夏王朝の実在をめぐる議論と大化前代をめぐる議論の共通点(追記有)
夏王朝の実在認定をめぐって、日中ではかなりの温度差があったようです。佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(関連記事)第1章第2節によると、中国では夏王朝の実在は確実とされ、それを前提として議論が展開されているのにたいして、日本では夏王朝の実在認定に慎重だったようです。しかし、二里頭遺跡の発掘・研究が進み、原初的な王権と宮廷儀礼が成立していたと考えられ、二里頭文化の範囲がある程度まで広がっており、初期の殷に滅ぼされたと推測されることから、日本でも二里頭遺跡を夏王朝と認める研究者が増えてきているそうです。
しかし、竹内康浩『中国王朝の起源を探る』(関連記事)では、二里頭文化においてすでに「礼制」が成立し、新石器時代においては分節的で横並びだった地域間関係のなかに、はじめて一つの中心的位置を占める地域的文化として登場し、地域間関係を再編成していった、と二里頭文化の画期性が指摘されているものの、なおも夏王朝の実在認定には慎重です。それは、出土文献で確認されないからです。二里頭遺跡が後世の出土もしくは伝世文献に「夏」と見える王朝と部分的にせよ一致しているのか、確認できていない、というわけです。
これは夏王朝の実在を確認できないということであり、夏王朝は実在しなかった、と主張しているわけではありません。殷よりも前に初期王朝もしくは国家と呼べるかもしれないような政治勢力は存在したものの、それを「夏王朝」と呼ぶのはまだ妥当ではないだろう、というわけです。これは実にまっとうな姿勢と言うべきで、中国では夏王朝の実在が確実と考えられているのに、日本では懐疑的な姿勢が見られるのは、日本の研究者の側に何らかの偏見があるからではなく、あくまでも研究者として禁欲的な姿勢を貫いているからと言うべきでしょう。
『中国古代史研究の最前線』によると、夏王朝の実在を認める日本の研究者にしても、現時点での証拠からは文献に見える夏王朝に関する記載がどれほど事実を伝えているのか、証明は難しいと指摘しています。中国の考古学者にしても、夏王朝の実在を前提としながらも、論文などでは「夏王朝」ではなく「夏文化」や「夏商考古学」など曖昧な表現を採用しているそうです。落合淳思『古代中国の虚像と実像』(関連記事)では、現存の文献資料の夏王朝の記述に二里頭文化を反映した部分は一文もないとのことで、やはり、同書が提言しているように、二里頭遺跡を王朝の証拠として認めるにしても、「夏王朝」ではなく「二里頭王朝」と表記すべきなのでしょう。なお、『中国古代史研究の最前線』によると、夏王朝に関する現時点で最古の記載は西周の金文ですが、これには偽銘の疑いがあるそうです。
このように、二里頭遺跡を夏王朝実在の根拠とすることにはかなり無理があると思うのですが、『中国王朝の起源を探る』によると、近年中国では、二里頭遺跡をもって夏王朝実在の考古学的根拠とされ、概説や通史では、二里頭遺跡の考古学的成果が夏王朝史として述べられているのではなく、文献で伝えられている夏王朝の記載を根拠として夏王朝史が述べられていることがきわめて多いそうです。考古学的に夏王朝の実在が証明されたので、夏王朝に関する文献上の記述がそのまま史実を伝えるものとして認定される傾向が強い、というわけです。これは明らかに問題で、『中国古代史研究の最前線』で指摘されているように、考古学的資料を文献の奴隷や脚注にしてしまう行為だと言えるでしょう。ただ、こうした状況を苦々しく思っている中国の研究者は少なくないかもしれません。
