アラビア半島中央部のアシューリアン
アラビア半島中央部のアシューリアン(Acheulean)石器群に関する研究(Shipton et al., 2018B)が報道されました。アフリカ・南アジア・ヨーロッパの間に位置するアラビア半島は、下部旧石器時代となるアシューリアンの拡散において重要な位置を占めていると言えそうですが、アラビア半島のアシューリアンに関する情報は少なく、過小評価されています。アシューリアンは緯度55度以下に拡散しましたが、アシューリアンの担い手であるホモ属集団がどのように新たな環境に適応できたのか、詳細は不明です。本論文は、アラビア半島中央部のダワドミ(Dawadmi)町サッファーカ(Saffaqah)村近くのアシューリアン遺跡群を調査し、当時の人類の環境適応について検証しています。
サッファーカ遺跡群では、握斧(handaxes)や鉈状石器(cleavers)も含む、100万個近いアシューリアン石器群が表面採集されています。サッファーカ遺跡群は、アラビア半島の東西両岸(ペルシア湾側と紅海側)のどちらからもほぼ同距離(500km)となる内陸部に位置しています。サファーカ遺跡は、ワディアルバティン(Wadi al Batin)川とワディサブハ(Wadi Sabha)川という、現在では枯れてしまったアラビア半島の当時の主要な2河川の源流近くに位置します。当時、アラビア半島は現在よりもずっと湿潤でした。サッファーカ遺跡群では、旧河川近くやそこからやや離れた地点で複数の遺跡群が確認されており、遺跡群から離れた地点でも石器群が見つかっています。サッファーカ遺跡群の年代については、いくつかの石器がウラン-トリウム法により20万年以上前と推定されています。
サッファーカ遺跡群のアシューリアン石器群については、ルヴァロワ(Levallois)技術の要素も以前報告されましたが、本論文の分析では否定されています。石器群の分析から、当時の人類の手先は現代人と同様に器用だった、と推測されます。サッファーカ遺跡群のアシューリアン石器群の特徴は、技術的にたいへん安定している、ということです。これは、レヴァントのジスルバノトヤコブ(Gesher Benot Ya'aqov)遺跡のアシューリアン石器群とも一致する傾向だ、と指摘されています。アラビア半島中央部のアシューリアンは、保守的傾向がたいへん強かったのではないか、というわけです。
この保守的傾向は、石材選択でも見られます。サッファーカ遺跡群の石器群の大半(各遺跡での比率は約82~99%)は安山岩で製作されましたが、石英・流紋岩・花崗岩も多少ながら石材として用いられました。断片的な石英は旧河川近くの平野で露出していますが、握斧の制作にじゅうぶんな大きさの石英は遺跡群の一つから7kmほど離れた丘で容易に入手できます。しかし、サッファーカ遺跡群の人類集団(以下、SQ集団と省略します)が丘で石材を入手した証拠は見つかりませんでした。やや遠く、丘を登ることでカロリー消費も多くなるとはいえ、SQ集団は、より適した石材を(多少の?)手間暇かけて入手するよりも、手軽に入手できる丘よりも近くの石材を選択し続けた、というわけです。これは、後の人類集団であるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や初期現生人類(Homo sapiens)が、時として山や丘を登って石材を入手したことと対照的です。
石器構成の比率が、遺跡の場所により異なる傾向を示すことも、SQ集団の保守的傾向を示す、と指摘されています。河畔の遺跡群では河川からやや離れた遺跡群よりも、10mm以上の剥片がずっと少なく、初期段階の両面加工石器が顕著に少ない(まったくない河畔の遺跡もあります)一方で、両面加工石器はずっと多い、と明らかになりました。SQ集団は、河川からやや離れた場所で石器を加工し、精選した加工品を河畔に持ち込んで生活していたのではないか、と推測されます。アラビア半島の当時の人類集団は、アラビア半島の東西沿岸から河川沿いに中央部に拡散した、と考えられますが、そうした河川志向の傾向をずっと強く維持し続けたようです。
本論文は、このようにSQ集団の保守的傾向を強調します。アシューリアン石器が高密度で発見されていることから、サッファーカ遺跡群の人類集団は繁栄したのだろう、と本論文は推測しています。SQ集団は、器用な手先と熟練した技術を有していたものの、石器群の分析からは、堆積物の分析により推測される環境変動に適応した様子が窺えず、乾燥化に対応できずにアラビア半島中央部を放棄したのではないか、と本論文は指摘します。SQ集団はあまりにも保守的だったので、環境変動に適応できず、撤退もしくは絶滅したのではないか、というわけです。アラビア半島中央部における中部旧石器時代の石器密度の低さと、サッファーカ遺跡群の石器群に中部旧石器的要素が見られないことからも、アラビア半島中央部におけるSQ集団のようなアシューリアン集団は中部旧石器時代の集団と連続しなかったのではないか、と本論文は指摘しています。
