筒井清忠編『明治史講義 【人物篇】』
ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2018年3月に刊行されました。本書は小林和幸編『明治史講義 【テーマ篇】』(関連記事)の続編というか、対となる1冊だと言えるでしょう。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。
第1講●落合弘樹「木戸孝允─「条理」を貫いた革命政治家」P15~30
孝明天皇は早い段階で開国が不可避だと認識していたものの、攘夷熱の高まりのなか、安政年間に井伊政権との対抗から表明した論に束縛され、開国への軌道修正も積極的にはできず、ことさら過激な攘夷論を「叡慮」として堅持し、この孝明天皇の矛盾に最も左右されたのが長州藩だ、と指摘されています。木戸孝允(桂小五郎)もそうした状況で攘夷を主張しましたが、徹底した排外主義者ではなく、伊藤博文たちをイギリスに送ったように、将来の開国を想定していたようです。この過程で、木戸は割と早くから倒幕も視野に入れていたようです。明治時代の木戸は、海外視察を経て急進的改革派から、日本の実情に立脚した国力の損耗を抑えるような漸進主義へと立場を変えていきます。本論考は木戸を、時代の流れと民意を読みとり、国家の将来像につないでいく能力は一貫して群を抜いていた、と評価しています。
第2講●家近良樹「西郷隆盛─謎に包まれた超人気者」P31~47
西郷隆盛は複雑な個性・役割を担った人物で、把握するのが難しいと指摘されています。西郷に関しては、包容力のある大人物といった印象が一般的かもしれませんが、直情径行で神経質なところもあったようです。西郷が大きく変わったのは二回目の流罪時で、これ以降、包容力のある大人物を演じ続けたのではないか、と推測されています。本論考は、そのように西郷の個性を把握し、戊辰戦争後に中央政府に出仕しなかったことや、下野にいたった政変時の対応など、理解しがたい西郷の言動を推測しています。征韓論を主張した時の西郷は、島津久光とその側近たちの攻撃に悩まされており、厭世的になって死を考えていたのではないか、との見解など、興味深い論考になっています。
第3講●勝田政治「大久保利通─維新の元勲、明治政府の建設者」P49~63
大久保利通が熟考・果断・責任の政治家として把握されています。熟考の側面は大久保が漸進主義的だったことに反映されているのでしょうが、王政復古と徳川慶喜の責任を厳しく追及したところは、果断と言えそうです。大久保は海外視察を経て政治家として大きく成長します。これまで、明治政府の方針として富国強兵が強調され、ドイツがその模範だと通俗的には言われてきました。大久保の方針も一般にはそのように解釈されていたのですが、本論考は、大久保が「富国」の基礎となる「殖産興業」を推進し、イギリスを規範とした、と評価しています。
第4講●苅部直「福沢諭吉─「文明」と「自由」」P65~78
明治時代を代表する「啓蒙」知識人だった福沢諭吉には、思想でも個性でも通俗的な印象よりも複雑な側面があった、と指摘されています。福沢は「文明開化」の大功労者の一人と言ってよいでしょうが、単に西洋諸国の文明を最善として目標とするのではなく、まだ争いも絶えない西洋諸国はとても完全とは言えないものの、あくまでも現時点で目標とすべき存在だ、と突き放しています。福沢はこれと関連して、「(西洋諸国の模倣としての)文明開化」一辺倒ではなく、現実の情勢への対応としてナショナリズムも一定以上評価していますが、ナショナリズムも偏狭だとして冷ややかに突き放すような透徹した見識が見られます。こうした福沢の複雑な思想は、西南戦争で負けた西郷軍を単なる保守反動と把握する見解に批判的で、西郷軍に見られる「活潑屈強の気力」を高く評価しています。
第5講●小宮一夫「板垣退助─自らの足りなさを知る指導者」P79~98
