意欲的な正当性に欠ける政治指導者
昔からたまに考えていることを、一度短くまとめてみます。時代・地域を問わず、正当性に欠ける状況で就任した政治指導者は、意欲的になることが珍しくないように思います。日本史において天皇でいえば、天武・桓武・後鳥羽・後醍醐が代表例でしょうか。この他には、宇多・醍醐・後白河・光格も該当しそうです。征夷大将軍というか武家の棟梁では足利義教・足利義昭・徳川吉宗が、海外の事例では漢の宣帝・隋の煬帝(明帝)・唐の太宗が思い浮かびます。
これらの政治指導者たちは、本来はその地位(皇帝や将軍など)に就くはずではなかったのに、正当な後継者の失脚・夭逝などにより就任した、という共通点があります。おそらく、身近な重臣たちやもっと広範な「輿論」の評価を気にかけて、自らの権威確立のためにも意欲的に事業を進めよう、と考えたのでしょう。これは普遍的な人間心理でもあるのでしょう。その事業は、それぞれの指導者の置かれた状況や個人的志向によりさまざまですが、おもに、政治体制の整備・改革、経済・社会改革、軍事行動(征服)、文化事業に区分されると思います。
こうした意欲的な事業推進は、財政を圧迫したり、既得権を侵害して反発を招来したりする側面もあるので、失敗もしくは中途半端に終わるばかりか、指導者が悲惨な最期を迎えることもあります。上記の人々のうち、殺害された足利義教と煬帝はその典型的事例です。殺されなかったとはいえ、後鳥羽と後醍醐は明らかに失意の最期を迎えた、と言えそうです。後白河は「終わりを全うした」と言えるかもしれませんが、一時は幽閉されており、後鳥羽や後醍醐のように都から追放され、幽閉されて亡くなったとしても不思議ではなさそうな生涯でした。
終わりを全うしたというか、「成功を収めた」と言えそうな指導者(もちろん、当人の主観は違うのかもしれませんが)としては、通俗的な評価では、天武・桓武・光格・唐の太宗が挙げられるでしょうか。ただ、桓武については、晩年に意欲的な事業の二本柱と言える「軍事(蝦夷征服)と造作(新京造営)」が国を圧迫していると指摘されており、後鳥羽や後醍醐のように破綻し、終わりを全うできなかった可能性もじゅうぶんあったと思います。同様のことは、代表的な名君とされる唐の太宗にも当てはまり、治世晩期の高句麗遠征の失敗は、国を傾け、あるいは悲惨な最期を迎える事態を招来したかもしれません。意欲的な政治指導者において、成功者と失敗者の違いは、紙一重とまでは言えない事例も多いとしても、大きな違いがあるわけではないのかもしれません。
これらの政治指導者たちは、本来はその地位(皇帝や将軍など)に就くはずではなかったのに、正当な後継者の失脚・夭逝などにより就任した、という共通点があります。おそらく、身近な重臣たちやもっと広範な「輿論」の評価を気にかけて、自らの権威確立のためにも意欲的に事業を進めよう、と考えたのでしょう。これは普遍的な人間心理でもあるのでしょう。その事業は、それぞれの指導者の置かれた状況や個人的志向によりさまざまですが、おもに、政治体制の整備・改革、経済・社会改革、軍事行動(征服)、文化事業に区分されると思います。
こうした意欲的な事業推進は、財政を圧迫したり、既得権を侵害して反発を招来したりする側面もあるので、失敗もしくは中途半端に終わるばかりか、指導者が悲惨な最期を迎えることもあります。上記の人々のうち、殺害された足利義教と煬帝はその典型的事例です。殺されなかったとはいえ、後鳥羽と後醍醐は明らかに失意の最期を迎えた、と言えそうです。後白河は「終わりを全うした」と言えるかもしれませんが、一時は幽閉されており、後鳥羽や後醍醐のように都から追放され、幽閉されて亡くなったとしても不思議ではなさそうな生涯でした。
終わりを全うしたというか、「成功を収めた」と言えそうな指導者(もちろん、当人の主観は違うのかもしれませんが)としては、通俗的な評価では、天武・桓武・光格・唐の太宗が挙げられるでしょうか。ただ、桓武については、晩年に意欲的な事業の二本柱と言える「軍事(蝦夷征服)と造作(新京造営)」が国を圧迫していると指摘されており、後鳥羽や後醍醐のように破綻し、終わりを全うできなかった可能性もじゅうぶんあったと思います。同様のことは、代表的な名君とされる唐の太宗にも当てはまり、治世晩期の高句麗遠征の失敗は、国を傾け、あるいは悲惨な最期を迎える事態を招来したかもしれません。意欲的な政治指導者において、成功者と失敗者の違いは、紙一重とまでは言えない事例も多いとしても、大きな違いがあるわけではないのかもしれません。
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