SQ集団はまず間違いなくホモ属でしょうし、中期更新世前期にはホモ属は広範な地域に拡散します。それは、当時のホモ属の適応能力の高さを示しているとも解釈できそうですが、当時のホモ属による寒冷地域や乾燥地域の利用は限定的で断続的だった、と本論文は指摘します。SQ集団の事例からも、当時の人類の環境利用は後の人類集団と比較して限定的だったのではないか、というわけです。本論文は、SQ集団がホモ属のどの系統なのか、とくに論じてはいませんが、上記報道ではエレクトス(Homo erectus)と明記されています。広義だとしても、SQ集団がエレクトスに分類される可能性は低い、と私は考えていますが。
すでに前期更新世において、ホモ属は広範な地域に拡散していたと思われます。そのため、前期~中期更新世のホモ属の環境変動への適応能力は高かったように思われますが、本論文が指摘するように、そうした見解が確証されたとはまだ言えない状況でしょう。当時のホモ属は似たような環境に拡散し、気候変動により環境が変わると(たとえば寒冷化や乾燥化)、撤退するか絶滅した、という事例も多かったのではないか、と思います。
ただ、本論文はSQ集団の保守的傾向を過大評価しているのではないか、との懸念も残ります。確かに、石材選択や石器技術に関してSQ集団は保守的だったかもしれませんが、食料の獲得などでは、もっと柔軟な行動をとっていたかもしれません。これは、人類遺骸の同位体分析などで明らかにできそうですが、アラビア半島で発見された更新世の人類遺骸はたいへん少なく、今後も劇的に増加するとは期待しにくいので、確証の難しい問題です。また、石材選択の節約的行動にしても、消費エネルギーを抑制する合理的行動とも解釈できるかもしれません。世界の広汎な地域で、前期~中期更新世にかけての同様の研究の進展が期待されます。
参考文献:
Shipton C, Blinkhorn J, Breeze PS, Cuthbertson P, Drake N, Groucutt HS, et al. (2018B) Acheulean technology and landscape use at Dawadmi, central Arabia. PLoS ONE 13(7): e0200497.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0200497
サッファーカ遺跡群では、握斧(handaxes)や鉈状石器(cleavers)も含む、100万個近いアシューリアン石器群が表面採集されています。サッファーカ遺跡群は、アラビア半島の東西両岸(ペルシア湾側と紅海側)のどちらからもほぼ同距離(500km)となる内陸部に位置しています。サファーカ遺跡は、ワディアルバティン(Wadi al Batin)川とワディサブハ(Wadi Sabha)川という、現在では枯れてしまったアラビア半島の当時の主要な2河川の源流近くに位置します。当時、アラビア半島は現在よりもずっと湿潤でした。サッファーカ遺跡群では、旧河川近くやそこからやや離れた地点で複数の遺跡群が確認されており、遺跡群から離れた地点でも石器群が見つかっています。サッファーカ遺跡群の年代については、いくつかの石器がウラン-トリウム法により20万年以上前と推定されています。
サッファーカ遺跡群のアシューリアン石器群については、ルヴァロワ(Levallois)技術の要素も以前報告されましたが、本論文の分析では否定されています。石器群の分析から、当時の人類の手先は現代人と同様に器用だった、と推測されます。サッファーカ遺跡群のアシューリアン石器群の特徴は、技術的にたいへん安定している、ということです。これは、レヴァントのジスルバノトヤコブ(Gesher Benot Ya'aqov)遺跡のアシューリアン石器群とも一致する傾向だ、と指摘されています。アラビア半島中央部のアシューリアンは、保守的傾向がたいへん強かったのではないか、というわけです。