こうした傾向が問題なのは日本史についても同様です。以前、雄略天皇(5世紀に天皇という称号が用いられていたとは思いませんが、便宜的にこう表記します)について雑感を述べましたが(関連記事)、雄略についても、夏王朝の実在をめぐる議論と通ずる問題があるように思います。雄略の実在を疑う人は皆無に近いでしょうし、確実な証拠もあるとされます。一つは、稲荷山古墳鉄剣銘に見える「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」で、もう一つは『宋書』に見える「倭王武」です。年代的にも、この三者を同一人物と考えてもおかしくはない、というかその可能性が高いとは言えるでしょう。
ただ、上記の記事で取り上げた遠山美都男氏の指摘にあるように、そもそも実在か否かという問題設定自体を疑問視すべきかもしれません。また、遠山氏が指摘するように、雄略と獲加多支鹵大王・倭王武を一応は切り離して考えることも必要だと思います。じっさい、『宋書』に見える「倭王武」の記述と『日本書紀』に見える雄略の記述とはあまり重なりません。もっとも、父と兄の跡を継いだという系譜は一致すると言ってもさほど問題ないでしょう。その両者を相次いで亡くしたという倭王武の上表文と、父の允恭天皇が亡くなり、その3年後に位を継承した兄も亡くなって(殺害されて)雄略が即位した、との『日本書紀』の記事も符合すると言えるかもしれません。しかし、これも確定的とするには弱いと思います。
雄略と獲加多支鹵大王の関係にしても、前者の宮は泊瀬朝倉なのにたいして、後者は斯鬼宮にいたとされます。泊瀬朝倉を含む一帯を5世紀後半にはシキと呼んだ可能性も、雄略が複数の宮を設けた可能性も考えられますが、記録を表面的に見ると一致はしていません。なお、遠山氏も倭王武=獲加多支鹵大王は確実と考えていますが、上記の雑感でも述べたように、私は以前から確定とは言えないのではないか、と考えていました。河内春人『倭の五王』は、武の前の興が獲加多支鹵大王だった可能性も提示し、倭の五王を安易に記紀の「天皇」に比定することに注意を喚起しています(関連記事)。
このように、私は雄略=倭王武=獲加多支鹵大王という有力説にやや懐疑的なのですが、これが有力説で、一定以上の根拠があることも否定できないでしょう。少なくとも、二里頭遺跡を夏王朝と結びつけるよりもずっと説得力があると思います。しかし、たとえ雄略は「実在」したとの仮説がかなりの程度有力だからといって、『日本書紀』の雄略に関する記述をそのまま概説・通史に反映させれば、それは問題だと思います。『日本書紀』の雄略に関する記述で、(準)同時代の文献(出土文献と伝世文献)たる稲荷山古墳鉄剣銘および『宋書』と一致していると言えそうなのは、せいぜい名前と系譜くらいで、即位事情も一致していると解釈できるかもしれない、という程度です。
同様のことは、「実在」した最初の「天皇」と考えている人も多いだろう崇神と、その後の垂仁・景行にも言えます(崇神・垂仁とは異なり、景行は名前から実在を疑う見解も少なくなさそうですが)。崇神以降の「天皇」を実在と考えると、崇神の在位年代は3世紀後半~4世紀前半と考えて大過はないでしょう。考古学的には、3世紀半ば~後半(4世紀にまでくだるかもしれませんが)の箸墓古墳が、日本列島における王権・国家形成史において時代を画すると言えそうで、ここで本州・四国・九州のかなりの範囲に及ぶ何らかの王権・政治勢力が成立した可能性は高そうです。その中心地は、纏向遺跡である可能性が高そうです。
考古学的には、ここまで言っても大きな問題はないでしょう。これを『日本書紀』と照合すると、崇神・垂仁・景行という3代の宮は纏向遺跡もしくはその周辺地域にあり、垂仁に関しては埴輪の始まりを伝える記述もあります。崇神・垂仁・景行の3代に関する文献は、少なくとも夏王朝よりはずっと、考古学的研究成果から推測される内容を反映している、とも解釈できます。まあ、私はやや懐疑的ですが。しかし、だからといって、崇神・垂仁・景行に関する『日本書紀』の記述をそのまま概説・通史に反映させれば、やはり問題でしょう。