板垣退助は自由民権運動の「闘士」として知られているでしょうが、本論考は、板垣が戊辰戦争の「軍事英雄」だった側面も重視しています。板垣は政党政治の確立に貢献しましたが、政党において規律を重んじたのは「軍事英雄」としての側面からではないか、と本論考は推測しています。板垣は権力への執着が弱く、たとえば同志にも敵対的関係にもなった大隈重信と比較して統治能力に劣っていたものの、板垣は自分の足りないところを知っている政治家だった、と本論考は指摘しています。
第6講●瀧井一博「伊藤博文─日本型立憲主義の造形者」P99~112
明治時代に確立した近代的主権国家・天皇制・中央集権体制・国民といった国家の形態は現代日本をなお規定しています。この確立に大きく貢献したのが伊藤博文で、それは大日本帝国憲法についても同様です。本論考は、簡素で柔軟な解釈の可能な大日本帝国憲法の在り様は第二次世界大戦後の日本国憲法にも継承され、憲法が「不磨の大典」との認識を国民の間に定着させたのではないか、と指摘します。伊藤は憲法制定に尽力しましたが、一方で、それは最終目標ではなく、そこから国家形成を進めていかねばならないのだ、と考えていました。本論考は伊藤を大政治家として描きつつ、その限界も指摘しています。伊藤には宗教や民族といった非合理的なものへの認識の欠如が見られ、日本でも大韓帝国でも、伊藤は軍部の統制には失敗しました。
第7講●湯川文彦「井上毅─明治維新を落ち着かせようとした官僚」P113~130
井上毅は儒学と西洋法に精通した明治時代前期の官僚でしたが、知識に関しては、同時代で図抜けた存在ではなかった、と本論考は評価しています。そうした井上が政府要人から信用を得て抜擢されたのは、若い頃から倫理への関心が強く、法制の限界を知っており、法にのみ頼るのではなく「人心」を掌握し、社会を安定させようとする強い姿勢が、政府要人の方針と合致したからでした。井上は、急進的な西洋法の導入は「人心」を動揺させて社会を不安定化させるとして、急進主義には終始批判的でした。
第8講●五百旗頭薫「大隈重信─政治対立の演出者」P131~152
幕末に藩主として、さらには隠居後も佐賀藩の実権を掌握していた鍋島閑叟(直正)の方針もあり、佐賀藩士の大隈重信は幕末期には顕著な功績を挙げたわけではありませんでした。明治時代になり、大隈はまず木戸孝允、次に大久保利通に重用され、大久保死後には伊藤博文・井上馨とともに明治政府を牽引します。しかし、大隈は1881年に失脚し、その後は、何度か復権をしつつも在野での活動が多くなります。その大隈は1914年に再度首相に就任しますが、直後に始まった第一次世界大戦による輸出拡大と好景気により、経済改革は進まなかった、と指摘されています。また、対華21ヶ条要求など、第二次大隈内閣の施政には弊害が多かった、とも指摘されています。
第9講●永島広紀「金玉均─近代朝鮮における「志士」たちの時代」P153~168
金玉均も、ヨーロッパ列強が世界を支配していく過程において、独立維持のためにどのように国を改革していくか、足掻き続けた一人だった、と言えるでしょう。日本にも同様の人物は多数いて、金玉均のように志を遂げられずに非業の死を遂げた人は珍しくありません。金玉均を庇護した福沢諭吉は、金玉均に幕末の志士を重ね合わせて見ていたようです。金玉均は日本へ亡命後、酒色におぼれるようなところもあったそうですが、志に殉じた悲劇の人物という陳腐な人物像よりも、人間臭さを感じさせます。
第10講●永島広紀「陸奥宗光─『蹇蹇録』で読む日清戦争と朝鮮」P169~184
おもに日清戦争期の朝鮮の動向が解説されています。現在の日本の教科書では甲午農民戦争と表記されるこの多い東学党の乱について、やや詳しく解説されています。東学とは、儒教・道教・仏教を混交したような宗教で、民衆救済を主張していました。東学とはヨーロッパを強く意識した命名だったようです。甲午農民戦が契機となった日清戦争により、東アジアの国際関係は伝統的な華夷秩序から近代的なものへと大きく変わっていきました。その意味で、日清戦争は時代の転機になった、と言えそうです。
第11講●川島真「李鴻章─東洋のビスマルク?」P185~198
