日本は百済の植民地との説に潜む問題
古代日本(倭)は百済の植民地(領土)だった、との説(以下、日本植民地説と省略します)があるそうです。ネットで検索すると、日本語で読める記事もありますが、正直なところ、どこまで本気で主張しているのか、判断の難しいところです。ただ、日本でもわずかながら本気で支持する人がいる可能性は高そうですし、韓国では日本よりも支持者の割合はずっと高いでしょう。とはいっても、韓国でも支持する人は少数派だと思います(自信はありませんが)。
日本植民地説の問題点は、近代的世界観を前近代史に投影していることだと私は考えています。確かに、漢字文化・寺院建築に代表される技術・統治体制などの点で、百済が倭よりも「先進的」だった側面が多分にあるのは否定できないでしょう。しかし、広義の文化において「先進的」な方が政治的にも優位に立つという観念は、19世紀~20世紀前半における近代西洋の衝撃の印象を、7世紀以前にも安易に投影したものだと思います。たとえば、前漢は匈奴にたいして漢字文化や少なからぬ技術において「先進的」だと言えるでしょうが、だからといって前漢が当初より匈奴にたいして政治的に優位に立っていたわけではありません。前近代のユーラシア東部圏において、「先進的」な側が「後進的」な側にたいして政治的に優位に立っていたとは限らない、というわけです。
同様のことは倭と百済の関係にも当てはまるでしょう。百済の「国際的」地位は不安定で、5世紀後半には滅亡しかけています(一旦は滅亡したと言えるかもしれません)。百済は倭の政治的支援(軍事的要素も含みます)を必要とする側であり、百済から倭への「先進的」な人材・文化・技術の流入も、倭の支援もしくは好意的立場への期待・見返りという側面が多分にあった、と考えるのが妥当なところだと思います。好太王碑からは、倭がじっさいに朝鮮半島に出兵し、百済と対立していた高句麗と戦って敗れたことが窺えますし、7世紀の百済滅亡時にも、倭は百済の残存勢力と組んで唐・新羅と戦い、敗れました。
少なくとも5世紀以降、百済と新羅が倭に王族を派遣する一方で(これを人質としてのみ把握するのは妥当ではないでしょうが)、倭から百済と新羅への王族派遣の証拠はないことからも、倭と百済のどちらが政治的に優位に立つ傾向にあったのか、明らかだと思います。『隋書』には、百済と新羅は倭を大国とみなして敬っている、とあります。これは倭人の説明をそのまま採録しただけかもしれませんが、実態に近かったのではないか、と思います。このような状況で、百済が倭を植民地とすることはあり得なかっただろう、と思います。
それ故に、百済から日本列島への渡来民・難民が、政治・文化も含めて日本(倭)の国家体制の確立に大きく寄与したことは間違いないとはいっても、その政治的地位は、ごく一部が上級貴族(公卿)の最下層に何とか昇進できる、という程度のものでしかありませんでした。したがって、少なくとも5世紀以降、倭(日本)の上位支配層に百済からの渡来民・難民が入り込む余地はまずなかった、と思います。おそらく、4世紀や3世紀においてもそうしたことはなかったでしょう。大王(天皇)や蘇我氏のような有力一族は、遅くとも4世紀までに日本列島に定住した人々の中から台頭してきた可能性がきわめて高いでしょう。もっとも、日本列島における氏族自体、おそらく5世紀後半~6世紀前半にかけて形成されていき、5世紀の時点ではまだ後世ほどには明確ではなかったでしょう。なお、倭が百済にたいして政治的に優位に立つ傾向があったとはいっても、倭が百済を植民地にしていたとか、属国にしていたとかいった見解も的外れだと思います。
日本植民地説については、倭と百済の密接な関係との歴史認識も要注意だと思います。『日本書紀』の編纂には亡命百済人の知識層も少なからず関わっていたと思われますし、何よりも、百済系史料が用いられたことは『日本書紀』に明記されています。そうすると、倭と百済との密接な関係との歴史認識も、百済滅亡後に「異国」で暮らしていかねばならない百済系知識層の立場による偏向を想定しなければならないでしょう。