日本史に関しても、中国史と同様に、考古学的資料を文献の奴隷や脚注にしてはならない、と言うべきでしょう。ただ、『古代中国の虚像と実像』の感想記事でも述べましたが、中国の経済・軍事・政治力の強化とともに、「夏王朝」の「実在」が「正しい歴史認識」・「真実の歴史」として日本国内でも声高に主張されるようになるかもしれません。しかも、利害関係や中国側の脅迫なしに、「進歩的で良心的な」勢力により「自主的に」主張される可能性は低くありません。戦後、政府に限らず日本社会にアメリカ合衆国への従属的な姿勢があることは否定できないでしょうが、やはりそれも利害関係やアメリカ合衆国側の脅迫なしに、「現実主義者」が「自主的に」主張している側面も多分にあると思います。
あるいは、「夏王朝」の「実在」に疑問を呈すと、「歴史修正主義者」とか「ネトウヨ」とか「自主的な」多くの人から批判されるような時代が到来するかもしれませんが、そうなったとしたら、個人としてはできるかぎり抵抗したいものではあります。逆に、今後日本社会で「愛国的」な動向がずっと強まり、雄略の「実在」に疑問を呈すと、「非国民」とか「反日」とか「自主的な」多数派から批判されるような時代が到来するかもしれませんが、そうなったとしたら、こちらにも個人としてはできるかぎり抵抗したいものではあります。
追記(2018年5月3日)
述べ忘れていたことがあったので、追記しておきます。雄略に関する雑感でも引用しましたが、遠山氏は、崇神が実在したのか否か、との議論にはあまり意味を見出していません。私も同意で、5世紀後半と考えられる稲荷山古墳鉄剣銘には、擬制的かもしれませんが、自らの祖先をたどろうとする傾向が見られるものの、それが4世紀、さらには3世紀にまでさかのぼるのか、確定したとは言えないでしょう。5世紀には王位は特定の一族に限定されていなかった、との見解も提示されていますが(関連記事)、そうだとすると、やはり4世紀以前に王の名前を正確に継承しようという強い意識があったのか、疑問は残ります。
崇神と垂仁の名前は「7~8世紀風」ではなさそうということから、両者の実在の根拠とされてきましたが、直接的な証拠はありません。崇神・垂仁・景行の3代に関する『日本書紀』の記述には、古墳時代初期というか、ヤマト(纏向遺跡)を中心とした広範な政治的勢力・王権の初期を反映したものがある可能性も考えられますが、決定的ではありません。何らかの記憶が継承されていた可能性も否定できませんが、6世紀以降の支配層によりに名前と系譜も含めて新たに紡がれた物語(建国神話)である可能性も、じゅうぶん考えられると思います。確かに、崇神・垂仁・景行の3代をはじめとして、継体よりも前の『日本書紀』の記述に、考古学的成果と符合すると解釈できそうな箇所はありますが、だからといってそれが『日本書紀』の他の記述の信頼性を高めるとは限りません。やはり、安易に『日本書紀』の説話的な記述を採用すべきではないでしょう。
これは、殷に関する問題も同様だと思います。殷は、『史記』などの伝世文献と、殷後期~周最初期という同時代の出土文献で一致点が多いことから、実在した王朝と表現して基本的に問題ないでしょう。日本古代史との比較で言えば、崇神・垂仁・景行の3代はもとより、雄略よりもはるかに「実在性」は高いと言えるでしょう。しかし、だからといって、たとえば『史記』のような伝世文献に見える殷についての記述が、とくに説話的な箇所まで史実を反映しているのかというと、大いに疑問です。
確かに、たとえば『史記』に見える殷の王の系譜は、殷末期の「同時代資料」のそれとおおむね一致しています。これは、殷末期の系譜が漢代武帝期までかなり忠実に継承されていることを意味します。しかし、だからといって、『史記』の殷に関する記述全体が信用できるのかというと、それはやはり「同時代資料」による裏付けが必要となるでしょう。また、そもそも殷の王の系譜にしても、あくまでも殷後期~末期の支配層の認識であり、史実だと断定するのには無理があると思います。もちろん、史実に忠実なところは多分にあるのでしょうが、殷王朝内の「敗者」にとってはまた異なる系譜があり得た、との想定は無理筋ではないと思います。