李鴻章は伊藤博文とともにビスマルクに擬せられ、二人ともそれを意識していたようです。これは当時にあっては、大政治家であることを意味する肯定的な表現でした。しかし、当時から現在まで、李鴻章への評価には肯定的なものから否定的なものまであり、また肯定的もしくは否定的とはいっても、その内容も変わってきています。本論考は、李鴻章がヨーロッパ諸国と対峙し、その外交能力を高く評する人も多かったものの、近代的な外交を理解して体現していたというよりは、伝統的な世界観に基づき、それを維持していこうとしたところもあった、と指摘しています。
第12講●清水唯一朗「山県有朋─出ては将軍、入ては首相」P199~216
山県有朋は、何度か挫折しつつも、明治政府において頭角を現し、やがて元老の一人となりました。政治家としての山県は政党政治に否定的なところがありましたが、それは政府与党の育成自体に反対だったのではなく、総合調整の役割を担う元老がやることではない、という意味においてでした。そのため、元老筆頭格とも言える伊藤博文が政府外組織たる政党を率いることに、山県は否定的でした。若い頃より病弱なところのあった山県は、それ故に養生に努めていたようで、その慎重な姿勢は政治方針にも現れていたように思われます。
第13講●小林和幸「谷干城─国民本位、立憲政治の確立を目指して」P217~236
西南戦争における熊本城籠城戦での功績で高い国民的人気と明治天皇からの高い信頼を得た谷干城は、以後立憲政治の確立を目指し、藩閥政府の専制的政治を批判していきます。谷は強固な尊王派でしたが、一方で民権派的傾向があり、それは谷にとって矛盾ではなく、立憲政治の確立という点において両立するものでした。谷の民権派的傾向は足尾銅山鉱毒事件においても見られ、貴族院議員として公害問題の解決を生涯強く訴え続けました。
第14講●麓慎一「榎本武揚─日本と世界を結びつけた政治家」P237~251
函館戦争の首謀者とも言える榎本武揚は明治政府に重用され、それを福沢諭吉に批判されたこともありました。「賊軍の首魁」だった榎本武揚が明治政府に重用された理由として、幕末に高水準の教育を受け、海外留学も経験し、他の追随を許さないような知識・技能を身につけたからだ、と本論考は指摘します。この知識・技能は明治時代に実地でさらに鍛え上げられ、榎本は座学ではない本物の力量を有する逸材となりました。明治政府にはロシアの脅威を強調する要人が多かったものの、榎本は現地でロシアの状況を詳細に分析し、ロシアを過大評価せず、その力量を冷静に評価できた、と指摘されています。
第15講●千葉功「小村寿太郎─明治外交の成熟とは何か」P253~268
おもに小村寿太郎の外相時代が解説されています。小村は外相として日露戦争、およびその講和交渉に臨みます。日露戦争勃発前には、日本側には満洲をどうするのか、という具体的方針はなく、開戦後に日本軍の満洲における占領地域が拡大するにつれて、小村も含めて日本側は満洲の扱いをどうするのか、本格的に検討するようになりました。ポーツマス講和会議が厳しいものになるだろうことは、小村も覚悟しており、また講和条約の内容は小村にとって快心のものとはとても言えませんでした。小村はその後、駐英大使を務めて外相に再任され、「不平等条約」の「最終的解決」に尽力しますが、元々病弱だった小村にはこれがたいへんな負担だったようで、外相退任後すぐに亡くなります。
第16講●千葉功「桂太郎─「立憲統一党」とは何か」P269~282
桂太郎の首相在任期間は今でも歴代最長です(2018年末時点でも最長で、あるいは安倍首相がこの記録を抜くかもしれません)。桂は協調型もしくは調整型の政治家で柔軟な政治手法をとったので、長期政権が可能だった、と本論考は指摘します。しかし、首相在任期間が長期になると、桂は自信をつけていき、安定的ないわゆる桂西体制を打破しようと考えます。桂西体制のもとでは政友会に妥協を強いられることもしばしばあり、自身の方針を貫徹できないからです。しかし、桂の政党結成構想は失敗し、桂は第一次護憲運動の盛り上がりのなかで辞職し、その後すぐ失意のうちに没します。しかし、桂の構想は、その意図に反していたであろうとしても、後の疑似的な二大政党制を準備した、と評価されています。
第17講●西川誠「明治天皇─立憲君主としての自覚」P283~298
