ネアンデルタール人による石の意図的な線刻

 中部旧石器時代の層の石に刻まれた線を検証した研究(Majkić et al., 2018)が報道されました。本論文が検証対象としたのは、クリミアのキークコバ(Kiik-Koba)遺跡の中部旧石器時代の層で発見された、表面に線の刻まれた石です。キークコバは1924~1926年にかけて調査された洞窟遺跡です。キークコバ遺跡の中部旧石器時代の石器群は上層と下層とで大きく異なり、本論文が検証対象とした石は4層で発見されました。4層は、石器インダストリーではミコッキアン(Micoquian)との類似性が指摘されています。キークコバ遺跡では幼児と成人のネアンデルタール人遺骸が発見されているものの、出土層位には曖昧なところがあり、成人は下部の6層、幼児は上部の4層と推測されています。キークコバ遺跡4層の暦年代は37000~35000年前頃と推定されていますが、ヨーロッパの旧石器時代の年代の見直しが進む中(関連記事)、やや古い文献に依拠しているので、じっさいにはもっとさかのぼる可能性が高いかもしれません。

 本論文は、キークコバ遺跡4層で発見された、表面に線が刻み込まれた燧石を顕微鏡で分析し、三次元画像で復元しました。石の表面に線が刻み込まれているからといって、それが人類による意図的なものとは限りません。屠殺に用いた場合でも、石の表面に線が刻み込まれる場合もあります。石の表面に刻み込まれた線が意図的なのか否か、区別することは困難です。本論文は、石の表層における刻み込みの構造とパターンを分析し、右利きで技術的に熟練したネアンデルタール人が、より深い線を刻んでいき、対照性を作り出そうとしたものであり、明らかに意図的なものだ、と結論づけています。

 本論文は、この長さ3cm程度の石に刻まれた線について、小さな物体の表面に線を刻むという困難な作業で、優れた神経運動・制御・集中力が必要だと指摘します。また、対照性を作り出そうという意図が推測できることから、象徴的思考の証拠になる可能性も提示されています。ネアンデルタール人の線刻についてはすでに他の事例も報告されており(関連記事)、キークコバ遺跡の線刻のある石もとくに意外ではありませんが、石の表面の線が意図的なものか否かはっきりと区別できそうな方法を提示したという意味で、本論文の意義は大きいと言えるかもしれません。

 本論文は、下部および中部旧石器時代の遺跡で発見された、ヨーロッパと中東の表面に線の刻まれた石の一覧を掲載しています。ネアンデルタール人に現生人類(Homo sapiens)と共通するような一定水準以上の象徴的思考能力が存在したとすると、ネアンデルタール人と現生人類の最終共通祖先の時点で、何らかの象徴的思考能力が存在した可能性は低くないでしょう。その意味で、下部旧石器時代の遺跡で発見された石の表面の線も、人類による意図的なもので、何らかの象徴的な意味が表現されていた可能性もあります。おそらくはネアンデルタール人よりも現生人類とは遠い系統関係にあると思われる人類が、意図的に貝の表面に線を刻んだと考えられる事例も報告されています(関連記事)。

 本論文の報告事例も、ネアンデルタール人と現生人類との違いはじゅうらいの(一部?の)想定よりも小さかったと主張する、ネアンデルタール人の見直しというか「復権」傾向(関連記事)をさらに推し進めるものと言えそうです。ただ、単なる線刻(原初的・素朴な芸術)と具象的な線画との間に大きな違いを認める見解も提示されています(関連記事)。後者の確実な事例がまだ確認されていないネアンデルタール人と、後者が豊富な現生人類との間には、ある種の認知能力において決定的な違いがある、というわけです。その意味で、一部のネアンデルタール人見直し論者が言うような、ネアンデルタール人と現生人類は認知能力の点で大きな違いはなかった、との見解(関連記事)は、まだ確定したとはとても言えないでしょう。もっとも、具象的な線画の有無をネアンデルタール人と現生人類との認知能力の大きな違いの根拠とする見解には疑問が残ります(関連記事)。


参考文献:
Majkić A, d’Errico F, Stepanchuk V (2018) Assessing the significance of Palaeolithic engraved cortexes. A case study from the Mousterian site of Kiik-Koba, Crimea. PLoS ONE 13(5): e0195049.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0195049

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