しかし、竹内康浩『中国王朝の起源を探る』(関連記事)では、二里頭文化においてすでに「礼制」が成立し、新石器時代においては分節的で横並びだった地域間関係のなかに、はじめて一つの中心的位置を占める地域的文化として登場し、地域間関係を再編成していった、と二里頭文化の画期性が指摘されているものの、なおも夏王朝の実在認定には慎重です。それは、出土文献で確認されないからです。二里頭遺跡が後世の出土もしくは伝世文献に「夏」と見える王朝と部分的にせよ一致しているのか、確認できていない、というわけです。
これは夏王朝の実在を確認できないということであり、夏王朝は実在しなかった、と主張しているわけではありません。殷よりも前に初期王朝もしくは国家と呼べるかもしれないような政治勢力は存在したものの、それを「夏王朝」と呼ぶのはまだ妥当ではないだろう、というわけです。これは実にまっとうな姿勢と言うべきで、中国では夏王朝の実在が確実と考えられているのに、日本では懐疑的な姿勢が見られるのは、日本の研究者の側に何らかの偏見があるからではなく、あくまでも研究者として禁欲的な姿勢を貫いているからと言うべきでしょう。
『中国古代史研究の最前線』によると、夏王朝の実在を認める日本の研究者にしても、現時点での証拠からは文献に見える夏王朝に関する記載がどれほど事実を伝えているのか、証明は難しいと指摘しています。中国の考古学者にしても、夏王朝の実在を前提としながらも、論文などでは「夏王朝」ではなく「夏文化」や「夏商考古学」など曖昧な表現を採用しているそうです。落合淳思『古代中国の虚像と実像』(関連記事)では、現存の文献資料の夏王朝の記述に二里頭文化を反映した部分は一文もないとのことで、やはり、同書が提言しているように、二里頭遺跡を王朝の証拠として認めるにしても、「夏王朝」ではなく「二里頭王朝」と表記すべきなのでしょう。なお、『中国古代史研究の最前線』によると、夏王朝に関する現時点で最古の記載は西周の金文ですが、これには偽銘の疑いがあるそうです。
このように、二里頭遺跡を夏王朝実在の根拠とすることにはかなり無理があると思うのですが、『中国王朝の起源を探る』によると、近年中国では、二里頭遺跡をもって夏王朝実在の考古学的根拠とされ、概説や通史では、二里頭遺跡の考古学的成果が夏王朝史として述べられているのではなく、文献で伝えられている夏王朝の記載を根拠として夏王朝史が述べられていることがきわめて多いそうです。考古学的に夏王朝の実在が証明されたので、夏王朝に関する文献上の記述がそのまま史実を伝えるものとして認定される傾向が強い、というわけです。これは明らかに問題で、『中国古代史研究の最前線』で指摘されているように、考古学的資料を文献の奴隷や脚注にしてしまう行為だと言えるでしょう。ただ、こうした状況を苦々しく思っている中国の研究者は少なくないかもしれません。
こうした傾向が問題なのは日本史についても同様です。以前、雄略天皇(5世紀に天皇という称号が用いられていたとは思いませんが、便宜的にこう表記します)について雑感を述べましたが(関連記事)、雄略についても、夏王朝の実在をめぐる議論と通ずる問題があるように思います。雄略の実在を疑う人は皆無に近いでしょうし、確実な証拠もあるとされます。一つは、稲荷山古墳鉄剣銘に見える「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」で、もう一つは『宋書』に見える「倭王武」です。年代的にも、この三者を同一人物と考えてもおかしくはない、というかその可能性が高いとは言えるでしょう。