明治天皇は近代国家の君主として、前近代の天皇とは大きく変わらざるを得ませんでした。一方で、和歌のように、前近代から継承した伝統もあります。立憲君主制の近代国家における君主の役割を、明治天皇は伊藤博文などを通じて学んでいき、大日本帝国憲法公布の頃には、政治的指導者の一員として認められていました。明治天皇が政治に意欲を有する契機の一つとなったのは、信頼していた西郷隆盛が「賊軍」として自害に追い込まれた西南戦争だったようです。明治天皇による政府有力者間の調整は政治を安定化させ、明治天皇は言わば元老集団の一員として振舞った、と評価されています。
第18講●奈良岡聰智「岩崎弥太郎─三菱と日本海運業の自立」P299~315
岩崎弥太郎はナショナリズムに基づいて「国策」に協力するものの、「政商」というよりも、独立して事業を営む「在野性」を有した人物だった、と評価されています。また、前近代的な独裁的経営者ではなく、経営手法は合理的・近代的だった、とも評価されています。岩崎は大隈重信や福沢諭吉とも親交があったため、大隈失脚のさいには政府から敵視され、松方デフレで事業が傾いていき、苦境の中、志半ばで没しました。明治時代の近代化の過程で、岩崎のような実業家の果たした役割は政治家に劣らず大きかった、と本論考では評価されています。
第19講●三浦泰之「松浦武四郎─時代を見つめ、集めて、伝えた、希代の旅人」P317~334
松浦武四郎は蝦夷地に赴き、その実情に通じた人物で、その見識が江戸幕府に評価されて幕府の「御雇」となり、さらに蝦夷地調査に従事します。松浦はこの過程で、アイヌ社会が松前藩による場所請負制のために疲弊していると認識し、その改善に意欲を示します。明治時代になっても、松浦の蝦夷地(北海道)に関する豊富な見識は評価され、明治政府に登用されるものの、長くは努めず辞職します。アイヌ語での会話にも不自由しなかった松浦は、明治時代になっても、アイヌ社会にたいする抑圧的政策が変わらないことに不満を抱いていたようです。
第20講●田中智子「福田英子─女が自伝を紡ぐとき」P335~354
本論考は、自由民権運動、後には社会主義運動に関わり、男女同権を訴えた福田英子を自伝執筆者として把握し、ジェンダーに関して「反価値」に気づき、それを前面に出す可能性を秘めながらも、「常識的」というかマジョリティの「性」理解に留まった、と評価しています。その要因として、怨恨が自伝執筆の大きな動機だったからではないか、と推測されています。また、福田の自伝における初潮や同性愛的経験が以前は取り上げられなかったのは、それらよりも民権運動・社会運動の方が重要との価値基準に研究者が囚われていたからではないか、とも指摘されています。
第21講●クリストファー・W・A・スピルマン「嘉納治五郎─柔道と日本の近代化」P355~372
嘉納治五郎は柔道の創始者として知られています。もちろん、柔道も前近代の柔術から派生したわけですが、柔術(というか前近代の武術全般)と柔道の大きな違いとして、柔術は選ばれた弟子だけに奥義を教えるなど秘密主義的だったのにたいして、柔道は誰に対しても開かれていた、と指摘されています。この開放性が、近代化において柔道が広く受け入れられた要因だったようです。嘉納は人脈を駆使して、柔道は海軍や警察など近代日本の支配層にも受け入れられていきました。また、嘉納は日本におけるオリンピックの定着にも尽力しました。
第22講●筒井清忠「乃木希典─旅順戦・殉死・「昭和軍閥」」P373~392
乃木希典は「愚将」だったとの認識は、司馬遼太郎『坂の上の雲』により日本社会に定着した、と言ってよいでしょう。しかし近年では、こうした「乃木愚将論」が批判されており、本論考も「乃木愚将論」に否定的です。ただ、乃木に批判的な見解は『坂の上の雲』以降のことではなく、すでに明治時代から見られました。本論考は、インテリ層において乃木に批判的な傾向が見られるのにたいして、庶民の間では乃木が好意的に見られる傾向にあったことを指摘しています。また、『坂の上の雲』における「乃木愚将論」の根拠になった谷寿夫の陸大講義『機密日露戦争史』が、陸軍の派閥抗争史において、反長州閥の側に利用された可能性も提示されています。『坂の上の雲』では「昭和軍閥」批判の意図で「乃木愚将論」が展開されたかもしれませんが、じっさいには「昭和軍閥」とともに乃木を不当に攻撃していた可能性がある、というわけです。
