交雑する人類
先月(2018年7月)、『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』を当ブログで取り上げましたが(関連記事)、原題は『Who We Are and How We Got Here』で、邦題は直訳ではありません。しかし、邦題は同書の主旨をよく反映しており、適切だと思います。同書は、現代の各地域集団が太古からずっとその地域に居住し続けたわけではなく、集団間の複雑な移住・交雑により形成されていき、その集団間の関係は、現代のヨーロッパ系と東アジア系よりも遠いことが珍しくなかった、と強調しています。確かに、人類は交雑する分類群なのでしょう。
近年、現生人類(Homo sapiens)の起源に関して、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類は形成されていった、とする「アフリカ多地域進化説」が有力になりつつあるように思います(関連記事)。さらに言えば、おそらくホモ属も、300万~200万年前頃に、アフリカ各地の複数の集団間の交雑により形成されたのではないか、と私は考えています。もっとも、現時点では確たる根拠を提示できるわけではありませんが。また、こうした特徴は人類系統に限らず、現代ではコンゴ川で生息域が分断されている、現代人の最近縁の現生種となるチンパンジー(Pan troglodytes)とボノボ(Pan paniscus)は、乾燥化によりコンゴ川の水位がきょくたんに低下した短期間に交雑していたのではないか、と推測されています(関連記事)。
このように、人類史において移住・交雑は珍しくなかった、と明らかになってくると、それを移民受け入れの根拠とし、「純粋な民族」に拘るナチス的な世界観を批判する見解も提示されています(関連記事)。しかし、人類史において普遍的だから現在もそれを受け入れるべきだという主張は、自然主義的誤謬に倣えば歴史(先例)主義的誤謬と言うべきで、直接的には移民・難民受け入れの根拠としてはならないでしょう。もっとも、人類史において普遍的であるのは、それ相応の深い理由があるからと考えられるので、その点を踏まえてよく理由を理解したうえで対応すべきだとは思います。
交雑は交流に包含される行為ですから、現在では、一般的には「善」とみなされているでしょう。現在は削除されてしまったTwitterアカウントは、「ネアンデルタール人のDNAを受け継いだので、ホモ・サピエンスは病気に強くなった。交雑は善なのだ。交雑を忌み嫌い、純血種にこだわるのはナチス」とさえ呟いていたくらいです。もっとも、交雑は「病気に強くなった」ような「利点」ばかりではありません。現代人の中には、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)に由来する生存の危険性を高める遺伝子も確認されています(関連記事)。
しかし、より本質的な問題は、交雑が友好的・平和的なものとは限らない、ということです。もちろん、確証は不可能ですが、現生人類とネアンデルタール人との交雑にしても、暴力的なものがなかった可能性はきわめて低いと思います。また、直接的に暴力を用いた強姦だけではなく、社会的に抑圧された状況下での交雑の進展も想定されます。たとえばアメリカ大陸のうち現代パナマ人では、母系では先住民系が圧倒的に優勢(約83%)なのに、父系では、ヨーロッパも含む西ユーラシアおよび北アフリカ系が優勢(約60%)です(関連記事)。ヨーロッパ系とアメリカ大陸先住民系との交雑・融合により現代アメリカ大陸の住民が形成された、と言えば「善」なる「美しき」交流に聞こえるかもしれませんが、その実態は配偶行動にさいしての優勢なヨーロッパ系による先住民系男性の排除で、大きな抑圧があったのではないか、と容易に想像され、それは歴史学など他分野の研究成果とも整合的と言えるでしょう。一般に、人類史において征服を伴うような移住・交雑には、配偶行動における性的非対称が起きやすいとも考えられ(関連記事)、その意味でも、交雑に抑圧的な側面もあったことは想定しやすいように思います。
交雑のもっと本質的な問題は、現代(「先進」諸国の)社会において同じく「善」とみなされている多様性との関連です。現生人類は短期間で世界中に拡散できたが故に均質で、交通手段の発達した近年ではさらに均質化していっているかもしれず、逆に、現生人類以外の多様な人類が存在した時代のアジアは、各ホモ属種が「閉じ込められ」た故に多様だったのだ、との指摘もあります(関連記事)。「善」と考えられている多様性が、多分に「孤立」や「分断」に起因しているとすると、手放しで賞賛することはできません。だからといって、均質化の進展を手放しで賞賛してよいものでもないので、悩ましいところです。「リベラル」の側からすれば、交雑も時として含む交流により、「普遍的価値観」の点では均質化し、その他の点では多様性を維持すればよい、との想定なのかもしれませんが、そのように上手くいくのか、はなはだ疑問です(まだ思いつきの段階にすぎませんが)。
日本列島も、「交雑する人類」の例外ではありません。「縄文人」の形成過程については、まださほど明らかになっておらず(関連記事)、日本列島も含めてユーラシア東部圏の古代DNA研究の進展を俟つしかありませんが、弥生時代以降、日本列島において「置換」と言ってもよいくらい、遺伝的構成に大きな変化が生じた可能性は高そうです(関連記事)。日本社会において、日本人単一民族説はむしろ第二次世界大戦後に常識となり、それは植民地帝国としての現実が失われたからでした(関連記事前編および関連記事後編)。日本人単一民族説は、現代日本人における弥生時代以降の渡来系の圧倒的な遺伝的影響を前提としても成立するものだと思いますが、同説の支持者は、縄文時代以来、遺伝的にも文化的にも日本なる独自の集団が存在し続けてきた、と想定する傾向が強いように思われます。それは歴史認識として問題があるとは思いますが、一方で、弥生時代以降の渡来系の圧倒的な遺伝的影響を根拠に、現代日本社会において縄文時代の影響などほとんどないだろう、と想定しているような言説もまた、とても確証されたものではない、と思います(関連記事)。