ただ、上記の記事で取り上げた遠山美都男氏の指摘にあるように、そもそも実在か否かという問題設定自体を疑問視すべきかもしれません。また、遠山氏が指摘するように、雄略と獲加多支鹵大王・倭王武を一応は切り離して考えることも必要だと思います。じっさい、『宋書』に見える「倭王武」の記述と『日本書紀』に見える雄略の記述とはあまり重なりません。もっとも、父と兄の跡を継いだという系譜は一致すると言ってもさほど問題ないでしょう。その両者を相次いで亡くしたという倭王武の上表文と、父の允恭天皇が亡くなり、その3年後に位を継承した兄も亡くなって(殺害されて)雄略が即位した、との『日本書紀』の記事も符合すると言えるかもしれません。しかし、これも確定的とするには弱いと思います。
雄略と獲加多支鹵大王の関係にしても、前者の宮は泊瀬朝倉なのにたいして、後者は斯鬼宮にいたとされます。泊瀬朝倉を含む一帯を5世紀後半にはシキと呼んだ可能性も、雄略が複数の宮を設けた可能性も考えられますが、記録を表面的に見ると一致はしていません。なお、遠山氏も倭王武=獲加多支鹵大王は確実と考えていますが、上記の雑感でも述べたように、私は以前から確定とは言えないのではないか、と考えていました。河内春人『倭の五王』は、武の前の興が獲加多支鹵大王だった可能性も提示し、倭の五王を安易に記紀の「天皇」に比定することに注意を喚起しています(関連記事)。
このように、私は雄略=倭王武=獲加多支鹵大王という有力説にやや懐疑的なのですが、これが有力説で、一定以上の根拠があることも否定できないでしょう。少なくとも、二里頭遺跡を夏王朝と結びつけるよりもずっと説得力があると思います。しかし、たとえ雄略は「実在」したとの仮説がかなりの程度有力だからといって、『日本書紀』の雄略に関する記述をそのまま概説・通史に反映させれば、それは問題だと思います。『日本書紀』の雄略に関する記述で、(準)同時代の文献(出土文献と伝世文献)たる稲荷山古墳鉄剣銘および『宋書』と一致していると言えそうなのは、せいぜい名前と系譜くらいで、即位事情も一致していると解釈できるかもしれない、という程度です。
同様のことは、「実在」した最初の「天皇」と考えている人も多いだろう崇神と、その後の垂仁・景行にも言えます(崇神・垂仁とは異なり、景行は名前から実在を疑う見解も少なくなさそうですが)。崇神以降の「天皇」を実在と考えると、崇神の在位年代は3世紀後半~4世紀前半と考えて大過はないでしょう。考古学的には、3世紀半ば~後半(4世紀にまでくだるかもしれませんが)の箸墓古墳が、日本列島における王権・国家形成史において時代を画すると言えそうで、ここで本州・四国・九州のかなりの範囲に及ぶ何らかの王権・政治勢力が成立した可能性は高そうです。その中心地は、纏向遺跡である可能性が高そうです。
考古学的には、ここまで言っても大きな問題はないでしょう。これを『日本書紀』と照合すると、崇神・垂仁・景行という3代の宮は纏向遺跡もしくはその周辺地域にあり、垂仁に関しては埴輪の始まりを伝える記述もあります。崇神・垂仁・景行の3代に関する文献は、少なくとも夏王朝よりはずっと、考古学的研究成果から推測される内容を反映している、とも解釈できます。まあ、私はやや懐疑的ですが。しかし、だからといって、崇神・垂仁・景行に関する『日本書紀』の記述をそのまま概説・通史に反映させれば、やはり問題でしょう。
日本史に関しても、中国史と同様に、考古学的資料を文献の奴隷や脚注にしてはならない、と言うべきでしょう。ただ、『古代中国の虚像と実像』の感想記事でも述べましたが、中国の経済・軍事・政治力の強化とともに、「夏王朝」の「実在」が「正しい歴史認識」・「真実の歴史」として日本国内でも声高に主張されるようになるかもしれません。しかも、利害関係や中国側の脅迫なしに、「進歩的で良心的な」勢力により「自主的に」主張される可能性は低くありません。戦後、政府に限らず日本社会にアメリカ合衆国への従属的な姿勢があることは否定できないでしょうが、やはりそれも利害関係やアメリカ合衆国側の脅迫なしに、「現実主義者」が「自主的に」主張している側面も多分にあると思います。