とはいっても、白村江の戦いはあまりにも無謀であり、倭と百済の親密な関係を想定しなければ理解できない、との見解もあるでしょう。そうした認識に基づき、天智天皇(当時、天皇という称号が用いられていたのか、確証はありませんが)は百済の王族だった、との説さえ主張されたほどです。しかし、もう18年近く前(2000年9月)に述べましたが(関連記事)、天智による百済救援は当時の「国際情勢」で理解できる妥当なものであり、それはその後の対朝鮮半島外交も同様です。
百済は660年に滅亡したとはいえ、復興運動はかなりの成果を収め、一時は旧領の過半を回復する勢いを見せました。上述したように、5世紀後半にも百済は滅亡しかけてから復興しており、百済(残党)への支援は、当時としては無謀とは言えないでしょう。もちろん、南北朝時代だった5世紀後半とは異なり、660年には唐が存在し、その唐が新羅と共に百済を滅ぼした、という状況の違いはあります。しかし、当時はまだ高句麗が健在で、唐は太宗の時代と白村江の戦いの少し前にも高句麗に攻め入って撤退していました。
客観的に見ても、当時、倭が百済救援方針を採用しても無謀とまでは言えないでしょうし、倭と百済との特別に密接な関係を想定する必要もないでしょう。もちろん、倭が激動の朝鮮半島情勢を傍観する選択肢も、唐・新羅と組む選択肢もあったわけですが、百済救援方針が無謀とは考えられなかったことと、窮地にある百済にたいして決定的に優位に立てそうなことから、百済救援方針が採用されたのでしょう。倭は、長年倭に滞在し、復興百済の王に迎えられることになった余豊璋に織冠を授けており、(将来の)百済王を明確に臣下に位置づけられる、という政治的成果に大きな価値を認めたのでしょう。まあ、仮に百済復興運動が成就していたとしたら、余豊璋やその後の王がいつまで倭(日本)の臣下という位置づけに甘んじていたのか、定かではありませんが。
このように、白村江の戦いも倭と百済の特別に親密な関係を証明するわけではなく、「常識的」な「国際関係」の一つの在り様として理解できると思います。日本列島、その中でも北部九州はとくに朝鮮半島と地理的に近いのですが、近年の考古学的成果からは、縄文時代の北部九州はとても朝鮮半島南部と文化を共有する一帯の地域とは言えない、と指摘されています(関連記事)。もちろん、日本列島と朝鮮半島との交流は縄文時代以降、時代による密度の差はあれどもずっと続いていますが、対馬海峡は日本列島と朝鮮半島との大きな障壁として作用し続けたのかもしれません。
倭と百済の密接な関係との歴史認識に偏りがあるとすると、問題となるのは倭(日本)と新羅との関係です。倭と新羅とは加羅地域などで対立している、という側面が強調されているように思いますが、これも、『日本書紀』の編纂に百済系知識層が関わり、百済系史料が引用・参照されていることと関わっているかもしれません。百済系知識層の中には、新羅に悪感情を抱く人が少なくなったのではないか、と推測されるからです。また、倭(日本)と新羅との関係の変容も、日本の新羅認識に影響を及ぼした可能性があります。新羅は唐と対立していた時期(おおむね天智朝末期~持統朝)には倭(日本)にたいして低姿勢でしたが、唐との関係が改善されると、日本にたいする低姿勢の傾向を改めるようになります。その結果、日本と新羅の関係は悪化していき、そのような時期に『日本書紀』は編纂されました。
そのため『日本書紀』では、新羅から倭(日本)への影響が過小評価されている側面が多分にあるかもしれません。逆に、百済から倭への影響は過大評価されている可能性があります。具体的には、たとえば、5世紀以降の日本の馬具への新羅の強い影響など、新羅と倭(日本)との関係は『日本書紀』から推測されるよりもずっと密接だった可能性があります。何よりも、倭(日本)と唐(周)の直接的関係が途絶えているなかで、飛鳥浄御原令と大宝律令が編纂されているわけですから、倭(日本)の律令編纂にさいして、直接的には新羅の影響が強かった可能性はじゅうぶん想定されると思います。