第1講●落合弘樹「木戸孝允─「条理」を貫いた革命政治家」P15~30
孝明天皇は早い段階で開国が不可避だと認識していたものの、攘夷熱の高まりのなか、安政年間に井伊政権との対抗から表明した論に束縛され、開国への軌道修正も積極的にはできず、ことさら過激な攘夷論を「叡慮」として堅持し、この孝明天皇の矛盾に最も左右されたのが長州藩だ、と指摘されています。木戸孝允(桂小五郎)もそうした状況で攘夷を主張しましたが、徹底した排外主義者ではなく、伊藤博文たちをイギリスに送ったように、将来の開国を想定していたようです。この過程で、木戸は割と早くから倒幕も視野に入れていたようです。明治時代の木戸は、海外視察を経て急進的改革派から、日本の実情に立脚した国力の損耗を抑えるような漸進主義へと立場を変えていきます。本論考は木戸を、時代の流れと民意を読みとり、国家の将来像につないでいく能力は一貫して群を抜いていた、と評価しています。
第2講●家近良樹「西郷隆盛─謎に包まれた超人気者」P31~47
西郷隆盛は複雑な個性・役割を担った人物で、把握するのが難しいと指摘されています。西郷に関しては、包容力のある大人物といった印象が一般的かもしれませんが、直情径行で神経質なところもあったようです。西郷が大きく変わったのは二回目の流罪時で、これ以降、包容力のある大人物を演じ続けたのではないか、と推測されています。本論考は、そのように西郷の個性を把握し、戊辰戦争後に中央政府に出仕しなかったことや、下野にいたった政変時の対応など、理解しがたい西郷の言動を推測しています。征韓論を主張した時の西郷は、島津久光とその側近たちの攻撃に悩まされており、厭世的になって死を考えていたのではないか、との見解など、興味深い論考になっています。
第3講●勝田政治「大久保利通─維新の元勲、明治政府の建設者」P49~63
大久保利通が熟考・果断・責任の政治家として把握されています。熟考の側面は大久保が漸進主義的だったことに反映されているのでしょうが、王政復古と徳川慶喜の責任を厳しく追及したところは、果断と言えそうです。大久保は海外視察を経て政治家として大きく成長します。これまで、明治政府の方針として富国強兵が強調され、ドイツがその模範だと通俗的には言われてきました。大久保の方針も一般にはそのように解釈されていたのですが、本論考は、大久保が「富国」の基礎となる「殖産興業」を推進し、イギリスを規範とした、と評価しています。
第4講●苅部直「福沢諭吉─「文明」と「自由」」P65~78
明治時代を代表する「啓蒙」知識人だった福沢諭吉には、思想でも個性でも通俗的な印象よりも複雑な側面があった、と指摘されています。福沢は「文明開化」の大功労者の一人と言ってよいでしょうが、単に西洋諸国の文明を最善として目標とするのではなく、まだ争いも絶えない西洋諸国はとても完全とは言えないものの、あくまでも現時点で目標とすべき存在だ、と突き放しています。福沢はこれと関連して、「(西洋諸国の模倣としての)文明開化」一辺倒ではなく、現実の情勢への対応としてナショナリズムも一定以上評価していますが、ナショナリズムも偏狭だとして冷ややかに突き放すような透徹した見識が見られます。こうした福沢の複雑な思想は、西南戦争で負けた西郷軍を単なる保守反動と把握する見解に批判的で、西郷軍に見られる「活潑屈強の気力」を高く評価しています。
第5講●小宮一夫「板垣退助─自らの足りなさを知る指導者」P79~98
板垣退助は自由民権運動の「闘士」として知られているでしょうが、本論考は、板垣が戊辰戦争の「軍事英雄」だった側面も重視しています。板垣は政党政治の確立に貢献しましたが、政党において規律を重んじたのは「軍事英雄」としての側面からではないか、と本論考は推測しています。板垣は権力への執着が弱く、たとえば同志にも敵対的関係にもなった大隈重信と比較して統治能力に劣っていたものの、板垣は自分の足りないところを知っている政治家だった、と本論考は指摘しています。
