忘れ去られた?藤波孝生氏
『ネット右翼は自民党ではなく、結局「この組織」を支持していた』と題する記事が公開されました。論旨に大きく影響はしない、些細なことかもしれませんが、その記事には基礎的な事実に間違いがあり、微妙な印象を受けました。まず、「国会に於いては1970年代からの自民・社会党の議席の伯仲」との記述ですが、社会党は1960年代と比較して1970年代には議席が低迷し、与野党伯仲と言うべきでしょう。この間に党勢を拡大したのは公明党と共産党です。あるいは、「55年体制」下ということで「社会党」に野党を象徴させた、と弁明できるかもしれませんが・・・。
次に、中曽根内閣についての、「官房長官には全期間を通じて田中派の重鎮である後藤田正晴を起用」との記述です。中曽根内閣の官房長官は、後藤田正晴氏→藤波孝生氏→後藤田正晴氏となります。藤波氏は1988年発覚のリクルート事件で失脚しましたから、1982年生まれの執筆者にとって、印象の薄い政治家なのかもしれません。一方、後藤田氏は、「切れ者」として、また「右傾化」する日本社会においてかつては存在感を示した「良心的保守派」として、今でも知名度・評価ともになかなか高いように思われます。
しかし、1980年代半ばには、要職を歴任した藤波氏はかなり存在感のある政治家だったと記憶しています。中曽根内閣では、「ニューリーダー」の安倍晋太郎・竹下登・宮澤喜一の三氏ほどではないとしても、注目の政治家でした。少なくとも、当時は後藤田氏より知名度が大きく劣っていたとは思いません。しかし現代では、とくに若い層で、伝説の切れ者として語り継がれている後藤田氏よりも知名度はかなり低そうで、かつて中曽根内閣で官房長官を務めていたことが忘れ去られていても不思議ではないかな、とも思います。かつては将来を嘱望されながら、リクルート事件発覚後は不遇のまま政治生活と生涯を終えた藤波氏のことは、わりと強く印象に残っていたので、上記の記事を読んで残念だったというか、寂しく思ったものです。
次に、中曽根内閣についての、「官房長官には全期間を通じて田中派の重鎮である後藤田正晴を起用」との記述です。中曽根内閣の官房長官は、後藤田正晴氏→藤波孝生氏→後藤田正晴氏となります。藤波氏は1988年発覚のリクルート事件で失脚しましたから、1982年生まれの執筆者にとって、印象の薄い政治家なのかもしれません。一方、後藤田氏は、「切れ者」として、また「右傾化」する日本社会においてかつては存在感を示した「良心的保守派」として、今でも知名度・評価ともになかなか高いように思われます。
しかし、1980年代半ばには、要職を歴任した藤波氏はかなり存在感のある政治家だったと記憶しています。中曽根内閣では、「ニューリーダー」の安倍晋太郎・竹下登・宮澤喜一の三氏ほどではないとしても、注目の政治家でした。少なくとも、当時は後藤田氏より知名度が大きく劣っていたとは思いません。しかし現代では、とくに若い層で、伝説の切れ者として語り継がれている後藤田氏よりも知名度はかなり低そうで、かつて中曽根内閣で官房長官を務めていたことが忘れ去られていても不思議ではないかな、とも思います。かつては将来を嘱望されながら、リクルート事件発覚後は不遇のまま政治生活と生涯を終えた藤波氏のことは、わりと強く印象に残っていたので、上記の記事を読んで残念だったというか、寂しく思ったものです。
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