日本植民地説の問題点は、近代的世界観を前近代史に投影していることだと私は考えています。確かに、漢字文化・寺院建築に代表される技術・統治体制などの点で、百済が倭よりも「先進的」だった側面が多分にあるのは否定できないでしょう。しかし、広義の文化において「先進的」な方が政治的にも優位に立つという観念は、19世紀~20世紀前半における近代西洋の衝撃の印象を、7世紀以前にも安易に投影したものだと思います。たとえば、前漢は匈奴にたいして漢字文化や少なからぬ技術において「先進的」だと言えるでしょうが、だからといって前漢が当初より匈奴にたいして政治的に優位に立っていたわけではありません。前近代のユーラシア東部圏において、「先進的」な側が「後進的」な側にたいして政治的に優位に立っていたとは限らない、というわけです。
同様のことは倭と百済の関係にも当てはまるでしょう。百済の「国際的」地位は不安定で、5世紀後半には滅亡しかけています(一旦は滅亡したと言えるかもしれません)。百済は倭の政治的支援(軍事的要素も含みます)を必要とする側であり、百済から倭への「先進的」な人材・文化・技術の流入も、倭の支援もしくは好意的立場への期待・見返りという側面が多分にあった、と考えるのが妥当なところだと思います。好太王碑からは、倭がじっさいに朝鮮半島に出兵し、百済と対立していた高句麗と戦って敗れたことが窺えますし、7世紀の百済滅亡時にも、倭は百済の残存勢力と組んで唐・新羅と戦い、敗れました。
少なくとも5世紀以降、百済と新羅が倭に王族を派遣する一方で(これを人質としてのみ把握するのは妥当ではないでしょうが)、倭から百済と新羅への王族派遣の証拠はないことからも、倭と百済のどちらが政治的に優位に立つ傾向にあったのか、明らかだと思います。『隋書』には、百済と新羅は倭を大国とみなして敬っている、とあります。これは倭人の説明をそのまま採録しただけかもしれませんが、実態に近かったのではないか、と思います。このような状況で、百済が倭を植民地とすることはあり得なかっただろう、と思います。
それ故に、百済から日本列島への渡来民・難民が、政治・文化も含めて日本(倭)の国家体制の確立に大きく寄与したことは間違いないとはいっても、その政治的地位は、ごく一部が上級貴族(公卿)の最下層に何とか昇進できる、という程度のものでしかありませんでした。したがって、少なくとも5世紀以降、倭(日本)の上位支配層に百済からの渡来民・難民が入り込む余地はまずなかった、と思います。おそらく、4世紀や3世紀においてもそうしたことはなかったでしょう。大王(天皇)や蘇我氏のような有力一族は、遅くとも4世紀までに日本列島に定住した人々の中から台頭してきた可能性がきわめて高いでしょう。もっとも、日本列島における氏族自体、おそらく5世紀後半~6世紀前半にかけて形成されていき、5世紀の時点ではまだ後世ほどには明確ではなかったでしょう。なお、倭が百済にたいして政治的に優位に立つ傾向があったとはいっても、倭が百済を植民地にしていたとか、属国にしていたとかいった見解も的外れだと思います。
日本植民地説については、倭と百済の密接な関係との歴史認識も要注意だと思います。『日本書紀』の編纂には亡命百済人の知識層も少なからず関わっていたと思われますし、何よりも、百済系史料が用いられたことは『日本書紀』に明記されています。そうすると、倭と百済との密接な関係との歴史認識も、百済滅亡後に「異国」で暮らしていかねばならない百済系知識層の立場による偏向を想定しなければならないでしょう。
