柿沼陽平『劉備と諸葛亮 カネ勘定の『三国志』』

 文春新書の一冊として、文藝春秋社から2018年5月に刊行されました。劉備と諸葛亮を中心に、『三国志』の時代を経済と民衆への負担という観点から見直しています。『三国志』の時代から1000年以上経過して成立した『三国志演義』を源とする、さまざまな小説・漫画・映像作品・ゲームにより、現代日本社会では『三国志』の時代はきわめて人気の高い歴史分野となっています。その人気の要因は、やはり魅力的な英雄たちの言動なのでしょう。本書は、そうした「英雄史観」的な『三国志』像、とくに、劉備と諸葛亮を民衆に配慮した「善玉」とするような歴史観を強く意識し、経済的な観点から、「素朴な英雄史観」・「劉備・諸葛亮善玉史観」を批判しています。

 しかし正直なところ、本書を読むくらい『三国志』に関心のある人々のうち、劉備や諸葛亮を民衆想いの「善玉」と単純に考えているような層の割合はかなり低いのではないか、との疑問は残ります。本書からは、「劉備・諸葛亮善玉史観」を見直す、という強い意気込みが窺えますが、率直に言って、空回りしているところが多分にあると思います。ただ、「素朴な英雄史観」の批判と、経済を重要な視点とし、民衆の負担に着目したところは、新書の『三国志』ものとしてよかったのではないか、と思います。

 本書は、劉備や諸葛亮(に限らず『三国志の時代の英雄の多く』)の政策・決断が民衆に重い負担を強いるものだった、と強調します。確かに、それは間違いないのでしょうが、一方で、本書も指摘するように、諸葛亮は後世の人々からのみならず、すでに(準)同時代の人々からも為政者としての手腕が高く評価されています。本書が指摘するように、諸葛亮が蜀(蜀漢、漢)をよく統治していたことは間違いなく、諸葛亮の統率力が優れていたことを疑う余地はないようです。しかし本書は、諸葛亮を賛美する史料を残した人々もまた、支配層側の知識人だったことを指摘します。当時の支配層には、民衆の負担と苦しみへの視線は弱く、諸葛亮の統治が民衆に重い負担を強いたことと、諸葛亮の賛美は両立し得る、というわけです。諸葛亮に限らず、本書のこうした観点は、とくに前近代史において重要となるでしょう。

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