低く、自然選択をじゅうぶんに受けていない、と明らかになりました。また、ヨーロッパやアジアの現代人集団では、この多型座位の付近で有意に遺伝的多様性が増加しており、多型を積極的に維持する平衡選択が働いている、と明らかになりました。
つまり、不安傾向や神経質傾向などをより強く示す Thr 型は、チンパンジー系統と分岐した後の人類系統の進化の過程で、何らかの有利な影響を与えていた、と考えられます。その後、現生人類がアフリカ大陸を出て、ヨーロッパやアジアなどに広がったさいに、抗鬱・抗不安傾向を示す Ile 型が、自然選択を受け有利に進化した、と推測されます。しかし、Ile 型と Thr 型は、どちらか一方に完全に置き換わることなく、両方の遺伝子が積極的に維持されるような自然選択が働いている、と考えられます。本論文は、現生人類の精神的特性がその進化過程で強い自然選択を受けてきたことを示すとともに、現代人の心理の多様性に関わる遺伝的変異が自然選択により積極的に維持されていることを、初めて実証しました。現代人の「十人十色」な心理のあり方には、進化的な意義があるのかもしれません。これらの知見は、現代人の精神的個性の違いや、鬱症状・不安症をはじめとする「精神疾患」の進化学的意義を明らかにするもので、精神疾患を含めた多様な個性の捉え方や社会的意義を考える上で、大きな示唆を提示するだろう、と本論文は指摘しています。
本論文の見解はたいへん興味深く、今後同様の研究の進展が大いに期待されます。現代人の各地域集団において、アフリカではIle 型の比率がユーラシアよりずっと少なく、ユーラシアでは地域により違いはあるものの、大きくはなく、Ile 型が一定以上の比率で見られます。一方、アメリカ大陸では、 Ile 型とThr 型の比率に大きな違いがあり、これは自然選択というよりも、ボトルネック(瓶首効果)が大きいのではないか、と思われます。Ile 型とThr 型の比率は、社会構造に大きな影響を及ぼす可能性があるという意味で、たいへん注目されます。もちろん、社会構造には、様々な表現型だけではなく、自然環境、さらには人為的環境が深く関わっているので、単一の遺伝子のみで論じることはできません。しかし、いつかは、そうした諸要素から社会構造とその変化を推定できるような数理モデルが開発されるかもしれず、人類史の解明にお大きく貢献するのではないか、と期待されます。
参考文献:
Sato DX, and Kawata M.(2018): Positive and balancing selection on SLC18A1 gene associated with psychiatric disorders and human‐unique personality traits. Evolution Letters, 2, 5, 499–510.
https://doi.org/10.1002/evl3.81
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