第6講●瀧井一博「伊藤博文─日本型立憲主義の造形者」P99~112
明治時代に確立した近代的主権国家・天皇制・中央集権体制・国民といった国家の形態は現代日本をなお規定しています。この確立に大きく貢献したのが伊藤博文で、それは大日本帝国憲法についても同様です。本論考は、簡素で柔軟な解釈の可能な大日本帝国憲法の在り様は第二次世界大戦後の日本国憲法にも継承され、憲法が「不磨の大典」との認識を国民の間に定着させたのではないか、と指摘します。伊藤は憲法制定に尽力しましたが、一方で、それは最終目標ではなく、そこから国家形成を進めていかねばならないのだ、と考えていました。本論考は伊藤を大政治家として描きつつ、その限界も指摘しています。伊藤には宗教や民族といった非合理的なものへの認識の欠如が見られ、日本でも大韓帝国でも、伊藤は軍部の統制には失敗しました。
第7講●湯川文彦「井上毅─明治維新を落ち着かせようとした官僚」P113~130
井上毅は儒学と西洋法に精通した明治時代前期の官僚でしたが、知識に関しては、同時代で図抜けた存在ではなかった、と本論考は評価しています。そうした井上が政府要人から信用を得て抜擢されたのは、若い頃から倫理への関心が強く、法制の限界を知っており、法にのみ頼るのではなく「人心」を掌握し、社会を安定させようとする強い姿勢が、政府要人の方針と合致したからでした。井上は、急進的な西洋法の導入は「人心」を動揺させて社会を不安定化させるとして、急進主義には終始批判的でした。
第8講●五百旗頭薫「大隈重信─政治対立の演出者」P131~152
幕末に藩主として、さらには隠居後も佐賀藩の実権を掌握していた鍋島閑叟(直正)の方針もあり、佐賀藩士の大隈重信は幕末期には顕著な功績を挙げたわけではありませんでした。明治時代になり、大隈はまず木戸孝允、次に大久保利通に重用され、大久保死後には伊藤博文・井上馨とともに明治政府を牽引します。しかし、大隈は1881年に失脚し、その後は、何度か復権をしつつも在野での活動が多くなります。その大隈は1914年に再度首相に就任しますが、直後に始まった第一次世界大戦による輸出拡大と好景気により、経済改革は進まなかった、と指摘されています。また、対華21ヶ条要求など、第二次大隈内閣の施政には弊害が多かった、とも指摘されています。
第9講●永島広紀「金玉均─近代朝鮮における「志士」たちの時代」P153~168
金玉均も、ヨーロッパ列強が世界を支配していく過程において、独立維持のためにどのように国を改革していくか、足掻き続けた一人だった、と言えるでしょう。日本にも同様の人物は多数いて、金玉均のように志を遂げられずに非業の死を遂げた人は珍しくありません。金玉均を庇護した福沢諭吉は、金玉均に幕末の志士を重ね合わせて見ていたようです。金玉均は日本へ亡命後、酒色におぼれるようなところもあったそうですが、志に殉じた悲劇の人物という陳腐な人物像よりも、人間臭さを感じさせます。
第10講●永島広紀「陸奥宗光─『蹇蹇録』で読む日清戦争と朝鮮」P169~184
おもに日清戦争期の朝鮮の動向が解説されています。現在の日本の教科書では甲午農民戦争と表記されるこの多い東学党の乱について、やや詳しく解説されています。東学とは、儒教・道教・仏教を混交したような宗教で、民衆救済を主張していました。東学とはヨーロッパを強く意識した命名だったようです。甲午農民戦が契機となった日清戦争により、東アジアの国際関係は伝統的な華夷秩序から近代的なものへと大きく変わっていきました。その意味で、日清戦争は時代の転機になった、と言えそうです。
第11講●川島真「李鴻章─東洋のビスマルク?」P185~198
李鴻章は伊藤博文とともにビスマルクに擬せられ、二人ともそれを意識していたようです。これは当時にあっては、大政治家であることを意味する肯定的な表現でした。しかし、当時から現在まで、李鴻章への評価には肯定的なものから否定的なものまであり、また肯定的もしくは否定的とはいっても、その内容も変わってきています。本論考は、李鴻章がヨーロッパ諸国と対峙し、その外交能力を高く評する人も多かったものの、近代的な外交を理解して体現していたというよりは、伝統的な世界観に基づき、それを維持していこうとしたところもあった、と指摘しています。
