縄文時代から弥生時代への移行

 縄文時代から弥生時代への移行に関する本・論文を当ブログでそれなりに取り上げてきたので、一度短くまとめてみます。じゅうらい通俗的に言われていたのは、弥生文化をもたらしたのはユーラシア東部(直接的にはおそらく朝鮮半島)から日本列島へと渡来してきた集団で、先住の縄文文化集団(以下、「縄文人」と省略)を駆逐した、というような認識です。しかし近年では、弥生時代への移行にさいして、「縄文人」の強い主体性を認める見解が有力のように思われます。

 しかし、これは、「縄文人」と「弥生人」の間に形態的な差がなかったとか、ユーラシア東部からの移住はなかった、などといったことを意味しません。「縄文人」のような形態の人類集団は、現時点では他地域で確認されておらず、細かな地域差・時代差があるとはいえ、地理的範囲は北海道から九州まで、時間的範囲は早期から晩期前半まで、「縄文人」の形態はほぼ同一とされています(関連記事)。一方、『週刊新発見!日本の歴史』第50号「弥生時代 稲作の伝来と普及の謎」(関連記事)所収の大藪由美子「縄文人と弥生時代人」でも指摘されていますが、水稲耕作など弥生文化の中核要素をもたらしたと考えられる「渡来系弥生人」と「縄文人」との形態差は大きく、明らかに違いがあります。

 ただ、「渡来系弥生人」が「縄文人」を圧倒・駆逐して縄文時代から弥生時代へと移行したのではなく、縄文文化の要素が強く継承され、形態的には「縄文人」と連続していると考えられる集団が弥生文化を受容していった、と指摘されています。弥生時代開始期に、「渡来系弥生人」のみで構成されていると確認できる弥生集落はないので、移住者が縄文集落に入り込む形で本格的な農耕へと移行していったのではないか、と推測されています(関連記事)。ただ、現代日本人は「縄文人」の遺伝的影響を強く受けていないと推測されています(関連記事)。この理由としては、弥生文化をもたらした少数の渡来集団が、農耕社会の高い人口増加力により、「縄文系」の人々を後に圧倒した、とも考えられます(関連記事)。

 文化的にも、弥生文化の中核となる渡来系要素が縄文文化を圧倒したわけではなく、弥生文化の伝播はゆっくりとしたもので、「縄文の壁」がその前に立ちはだかった、と指摘されています(関連記事)。「縄文の壁」と弥生文化の伝播の在り様については、中国・四国や近畿や中部・東海や関東といった各地でそれぞれ異なっていたようです。縄文文化の根強さとは、具体的には、弥生時代前期を象徴する板付文化において、東北の亀ヶ岡文化の土器文様や漆塗製品の影響が強いことなどです。

 以上をまとめると以下のようになります。弥生文化の中核要素は、おそらく直接的には朝鮮半島から日本列島に渡来してきた集団(渡来系弥生人)によりまず九州北部にもたらされ、各地に拡散していったものの、それは緩やかなもので、一様ではなかった、と考えられます。「渡来系弥生人」は当初は少数派で、「縄文人」の直接的子孫である在来系(先住民)集団(の一部)が弥生文化を主体的に受容していった、と考えられます。「縄文人」も「渡来系弥生人」もある程度以上多様な集団だったと考えられますが、「縄文人」には一定以上の均一性・独自性が認められるので、ある程度は遺伝的に類似した集団だった可能性が高いでしょう。一方、「縄文人」と「渡来系弥生人」との形態差は大きいので、おそらく遺伝的にも、「縄文人」内の地理的・時間的に多様な集団間での相違よりも、「縄文人」と「渡来系弥生人」の相違の方がずっと大きい、と考えられます。もちろん、縄文時代~弥生時代にかけての、日本列島、さらにはユーラシア東部(当然、縄文時代などといった時代区分は適用できないわけですが)の古代DNA研究は今後大きく進展すると予想されますので、この記事での見解も、今後大きく修正することになるかもしれません。

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