とはいっても、白村江の戦いはあまりにも無謀であり、倭と百済の親密な関係を想定しなければ理解できない、との見解もあるでしょう。そうした認識に基づき、天智天皇(当時、天皇という称号が用いられていたのか、確証はありませんが)は百済の王族だった、との説さえ主張されたほどです。しかし、もう18年近く前(2000年9月)に述べましたが(関連記事)、天智による百済救援は当時の「国際情勢」で理解できる妥当なものであり、それはその後の対朝鮮半島外交も同様です。
百済は660年に滅亡したとはいえ、復興運動はかなりの成果を収め、一時は旧領の過半を回復する勢いを見せました。上述したように、5世紀後半にも百済は滅亡しかけてから復興しており、百済(残党)への支援は、当時としては無謀とは言えないでしょう。もちろん、南北朝時代だった5世紀後半とは異なり、660年には唐が存在し、その唐が新羅と共に百済を滅ぼした、という状況の違いはあります。しかし、当時はまだ高句麗が健在で、唐は太宗の時代と白村江の戦いの少し前にも高句麗に攻め入って撤退していました。
客観的に見ても、当時、倭が百済救援方針を採用しても無謀とまでは言えないでしょうし、倭と百済との特別に密接な関係を想定する必要もないでしょう。もちろん、倭が激動の朝鮮半島情勢を傍観する選択肢も、唐・新羅と組む選択肢もあったわけですが、百済救援方針が無謀とは考えられなかったことと、窮地にある百済にたいして決定的に優位に立てそうなことから、百済救援方針が採用されたのでしょう。倭は、長年倭に滞在し、復興百済の王に迎えられることになった余豊璋に織冠を授けており、(将来の)百済王を明確に臣下に位置づけられる、という政治的成果に大きな価値を認めたのでしょう。まあ、仮に百済復興運動が成就していたとしたら、余豊璋やその後の王がいつまで倭(日本)の臣下という位置づけに甘んじていたのか、定かではありませんが。
このように、白村江の戦いも倭と百済の特別に親密な関係を証明するわけではなく、「常識的」な「国際関係」の一つの在り様として理解できると思います。日本列島、その中でも北部九州はとくに朝鮮半島と地理的に近いのですが、近年の考古学的成果からは、縄文時代の北部九州はとても朝鮮半島南部と文化を共有する一帯の地域とは言えない、と指摘されています(関連記事)。もちろん、日本列島と朝鮮半島との交流は縄文時代以降、時代による密度の差はあれどもずっと続いていますが、対馬海峡は日本列島と朝鮮半島との大きな障壁として作用し続けたのかもしれません。
倭と百済の密接な関係との歴史認識に偏りがあるとすると、問題となるのは倭(日本)と新羅との関係です。倭と新羅とは加羅地域などで対立している、という側面が強調されているように思いますが、これも、『日本書紀』の編纂に百済系知識層が関わり、百済系史料が引用・参照されていることと関わっているかもしれません。百済系知識層の中には、新羅に悪感情を抱く人が少なくなったのではないか、と推測されるからです。また、倭(日本)と新羅との関係の変容も、日本の新羅認識に影響を及ぼした可能性があります。新羅は唐と対立していた時期(おおむね天智朝末期~持統朝)には倭(日本)にたいして低姿勢でしたが、唐との関係が改善されると、日本にたいする低姿勢の傾向を改めるようになります。その結果、日本と新羅の関係は悪化していき、そのような時期に『日本書紀』は編纂されました。
そのため『日本書紀』では、新羅から倭(日本)への影響が過小評価されている側面が多分にあるかもしれません。逆に、百済から倭への影響は過大評価されている可能性があります。具体的には、たとえば、5世紀以降の日本の馬具への新羅の強い影響など、新羅と倭(日本)との関係は『日本書紀』から推測されるよりもずっと密接だった可能性があります。何よりも、倭(日本)と唐(周)の直接的関係が途絶えているなかで、飛鳥浄御原令と大宝律令が編纂されているわけですから、倭(日本)の律令編纂にさいして、直接的には新羅の影響が強かった可能性はじゅうぶん想定されると思います。
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