多地域進化説の成立過程補足(人種問題との関連)

 現生人類(Homo sapiens)多地域進化説の成立過程について一度短くまとめてみようと思い立ったのですが、もう10年以上ほとんど勉強が進んでおらず、10年以上前の記事よりもましなことを書けそうにないので、当時述べ忘れたことを追加して述べておきます。現生人類の起源をめぐっては、多地域進化説とアフリカ単一起源説との間で1980年代~1990年代にかけて激論となりましたが、現在ではアフリカ単一起源説が通説となっています。ただ、アフリカ単一起源説でも完全置換説ではなく、ブロイアー(Günter Bräuer)氏などの提唱した、アフリカ起源の現生人類とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)などユーラシア各地の先住人類との間にある程度の交雑を認める見解(交配説)が有力とされています(関連記事)。

 多地域進化説とアフリカ単一起源説との論争については、1987年に現代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)の研究が公表されるまで多地域進化説が長い間定説になっていた、との認識(関連記事)や、1989年の時点でアフリカ単一起源説は疑う余地がないものとされており、多地域進化説を検討しようものなら、たちまち異端扱いされたほどだった、との認識(関連記事)も見られますが、少なくとも1990年代初めの頃までは、どちらかが決定的に優勢だったわけではなく、そもそも多地域進化説の歴史はさほど長いものでもありませんでした。また、mtDNA研究により初めてアフリカ単一起源説が提唱されたとの認識も珍しくないように思われますが、その前に形態学的研究によりアフリカ単一起源説が主張されていました(関連記事)。

 多地域進化説の成立過程については上記の記事で述べたので詳しくは繰り返しませんが、その源流の一つとして、ヴァイデンライヒ(Franz Weidenreich)氏が20世紀半ばに提唱した、オーストラリア・アジア・アフリカ・ヨーロッパという4地域それぞれでの、相互の遺伝的交流も想定した長期の進化の結果として現代人が成立した、との見解があります。この見解は、20世紀半ばに成立した進化総合説を前提としたものではなく、そうしたこともあって、当初はさほど影響力のある説ではありませんでした。

 多地域進化説の源流の一つとして、ブレイス(Charles Loring Brace IV)氏が提唱した、進化総合説を前提とした人類単一種説も重要です。人類単一種説では、文化は強力な生態的地位なので、文化を持つ人類はどの時代においても単一種であり続け、アウストラロピテクス属の猿人→エレクトス(Homo erectus)のような初期ホモ属の原人→ネアンデルタール人のような後期ホモ属の旧人→現生人類である新人へと進化した、と想定されました。人類単一種説は、ホモ属と頑丈型とされるパラントロプス属とが同時代に存在していたと明らかになったことで1975年に破綻しましたが、その文化重視の観点は多地域進化説に継承されました。

 多地域進化説の最終的な成立は1980年代になってからで、人類単一種説を強力に主張していたものの、その破綻が明らかになったことで模索していたアメリカ合衆国のウォルポフ(Milford H. Wolpoff)氏が、人類史における地域間の変異とその連続性に注目していたオーストラリアのソーン(Alan Thorne)氏との共同研究を始めたことが契機となりました。後に、中華人民共和国の呉新智(Wu Xinzhi)氏もウォルポフ氏とソーン氏の陣営に加わり、多地域進化説は研究対象も研究拠点も世界的な広がりを有するものとなりました。

 多地域進化説は、ヴァイデンライヒ説に人類単一種説の破綻していない見解(文化重視、ホモ属単一種説)を取り入れて成立した、といった感があります。多地域進化説の主要な提唱者の一人であるウォルポフ氏も、ヴァイデンライヒ説には負うところが大きい、と認めています(Shreeve.,1996,P92)。しかし、多地域進化説にはもう一つ、類似性の指摘されている仮説がありました。それは、1960年代にアメリカ合衆国で激論を惹起した、著名な人類学者であるクーン(Carleton S. Coon)氏の見解です。しかし、ウォルポフ氏は、クーン氏の見解と多地域進化説との類似性を指摘されると不機嫌になり、両者はまったく異なる、と強調しています(Shreeve.,1996,P92-93)。

 1962年に刊行されたクーン氏の著書『人種の起源』は、大きな話題を呼んだというか、強烈な批判に晒されました(Trinkaus, and Shipman.,1998,第8章)。クーン氏の見解は、地域ごとの長期にわたる人類進化の継続性を重視する点でヴァイデンライヒ説と似ていますが、重要な違いもありました。ヴァイデンライヒ説では各地域間の遺伝的交流が重視されていたのにたいして、クーン説では地域間の遺伝的交流はなかった、と示唆されていました。そのためウォルポフ氏は、クーン説は地域間の遺伝的交流を想定する多地域進化説とまったく異なる、と強調したわけです。

 ただ、これだけならば、クーン説は激烈な批判を受けることはなかったでしょうが、問題となったのは、各地域の人類集団はエレクトスからサピエンス(Homo sapiens)へと5回の段階を経て進化し、その段階の年代が地域ごとに異なる、と想定されていたことでした。クーン説では、まずコーカソイドとモンゴロイドが最初にサピエンスへの境界を越え、コンゴイド(いわゆる「黒人」)やケイポイド(アフリカ南部のコイサン集団など)やオーストラロイドがその後にサピエンスへの境界を越えた、と想定されていました。

 確かに、クーン説が1960年代に人種差別だとして激しい批判を受けたのにはもっともなところがある、と言えそうです。ただ、クーン説への批判に行きすぎ、言いがかり的なものがあったことも否定できないようです。クーン説と多地域進化説との類似性を指摘されて否定していたウォルポフ氏も、多地域進化説が人種差別に悪用される危険性を認識しています(Shreeve.,1996,P134-135)。上述したように、現在では現生人類アフリカ単一起源説でも交配説が有力とされており、クーン説的な見解を真剣に主張する専門家は皆無と言ってよいでしょう。

 ただ、クーン説では現在でも注目すべき視点が提示されていると思います。それは、各地域集団でサピエンスへの境界を越えた時期が異なるのは、その居住環境に要因がある、と想定されていたことです。これは一種の生態学的決定論で、ダイアモンド(Jared Mason Diamond)氏が『銃・病原菌・鉄』で主張していたこととも通じます(関連記事)。『銃・病原菌・鉄』は名著とされ、すでに古典になりつつあるようにも思われますが、生態学的決定論という意味で、激烈な批判対象となった『人種の起源』と共通点が見られるのは興味深いことです。現時点では、ここからさらに掘り下げていくだけの準備はまったくできていないので、今後もこの問題を意識し続けて、考えていきたいものです。


参考文献:
Diamond JM.著(2000)、倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄』(草思社、原書の刊行は1997年)

Shreeve J.著(1996)、名谷一郎訳『ネアンデルタールの謎』(角川書店、原書の刊行は1995年)

Trinkaus E, and Shipman P.著(1998)、中島健訳『ネアンデルタール人』(青土社、原書の刊行は1992年)

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