あるいは、「夏王朝」の「実在」に疑問を呈すと、「歴史修正主義者」とか「ネトウヨ」とか「自主的な」多くの人から批判されるような時代が到来するかもしれませんが、そうなったとしたら、個人としてはできるかぎり抵抗したいものではあります。逆に、今後日本社会で「愛国的」な動向がずっと強まり、雄略の「実在」に疑問を呈すと、「非国民」とか「反日」とか「自主的な」多数派から批判されるような時代が到来するかもしれませんが、そうなったとしたら、こちらにも個人としてはできるかぎり抵抗したいものではあります。
追記(2018年5月3日)
述べ忘れていたことがあったので、追記しておきます。雄略に関する雑感でも引用しましたが、遠山氏は、崇神が実在したのか否か、との議論にはあまり意味を見出していません。私も同意で、5世紀後半と考えられる稲荷山古墳鉄剣銘には、擬制的かもしれませんが、自らの祖先をたどろうとする傾向が見られるものの、それが4世紀、さらには3世紀にまでさかのぼるのか、確定したとは言えないでしょう。5世紀には王位は特定の一族に限定されていなかった、との見解も提示されていますが(関連記事)、そうだとすると、やはり4世紀以前に王の名前を正確に継承しようという強い意識があったのか、疑問は残ります。
崇神と垂仁の名前は「7~8世紀風」ではなさそうということから、両者の実在の根拠とされてきましたが、直接的な証拠はありません。崇神・垂仁・景行の3代に関する『日本書紀』の記述には、古墳時代初期というか、ヤマト(纏向遺跡)を中心とした広範な政治的勢力・王権の初期を反映したものがある可能性も考えられますが、決定的ではありません。何らかの記憶が継承されていた可能性も否定できませんが、6世紀以降の支配層によりに名前と系譜も含めて新たに紡がれた物語(建国神話)である可能性も、じゅうぶん考えられると思います。確かに、崇神・垂仁・景行の3代をはじめとして、継体よりも前の『日本書紀』の記述に、考古学的成果と符合すると解釈できそうな箇所はありますが、だからといってそれが『日本書紀』の他の記述の信頼性を高めるとは限りません。やはり、安易に『日本書紀』の説話的な記述を採用すべきではないでしょう。
これは、殷に関する問題も同様だと思います。殷は、『史記』などの伝世文献と、殷後期~周最初期という同時代の出土文献で一致点が多いことから、実在した王朝と表現して基本的に問題ないでしょう。日本古代史との比較で言えば、崇神・垂仁・景行の3代はもとより、雄略よりもはるかに「実在性」は高いと言えるでしょう。しかし、だからといって、たとえば『史記』のような伝世文献に見える殷についての記述が、とくに説話的な箇所まで史実を反映しているのかというと、大いに疑問です。
確かに、たとえば『史記』に見える殷の王の系譜は、殷末期の「同時代資料」のそれとおおむね一致しています。これは、殷末期の系譜が漢代武帝期までかなり忠実に継承されていることを意味します。しかし、だからといって、『史記』の殷に関する記述全体が信用できるのかというと、それはやはり「同時代資料」による裏付けが必要となるでしょう。また、そもそも殷の王の系譜にしても、あくまでも殷後期~末期の支配層の認識であり、史実だと断定するのには無理があると思います。もちろん、史実に忠実なところは多分にあるのでしょうが、殷王朝内の「敗者」にとってはまた異なる系譜があり得た、との想定は無理筋ではないと思います。
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