この保守的傾向は、石材選択でも見られます。サッファーカ遺跡群の石器群の大半(各遺跡での比率は約82~99%)は安山岩で製作されましたが、石英・流紋岩・花崗岩も多少ながら石材として用いられました。断片的な石英は旧河川近くの平野で露出していますが、握斧の制作にじゅうぶんな大きさの石英は遺跡群の一つから7kmほど離れた丘で容易に入手できます。しかし、サッファーカ遺跡群の人類集団(以下、SQ集団と省略します)が丘で石材を入手した証拠は見つかりませんでした。やや遠く、丘を登ることでカロリー消費も多くなるとはいえ、SQ集団は、より適した石材を(多少の?)手間暇かけて入手するよりも、手軽に入手できる丘よりも近くの石材を選択し続けた、というわけです。これは、後の人類集団であるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や初期現生人類(Homo sapiens)が、時として山や丘を登って石材を入手したことと対照的です。
石器構成の比率が、遺跡の場所により異なる傾向を示すことも、SQ集団の保守的傾向を示す、と指摘されています。河畔の遺跡群では河川からやや離れた遺跡群よりも、10mm以上の剥片がずっと少なく、初期段階の両面加工石器が顕著に少ない(まったくない河畔の遺跡もあります)一方で、両面加工石器はずっと多い、と明らかになりました。SQ集団は、河川からやや離れた場所で石器を加工し、精選した加工品を河畔に持ち込んで生活していたのではないか、と推測されます。アラビア半島の当時の人類集団は、アラビア半島の東西沿岸から河川沿いに中央部に拡散した、と考えられますが、そうした河川志向の傾向をずっと強く維持し続けたようです。
本論文は、このようにSQ集団の保守的傾向を強調します。アシューリアン石器が高密度で発見されていることから、サッファーカ遺跡群の人類集団は繁栄したのだろう、と本論文は推測しています。SQ集団は、器用な手先と熟練した技術を有していたものの、石器群の分析からは、堆積物の分析により推測される環境変動に適応した様子が窺えず、乾燥化に対応できずにアラビア半島中央部を放棄したのではないか、と本論文は指摘します。SQ集団はあまりにも保守的だったので、環境変動に適応できず、撤退もしくは絶滅したのではないか、というわけです。アラビア半島中央部における中部旧石器時代の石器密度の低さと、サッファーカ遺跡群の石器群に中部旧石器的要素が見られないことからも、アラビア半島中央部におけるSQ集団のようなアシューリアン集団は中部旧石器時代の集団と連続しなかったのではないか、と本論文は指摘しています。
SQ集団はまず間違いなくホモ属でしょうし、中期更新世前期にはホモ属は広範な地域に拡散します。それは、当時のホモ属の適応能力の高さを示しているとも解釈できそうですが、当時のホモ属による寒冷地域や乾燥地域の利用は限定的で断続的だった、と本論文は指摘します。SQ集団の事例からも、当時の人類の環境利用は後の人類集団と比較して限定的だったのではないか、というわけです。本論文は、SQ集団がホモ属のどの系統なのか、とくに論じてはいませんが、上記報道ではエレクトス(Homo erectus)と明記されています。広義だとしても、SQ集団がエレクトスに分類される可能性は低い、と私は考えていますが。
すでに前期更新世において、ホモ属は広範な地域に拡散していたと思われます。そのため、前期~中期更新世のホモ属の環境変動への適応能力は高かったように思われますが、本論文が指摘するように、そうした見解が確証されたとはまだ言えない状況でしょう。当時のホモ属は似たような環境に拡散し、気候変動により環境が変わると(たとえば寒冷化や乾燥化)、撤退するか絶滅した、という事例も多かったのではないか、と思います。
ただ、本論文はSQ集団の保守的傾向を過大評価しているのではないか、との懸念も残ります。確かに、石材選択や石器技術に関してSQ集団は保守的だったかもしれませんが、食料の獲得などでは、もっと柔軟な行動をとっていたかもしれません。これは、人類遺骸の同位体分析などで明らかにできそうですが、アラビア半島で発見された更新世の人類遺骸はたいへん少なく、今後も劇的に増加するとは期待しにくいので、確証の難しい問題です。また、石材選択の節約的行動にしても、消費エネルギーを抑制する合理的行動とも解釈できるかもしれません。世界の広汎な地域で、前期~中期更新世にかけての同様の研究の進展が期待されます。
参考文献:
Shipton C, Blinkhorn J, Breeze PS, Cuthbertson P, Drake N, Groucutt HS, et al. (2018B) Acheulean technology and landscape use at Dawadmi, central Arabia. PLoS ONE 13(7): e0200497.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0200497
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