第12講●清水唯一朗「山県有朋─出ては将軍、入ては首相」P199~216
山県有朋は、何度か挫折しつつも、明治政府において頭角を現し、やがて元老の一人となりました。政治家としての山県は政党政治に否定的なところがありましたが、それは政府与党の育成自体に反対だったのではなく、総合調整の役割を担う元老がやることではない、という意味においてでした。そのため、元老筆頭格とも言える伊藤博文が政府外組織たる政党を率いることに、山県は否定的でした。若い頃より病弱なところのあった山県は、それ故に養生に努めていたようで、その慎重な姿勢は政治方針にも現れていたように思われます。
第13講●小林和幸「谷干城─国民本位、立憲政治の確立を目指して」P217~236
西南戦争における熊本城籠城戦での功績で高い国民的人気と明治天皇からの高い信頼を得た谷干城は、以後立憲政治の確立を目指し、藩閥政府の専制的政治を批判していきます。谷は強固な尊王派でしたが、一方で民権派的傾向があり、それは谷にとって矛盾ではなく、立憲政治の確立という点において両立するものでした。谷の民権派的傾向は足尾銅山鉱毒事件においても見られ、貴族院議員として公害問題の解決を生涯強く訴え続けました。
第14講●麓慎一「榎本武揚─日本と世界を結びつけた政治家」P237~251
函館戦争の首謀者とも言える榎本武揚は明治政府に重用され、それを福沢諭吉に批判されたこともありました。「賊軍の首魁」だった榎本武揚が明治政府に重用された理由として、幕末に高水準の教育を受け、海外留学も経験し、他の追随を許さないような知識・技能を身につけたからだ、と本論考は指摘します。この知識・技能は明治時代に実地でさらに鍛え上げられ、榎本は座学ではない本物の力量を有する逸材となりました。明治政府にはロシアの脅威を強調する要人が多かったものの、榎本は現地でロシアの状況を詳細に分析し、ロシアを過大評価せず、その力量を冷静に評価できた、と指摘されています。
第15講●千葉功「小村寿太郎─明治外交の成熟とは何か」P253~268
おもに小村寿太郎の外相時代が解説されています。小村は外相として日露戦争、およびその講和交渉に臨みます。日露戦争勃発前には、日本側には満洲をどうするのか、という具体的方針はなく、開戦後に日本軍の満洲における占領地域が拡大するにつれて、小村も含めて日本側は満洲の扱いをどうするのか、本格的に検討するようになりました。ポーツマス講和会議が厳しいものになるだろうことは、小村も覚悟しており、また講和条約の内容は小村にとって快心のものとはとても言えませんでした。小村はその後、駐英大使を務めて外相に再任され、「不平等条約」の「最終的解決」に尽力しますが、元々病弱だった小村にはこれがたいへんな負担だったようで、外相退任後すぐに亡くなります。
第16講●千葉功「桂太郎─「立憲統一党」とは何か」P269~282
桂太郎の首相在任期間は今でも歴代最長です(2018年末時点でも最長で、あるいは安倍首相がこの記録を抜くかもしれません)。桂は協調型もしくは調整型の政治家で柔軟な政治手法をとったので、長期政権が可能だった、と本論考は指摘します。しかし、首相在任期間が長期になると、桂は自信をつけていき、安定的ないわゆる桂西体制を打破しようと考えます。桂西体制のもとでは政友会に妥協を強いられることもしばしばあり、自身の方針を貫徹できないからです。しかし、桂の政党結成構想は失敗し、桂は第一次護憲運動の盛り上がりのなかで辞職し、その後すぐ失意のうちに没します。しかし、桂の構想は、その意図に反していたであろうとしても、後の疑似的な二大政党制を準備した、と評価されています。
第17講●西川誠「明治天皇─立憲君主としての自覚」P283~298
明治天皇は近代国家の君主として、前近代の天皇とは大きく変わらざるを得ませんでした。一方で、和歌のように、前近代から継承した伝統もあります。立憲君主制の近代国家における君主の役割を、明治天皇は伊藤博文などを通じて学んでいき、大日本帝国憲法公布の頃には、政治的指導者の一員として認められていました。明治天皇が政治に意欲を有する契機の一つとなったのは、信頼していた西郷隆盛が「賊軍」として自害に追い込まれた西南戦争だったようです。明治天皇による政府有力者間の調整は政治を安定化させ、明治天皇は言わば元老集団の一員として振舞った、と評価されています。