近年、現生人類(Homo sapiens)の起源に関して、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類は形成されていった、とする「アフリカ多地域進化説」が有力になりつつあるように思います(関連記事)。さらに言えば、おそらくホモ属も、300万~200万年前頃に、アフリカ各地の複数の集団間の交雑により形成されたのではないか、と私は考えています。もっとも、現時点では確たる根拠を提示できるわけではありませんが。また、こうした特徴は人類系統に限らず、現代ではコンゴ川で生息域が分断されている、現代人の最近縁の現生種となるチンパンジー(Pan troglodytes)とボノボ(Pan paniscus)は、乾燥化によりコンゴ川の水位がきょくたんに低下した短期間に交雑していたのではないか、と推測されています(関連記事)。
このように、人類史において移住・交雑は珍しくなかった、と明らかになってくると、それを移民受け入れの根拠とし、「純粋な民族」に拘るナチス的な世界観を批判する見解も提示されています(関連記事)。しかし、人類史において普遍的だから現在もそれを受け入れるべきだという主張は、自然主義的誤謬に倣えば歴史(先例)主義的誤謬と言うべきで、直接的には移民・難民受け入れの根拠としてはならないでしょう。もっとも、人類史において普遍的であるのは、それ相応の深い理由があるからと考えられるので、その点を踏まえてよく理由を理解したうえで対応すべきだとは思います。
交雑は交流に包含される行為ですから、現在では、一般的には「善」とみなされているでしょう。現在は削除されてしまったTwitterアカウントは、「ネアンデルタール人のDNAを受け継いだので、ホモ・サピエンスは病気に強くなった。交雑は善なのだ。交雑を忌み嫌い、純血種にこだわるのはナチス」とさえ呟いていたくらいです。もっとも、交雑は「病気に強くなった」ような「利点」ばかりではありません。現代人の中には、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)に由来する生存の危険性を高める遺伝子も確認されています(関連記事)。
しかし、より本質的な問題は、交雑が友好的・平和的なものとは限らない、ということです。もちろん、確証は不可能ですが、現生人類とネアンデルタール人との交雑にしても、暴力的なものがなかった可能性はきわめて低いと思います。また、直接的に暴力を用いた強姦だけではなく、社会的に抑圧された状況下での交雑の進展も想定されます。たとえばアメリカ大陸のうち現代パナマ人では、母系では先住民系が圧倒的に優勢(約83%)なのに、父系では、ヨーロッパも含む西ユーラシアおよび北アフリカ系が優勢(約60%)です(関連記事)。ヨーロッパ系とアメリカ大陸先住民系との交雑・融合により現代アメリカ大陸の住民が形成された、と言えば「善」なる「美しき」交流に聞こえるかもしれませんが、その実態は配偶行動にさいしての優勢なヨーロッパ系による先住民系男性の排除で、大きな抑圧があったのではないか、と容易に想像され、それは歴史学など他分野の研究成果とも整合的と言えるでしょう。一般に、人類史において征服を伴うような移住・交雑には、配偶行動における性的非対称が起きやすいとも考えられ(関連記事)、その意味でも、交雑に抑圧的な側面もあったことは想定しやすいように思います。
交雑のもっと本質的な問題は、現代(「先進」諸国の)社会において同じく「善」とみなされている多様性との関連です。現生人類は短期間で世界中に拡散できたが故に均質で、交通手段の発達した近年ではさらに均質化していっているかもしれず、逆に、現生人類以外の多様な人類が存在した時代のアジアは、各ホモ属種が「閉じ込められ」た故に多様だったのだ、との指摘もあります(関連記事)。「善」と考えられている多様性が、多分に「孤立」や「分断」に起因しているとすると、手放しで賞賛することはできません。だからといって、均質化の進展を手放しで賞賛してよいものでもないので、悩ましいところです。「リベラル」の側からすれば、交雑も時として含む交流により、「普遍的価値観」の点では均質化し、その他の点では多様性を維持すればよい、との想定なのかもしれませんが、そのように上手くいくのか、はなはだ疑問です(まだ思いつきの段階にすぎませんが)。
日本列島も、「交雑する人類」の例外ではありません。「縄文人」の形成過程については、まださほど明らかになっておらず(関連記事)、日本列島も含めてユーラシア東部圏の古代DNA研究の進展を俟つしかありませんが、弥生時代以降、日本列島において「置換」と言ってもよいくらい、遺伝的構成に大きな変化が生じた可能性は高そうです(関連記事)。日本社会において、日本人単一民族説はむしろ第二次世界大戦後に常識となり、それは植民地帝国としての現実が失われたからでした(関連記事前編および関連記事後編)。日本人単一民族説は、現代日本人における弥生時代以降の渡来系の圧倒的な遺伝的影響を前提としても成立するものだと思いますが、同説の支持者は、縄文時代以来、遺伝的にも文化的にも日本なる独自の集団が存在し続けてきた、と想定する傾向が強いように思われます。それは歴史認識として問題があるとは思いますが、一方で、弥生時代以降の渡来系の圧倒的な遺伝的影響を根拠に、現代日本社会において縄文時代の影響などほとんどないだろう、と想定しているような言説もまた、とても確証されたものではない、と思います(関連記事)。
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