第18講●奈良岡聰智「岩崎弥太郎─三菱と日本海運業の自立」P299~315
岩崎弥太郎はナショナリズムに基づいて「国策」に協力するものの、「政商」というよりも、独立して事業を営む「在野性」を有した人物だった、と評価されています。また、前近代的な独裁的経営者ではなく、経営手法は合理的・近代的だった、とも評価されています。岩崎は大隈重信や福沢諭吉とも親交があったため、大隈失脚のさいには政府から敵視され、松方デフレで事業が傾いていき、苦境の中、志半ばで没しました。明治時代の近代化の過程で、岩崎のような実業家の果たした役割は政治家に劣らず大きかった、と本論考では評価されています。
第19講●三浦泰之「松浦武四郎─時代を見つめ、集めて、伝えた、希代の旅人」P317~334
松浦武四郎は蝦夷地に赴き、その実情に通じた人物で、その見識が江戸幕府に評価されて幕府の「御雇」となり、さらに蝦夷地調査に従事します。松浦はこの過程で、アイヌ社会が松前藩による場所請負制のために疲弊していると認識し、その改善に意欲を示します。明治時代になっても、松浦の蝦夷地(北海道)に関する豊富な見識は評価され、明治政府に登用されるものの、長くは努めず辞職します。アイヌ語での会話にも不自由しなかった松浦は、明治時代になっても、アイヌ社会にたいする抑圧的政策が変わらないことに不満を抱いていたようです。
第20講●田中智子「福田英子─女が自伝を紡ぐとき」P335~354
本論考は、自由民権運動、後には社会主義運動に関わり、男女同権を訴えた福田英子を自伝執筆者として把握し、ジェンダーに関して「反価値」に気づき、それを前面に出す可能性を秘めながらも、「常識的」というかマジョリティの「性」理解に留まった、と評価しています。その要因として、怨恨が自伝執筆の大きな動機だったからではないか、と推測されています。また、福田の自伝における初潮や同性愛的経験が以前は取り上げられなかったのは、それらよりも民権運動・社会運動の方が重要との価値基準に研究者が囚われていたからではないか、とも指摘されています。
第21講●クリストファー・W・A・スピルマン「嘉納治五郎─柔道と日本の近代化」P355~372
嘉納治五郎は柔道の創始者として知られています。もちろん、柔道も前近代の柔術から派生したわけですが、柔術(というか前近代の武術全般)と柔道の大きな違いとして、柔術は選ばれた弟子だけに奥義を教えるなど秘密主義的だったのにたいして、柔道は誰に対しても開かれていた、と指摘されています。この開放性が、近代化において柔道が広く受け入れられた要因だったようです。嘉納は人脈を駆使して、柔道は海軍や警察など近代日本の支配層にも受け入れられていきました。また、嘉納は日本におけるオリンピックの定着にも尽力しました。
第22講●筒井清忠「乃木希典─旅順戦・殉死・「昭和軍閥」」P373~392
乃木希典は「愚将」だったとの認識は、司馬遼太郎『坂の上の雲』により日本社会に定着した、と言ってよいでしょう。しかし近年では、こうした「乃木愚将論」が批判されており、本論考も「乃木愚将論」に否定的です。ただ、乃木に批判的な見解は『坂の上の雲』以降のことではなく、すでに明治時代から見られました。本論考は、インテリ層において乃木に批判的な傾向が見られるのにたいして、庶民の間では乃木が好意的に見られる傾向にあったことを指摘しています。また、『坂の上の雲』における「乃木愚将論」の根拠になった谷寿夫の陸大講義『機密日露戦争史』が、陸軍の派閥抗争史において、反長州閥の側に利用された可能性も提示されています。『坂の上の雲』では「昭和軍閥」批判の意図で「乃木愚将論」が展開されたかもしれませんが、じっさいには「昭和軍閥」とともに乃木を不当に攻撃していた可能性がある、というわけです。
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